第六話:禁断の領域と騎士の覚悟
第六話:禁断の領域と騎士の覚悟
古びた扉の向こうは、広い空間になっていた。しかし、そこはただの地下室ではなかった。禍々しい魔力が充満し、部屋の中央には、複雑な魔法陣が描かれている。魔法陣からは、先程まで聞こえていた、不気味な唸り声が発せられていた。そして、その魔法陣の傍らには、辺境領主とその側近たちが、傲慢な笑みを浮かべて立っていた。彼らの周りには、ヴァルカン兵らしき姿も見える。彼らの目は、魔法陣の輝きに魅入られているかのようだ。
「やはり、あの領主が…!裏切り者ね!」
アリアナは、目の前の光景を見て、確信した。同時に、この場所が、辺境の異変、禁断の魔法、ヴァルカン、そして王宮内の陰謀が全て繋がる、この悪しき計画の中心地であると理解した。その美貌は、怒りの表情でさらに気迫を帯び、まるで憤る戦乙女のようだ。
辺境領主は、アリアナとゼノスが現れたことに気づき、驚きに目を見開いた。しかし、すぐにその顔に、不敵な、そしてどこか狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「ほう、紅玉の女王陛下自ら、このような薄汚い場所へおいでになるとは。光栄の至りですな。案内役のつもりはありませんでしたが、結果として道案内をしてしまったようで。」
その声には、微塵も敬意が含まれていない。アリアナは、その領主の態度に、怒りを覚えた。
「領主。なぜこのような真似を?ヴァルカンと手を組み、禁断の魔法に手を出そうとしているのか!この王国を、滅亡させたいというのか!」
アリアナは、毅然とした、しかし怒りを込めた声で問い詰めた。その声は、この地下空間全体に響き渡るかのようだ。
「なぜ?簡単なことです。新たな時代の到来のためです。この古臭い王国は、陛下のような若造に任せておけるものではない!我々のような、真に力を持つ者が支配すべきなのです!そして、そのために、この禁断の魔法の力が必要なのです!」
領主は高らかに笑った。魔法陣から発せられる唸り声が、その笑い声に重なる。その姿は、狂気に魅入られた愚か者にしか見えなかった。
「愚かな…その力が、どれほど危険か分かっているのか!かつてこの王国を滅亡寸前に追いやった、災厄の力だ!それを制御できるとでも思っているの!?」
「知っていますとも!だからこそ、手に入れる価値がある!そして、陛下、あなたにも、その力を分け与えましょう。私と共に、新たな世界を作りませんか?あなたのその魔力と、この禁断の魔法があれば、世界など意のままですぞ!」
領主は、アリアナに手を差し伸べた。その目は、欲望にギラついている。
「馬鹿なことを言わないで!私は、この王国を、民を守る!あなたのような裏切り者と手を組むなど、ありえない!それに…あなたのような、力の誘惑に負けるような卑しい人間とは、息をするのも嫌だわ!」
アリアナは、きっぱりと拒絶した。彼女の言葉には、迷いも恐れもなかった。そして、後半は、彼女らしい、少し辛辣な物言いだった。
「そうですか…残念だ。陛下のその美貌と力も、ここで終わりですな。番犬と共に、塵となって消えるが良い!」
領主は、ゼノスを嘲るように「番犬」と呼び、さらに「塵となって消える」と言い放った。その言葉に、ゼノスの全身から、凍てつくような冷たい殺気が放たれた。彼は、自分が何を言われようと構わない。騎士とは、主君のために全てを捧げる存在だ。しかし、アリアナを侮辱する言葉、そして彼女の命を奪おうとする行為は、決して許せない。
「陛下に、無礼な口を叩き、危害を加えようとする者には、容赦しない。」
ゼノスは、低い声で言った。その声は、氷のように冷たく、鋼のように硬い。そして、その目には、怒りの炎が宿っている。
「ほう、番犬が牙を剥くか。良いだろう、相手をしてやる!お前たち、やれ!番犬を始末しろ!」
領主は、ヴァルカン兵たちに指示を出した。複数のヴァルカン兵が、一斉にゼノスに襲いかかる。彼らは、ゼノスを「番犬」と侮りながらも、その全身から放たれる尋常ならざる気迫に、僅かに怯えているのが見て取れた。
「ゼノス!危ない!」
アリアナは、ゼノスを案じて叫んだ。
