第五話:辺境の罠と騎士の奮戦
第五話:辺境の罠と騎士の奮戦
野営地を襲撃してきたヴァルカン兵は、幸いにも斥候部隊だったようだ。ゼノスは瞬時に剣閃を走らせ、アリアナを完璧に庇いながら、彼らを撃退した。アリアナも自身の魔力でゼノスを援護し、侵入者たちを排除した。戦闘後、アリアナの服には、微かな土埃と、彼女自身の魔力の輝きの残滓が付着していた。
しかし、それは警告だった。前線に近づくにつれて、危険が増していくことを示唆していた。そして、王宮での襲撃に続き、敵がアリアナの居場所をピンポイントで把握している可能性が高まった。
「…どうして、ここにいるって分かったのかしら。まったく、油断も隙もあったもんじゃないわね。」
襲撃者を倒した後、アリアナは険しい表情で呟いた。彼女の美貌が、今は怒りと緊張感で研ぎ澄まされている。ゼノスは、そんなアリアナの服についた埃を、無意識に手で払おうとして、寸前で止めた。アリアナの身に触れることは、護衛としての務めを超えた、彼の秘めたる想いが形になるようで、恐ろしかった。
(いけない…陛下のお召し物に、気安く触れるなど…不敬極まる…)
ゼノスは内心で自分を叱責し、代わりにそっと自身の甲冑についた埃を払った。その仕草に、アリアナは気づかない。
「おそらく、王宮からの情報が漏れています。あるいは、我々を追跡している者が。いずれにせよ、王宮内の裏切り者が存在することは、ほぼ確実かと。」
ゼノスは冷静に分析する。
「やっぱり…あの宰相かしら…」
アリアナは、悔しそうに唇を噛んだ。彼女の美貌が、今は苦悩の色に歪んでいる。
「可能性はございます。しかし、現時点では証拠がありません。迂闊な行動は、かえって相手を利するだけでしょう。」
ゼノスは、冷静に状況を判断し、アリアナに助言した。
「…分かってるわよ、そんなこと!」
アリアナは、ゼノスの言葉に、また少し語気を強めた。それは、彼を責めているのではなく、自身の無力さへの苛立ちだ。信頼していた相手かもしれない人物が、自分を裏切っているかもしれないという事実に、彼女の心は傷ついていた。
「しかし、ご無事で何よりでございます。」
ゼノスは、安堵の思いを込めて、再度、アリアナに伝えた。彼の声には、一切の偽りがない。彼にとって、アリアナの無事だけが、この世で最も重要なことなのだ。
「べ、別に、あなたに心配されたいわけじゃないわよ!当然のことでしょう!?あなたが私の護衛なんだから!ちゃんと仕事しなさいよ!」
アリアナは、ゼノスの言葉に、強く反応してしまっていた。そして、その声は、ほんの僅かに震えていた。今しがた襲撃を受けたことへの恐怖が、完全に消えたわけではないのだ。そして、ゼノスが自分を守ってくれたことへの、素直になれない感謝の気持ちも含まれている。
(…心配…そうです、私は陛下を心底心配しております…しかし、それを口にすることは、陛下のプライドを傷つけるのかもしれない…あるいは、私の『心配』という感情が、陛下の『護衛』という役割を超えた、不純なものだと見抜かれてしまうことを恐れているのか…?)
ゼノスは、アリアナの言葉の裏にある「強がり」と、自分自身の秘めたる感情について、内心で深刻な自己分析を始めた。彼女は、女王として常に強くあろうとしている。だからこそ、弱さを見せられる相手である自分に対して、意地っ張りな態度をとるのだろう。それは、彼を信頼している証拠でもあり、同時に、主従の壁を再確認させる言葉でもあった。
「御意。私の務めを、果たしました。今後も、寸分の隙もなく、陛下をお守りいたします。」
ゼノスは、敢えて、騎士としての務めを強調するように、淡々と応えた。それは、アリアナの「当然のこと」という言葉を受け止めた、忠実な騎士としての返答だった。しかし、内心では、「あなたの無事が、私の全てです。あなたのためならば、この命、何度でも盾にいたします」という言葉を、叫びたかった。そして、「あなたが、私の、全てだから…」と、続く言葉を飲み込んだ。
アリアナは、ゼノスの返答に、「ふん」と鼻を鳴らしたが、どこか不満そうだ。
「…全く、面白くないんだから。たまには、なんか…気の利いたこととか、言えないわけ?」
小さな声で呟かれたその言葉を、ゼノスは聞き逃さなかった。
(面白くない…?気の利いたこと…?私の返答は、陛下にとって面白くない…?)