「陛下!お下がりください!」
ゼノスは、アリアナを背後へ庇いながら、ヴァルカン兵たちと剣を交える。狭い空間での乱戦が始まった。魔法陣から発せられる唸り声が、戦闘の音に重なる。
ゼノスの剣は、怒りと使命感によって、まさに神速の域に達していた。彼は、アリアナに迫る全ての敵を、寸分の狂いもなく排除していく。剣閃が飛び交い、金属音が響き渡る。彼の動きは、まるで漆黒の嵐のようだ。彼の頭の中にあるのは、ただ一つ、アリアナの安全だけだ。
しかし、ヴァルカン兵たちは訓練されており、連携も取れている。さらに、彼らの間には、この地下空間の構造を熟知している者もいるようだ。ゼノスは、アリアナを守ることに集中せねばならず、自身の動きが制限される。
「ふっ、さすがは女王陛下の番犬。なかなかやるではないか。だが、いつまで持つかな?」
領主は、戦況を見ながら、余裕綽々で言った。彼は、ゼノスの体力が尽きるのを待っているのだ。
その言葉に、ゼノスはさらに怒りを燃え上がらせた。彼は、自分がアリアナの「番犬」と呼ばれることなど、どうでもいい。しかし、アリアナが、このような裏切り者によって危機に晒されているという事実に、耐えられなかった。そして、彼の体が傷つくたびに、アリアナが心を痛めるであろうことが、何よりも辛かった。
一人のヴァルカン兵が、ゼノスの隙を突き、アリアナに向かって突進してきた。アリアナは、自身の魔力で応戦しようとするが、狭い空間では力を制御するのが難しい。さらに、周囲に満ちる禍々しい魔力が、彼女の魔力行使を妨げているかのようだ。
「陛下!」
ゼノスは、咄嗟にアリアナの前に飛び出し、その攻撃を自身の体に受け止めた。
「ぐっ…!!」
ヴァルカン兵の剣が、ゼノスの脇腹を深く切り裂いた。先程の傷とは比べ物にならない深さだ。鮮血が飛び散り、彼の騎士服を瞬く間に赤く染める。
「ゼノス!!!」
アリアナは、悲鳴を上げた。体が硬直する。ゼノスが自分を庇って傷ついた!王宮での傷、そして野営地での傷に続き、またしても…!しかも、今回は致命傷になりかねない!
「この…っ…!!」
ゼノスは、激しい痛みに顔を歪めたが、その痛みを力に変え、ヴァルカン兵を渾身の一撃で両断した。そして、血が流れる脇腹を押さえながら、アリアナの方を振り返った。
「陛下…ご無事ですか…!?」
その顔は、苦痛に歪んでいるが、アリアナの無事を確認したことに、深い安堵の色が浮かんでいた。彼の唇からは血が流れ、呼吸は浅い。
アリアナは、ゼノスの傷を見て、顔から血の気が引いた。彼の騎士服が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「ひ…ひどい…ひどい傷だわ…!ゼノス!なぜまた、そんな無茶を…!私のために…!私のために、自分の命を削って…!」
アリアナの声は震えていた。彼女の紅玉の瞳に、大粒の涙が滲む。美貌の女王が、今、愛する騎士の傷に心を痛め、涙を流そうとしている。その痛ましいほどの美しさに、ゼノスは目を奪われる。
「…私の、役目でございます…陛下の剣として、当然のことを…」
ゼノスは、かろうじて言葉を絞り出す。しかし、彼の声には力がなく、消え入りそうだ。
「役目なんかじゃない!どうして、あなたはいつも…!自分のことを何も考えないの!あなたは、私の…私の…!」
アリアナは、ゼノスに駆け寄ろうとした。しかし、領主がそれを遮った。
「おやおや、お熱いことで。美貌の女王陛下が、傷だらけの番犬に涙とは。哀れですな。」
領主は嘲笑った。彼の目は、アリアナの流しそうになっている涙を見て、歪んだ喜びを浮かべている。
「黙りなさい!あなたなんかに、ゼノスの何が分かるというの!あなたのような卑しい裏切り者には、彼の忠誠心の、微塵たりとも理解できないでしょう!」
アリアナは、怒りを込めて領主を睨んだ。その怒りは、王国への裏切りだけでなく、ゼノスを侮辱されたこと、そして彼が傷ついたことに対する、彼女の純粋な感情だった。
「陛下…いけません…領主を…」
ゼノスは、弱々しい声でアリアナに指示を出す。自分に構っている場合ではない。この隙に、領主やヴァルカン兵を…!
しかし、アリアナはゼノスの言葉を聞かなかった。彼女の怒り、悲しみ、そしてゼノスへの深い感情は、禁断の魔法によって増幅されたかのように、部屋全体に広がる禍々しい魔力と共鳴し始めた。彼女の周囲の空気が歪み始める。
「お前たちのような裏切り者に…私の大切なものを…奪わせはしない…!私の王国も…私の民も…そして…私の剣も…!」
アリアナの紅玉の瞳が、強く、強く輝き始めた。部屋全体を満たしていた禍々しい魔力が、アリアナの周囲に吸い寄せられていく。それは、彼女自身の、純粋で強大な魔力と混ざり合い、制御不能なほどの力を生み出しているかのようだった。
「…!?何だ、この魔力は…!女王陛下、まさか、力を暴走させるつもりか!?」
領主は、アリアナから放たれる圧倒的な魔力に、驚愕と恐怖の声を上げた。彼の顔から、傲慢な笑みが消える。
アリアナは、意識が朦朧としていくゼノスの傷ついた姿を再び見た。そして、彼が自分のために流した血を見て、怒りと悲しみ、そして彼への深い、深い愛情が、彼女の心の中で、まさに奔流となって爆発した。
「ゼノス…!私の剣…!私の、私の、私の…っ…!!!」
アリアナは叫んだ。その叫び声と共に、彼女の全身から、眩い、緋色の光が放たれた。それは、紅玉のような、しかし圧倒的な破壊力を持つ光だった。
魔法陣から放たれていた唸り声が、アリアナの叫び声と光に反応し、さらに大きくなる。魔法陣が不安定に輝き始め、制御を失ったかのように暴走を始めた。
「…まずい!禁断の魔法が…!止めるんだ!」
領主が慌てた声を上げる。彼は禁断の魔法を操ろうとしていたが、アリアナの魔力の奔流によって、その制御を奪われてしまったのだ。
アリアナから放たれた光は、部屋中のヴァルカン兵と領主たちを一掃した。彼らは悲鳴を上げ、光の中に、塵のように消えていく。ゼノスは、その光の奔流の中で、アリアナの背後で、彼女の強大な魔力と、感情の爆発を全身で感じていた。それは、彼の知る女王陛下の力とは、全く異なる、本能的な、剥き出しの力だった。そして、その力が自分に向けられていることに、彼は深い感動を覚えていた。
光が収まった後、部屋にはアリアナと、傷つき倒れかけたゼノスだけが残されていた。魔法陣は沈黙し、唸り声も止まっている。辺境領主たちの姿は、跡形もなく消え去っていた。
アリアナは、ぜぇぜぇと荒い息切れをしながら、ゼノスの元へ駆け寄った。彼女の全身からは、まだ微かに魔力の残滓が発せられている。その美貌は、魔力行使の疲労と、心配の色で曇っていた。
「ゼノス!大丈夫!?ひどい怪我…!返事をして!」
アリアナは、ゼノスの脇腹の傷を見て、顔面蒼白になった。その傷口は深く、出血は止まらない。彼女の手は震えている。
「…陛下…ご無事で…何よりです…」
ゼノスは、かろうじて言葉を絞り出す。彼の意識は朦朧としていた。しかし、アリアナが無事であることだけを確認しようとしていた。
「バカ!私の心配なんかしてる場合じゃないでしょう!?あなたの傷が…!こんなに血が…!」
アリアナは、ほとんど泣きそうになりながら、ゼノスの傷に触れようとした。彼女の指先が、ゼノスの服の血に触れる。
「汚れております…お触りにならないで…陛下の手が…」
ゼノスは弱々しい声で言った。彼は、自分が血と土埃で汚れていることを気にしていた。アリアナの神聖な御手が、自分の血で汚れることを恐れていた。
「そんなこと、どうでもいいでしょう!?あなたの命に比べたら!私が、私がすぐに手当を…!」
アリアナは、パニックになりながら、自身の魔力でゼノスの傷を癒そうとした。しかし、先程の強大な魔力行使で、彼女自身の魔力も極度に消耗している。回復魔法の効果は限定的だった。傷口を塞ぐことさえ、ままならない。
「くそっ…!どうして、もっと力が…!どうして、あなたを救えないの…!」
アリアナは、自分の力の限界に歯痒さを感じ、悔しそうに拳を握りしめた。美少女女王の、無力な涙が、今にも零れ落ちそうだ。
ゼノスは、そんなアリアナの様子を見て、力なく、しかし優しい笑みを浮かべた。
「陛下…私のために…そこまで…お心を痛めて…いただけるなど…」
「当たり前でしょう!?あなたは…あなたは私の…剣…!」
アリアナは、言葉を選びながら言った。その言葉は、いつも通りの「私の剣」という表現だった。しかし、その声には、主従関係だけでなく、もっと個人的な、深い感情が込められているように聞こえた。それは、彼の存在が、彼女にとってどれほど重要であるかを物語っていた。
(陛下は…私を…必要と…そして…案じて…くださる…)
ゼノスは、アリアナの言葉と、彼女の顔に浮かぶ切羽詰まった表情を見て、彼の心の中で、確かな、そして温かい感情が湧き上がるのを感じた。それは、忠誠心だけでは説明できないものだった。愛されている、という感覚に近いものだった。
「陛下…私は…あなたを…」
ゼノスは、意識が遠のいていく中で、アリアナへの秘めた想いを、今度こそ口にしようとした。このまま意識が戻らないかもしれない。ならば、最後に、この想いを伝えたい。主従の壁など、もはやどうでもよかった。
しかし、その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。ゼノスの視界が暗転し、意識は、アリアナの美貌と、彼女の悲痛な叫び声を聞きながら、暗闇へと沈んでいった。
「ゼノス!?ゼノス!生きて!命令よ!」
アリアナは、意識を失ったゼノスを、崩れ落ちるように抱きかかえた。彼の体は、ひどく冷たくなっている。脇腹の傷からは、血が止まらない。
禁断の魔法の領域での戦いは、辺境領主たちの裏切りを暴き、恐るべき力を封じることには成功したが、女王の最も忠実な騎士は、その代償として深手を負った。
暗く冷たい地下空間に、美貌の女王の悲痛な叫びだけが響き渡っていた。そして、彼女の腕の中で、騎士は静かに、死んだように横たわっていた。
二人の主従関係の恋は、今、最大の危機を迎えていた。女王は、最愛の騎士を失うかもしれないという、絶望の淵に立たされていた。