ゼノスは内心で再び混乱する。面白い返答とは?冗談や軽いからかい?しかし、騎士が主君に対し、そのような不敬な態度をとるなど…いや、しかし陛下は「たまには」と仰られた。それは、時と場合によっては許容されるということか?どのような状況で?そして、「気の利いたこと」とは?どのような気が利いた返答をすれば、陛下はお気に召されるのだろうか…?
ゼノスが思考の迷宮に深く入り込んでいると、アリアナはくすっと笑った。
「ふふっ。何をそんなに難しい顔してるのよ。本当に面白いわね、あなた。」
(…面白い…?)
ゼノスは、自分が陛下にとって「面白い」存在であることを、どう捉えるべきか悩む。面白いというのは、良い評価なのか?それとも、呆れられているのか?
「滅相もございません!陛下の御言葉の真意を、深く理解しようと…」
「だから!真意なんてないわって言ってるでしょう!?単なる私の気まぐれよ!それに、あんたのああいう顔が、なんか…面白いだけ!」
アリアナはそう言って、ゼノスから顔を背けた。しかし、その頬が僅かに赤らんでいるのを、ゼノスは見逃さなかった。そして、「ああいう顔」が「面白い」と言われたことへの、複雑な感情が湧き上がる。自分が陛下を楽しませることができているという喜びと、しかしそれは彼の完璧であろうとする騎士としての姿からはかけ離れているのではないか、という不安。
(気まぐれ…?陛下の御言葉が、気まぐれ…?しかし、女王陛下の御言葉に、気まぐれなど存在してはならないはず…いや、しかし、陛下は私にだけ、気まぐれという名の素顔を見せてくださる…?)
ゼノスはまたしても混乱するが、同時に、アリアナが自分にだけ見せる「気まぐれ」という名の素顔に触れたことに、密かな、そして強い喜びを感じていた。それは、主従の壁を越えて、彼女のパーソナルな部分に触れることができた、という証拠なのだから。
「はぁ…いいわよ。あなたの石頭ぶりは、もう諦めてるから。」
そう言って、アリアナは少し歩き出した。荒廃した村を通り過ぎ、一行は目的地の辺境領主の館に到着した。広大で古い館は、どこか陰鬱な雰囲気を纏っていた。その威圧的な外観も、アリアナの美貌の前ではかすんで見えるほどだった。
出迎えた辺境領主は、ニコニコと愛想が良いが、その目は笑っていない。顔には張り付けたような愛想笑いが浮かんでいる。
「紅玉の女王陛下にお目にかかれるとは、光栄の極み!まさか、この辺境の地まで御足労いただけるとは!我々、辺境の民にとっては、陛下はまさに希望の光でございます!」
領主は、大袈裟なくらい恭しい態度でアリアナを迎えた。その言葉は、過剰なほどで、逆に不自然さを際立たせている。
アリアナは、領主に対し、カリスマ女王の顔で応対する。優雅な微笑みを浮かべながら、鋭い視線で領主の表情や言葉の端々を観察する。その美貌と威厳は、領主を圧倒するかのようだった。
「領主殿、歓迎感謝いたします。この地の状況について、詳しくお聞かせ願えますか。」
「もちろんでございますとも。魔物が増加し、ヴァルカン兵の小規模な侵入もございましたが、我々がしっかりと対処しておりますゆえ、ご心配には及びません。全て、順調でございます。」
領主は自信満々に言ったが、その目が一瞬、館の奥の方に向けられたのを、アリアナは見逃さなかった。そして、その言葉の端々に、僅かな違和感を感じる。
(怪しいわね…「全て、順調」?こんな状況で?嘘をついているわ。)
アリアナは内心で呟き、ゼノスに目配せした。ゼノスは、アリアナの意図を汲み取り、静かに館の中や周囲の警備状況を注意深く観察し始めた。彼の目は、常に周囲の微細な変化を捉えている。領主の兵士たちの配置が、不自然に特定の場所を避けていることに気づいた。
館での滞在中、アリアナは領主の不審な言動にさらに気づく。魔物やヴァルカン兵に関する情報が、どこか曖昧だったり、矛盾していたりするのだ。また、館の奥の方、特に地下への階段があるあたりから、時折、奇妙な、低い唸り声のようなものが聞こえてくる気がした。
夜になり、アリアナは自室でゼノスと二人きりになった。
「やっぱり、あの領主、何か隠してるわ。彼の話、どうも辻褄が合わないし、あの唸り声みたいなのも気になる。」
アリアナは、眉間にシワを寄せて言った。美貌が、分析的な表情になっている。
「私も同感です。館の警備も、通常よりも緩く、特定の場所への誘導を感じさせます。あの唸り声は、ただの魔物ではないかもしれません。」
ゼノスは、自身の観察結果と推測を報告する。
「特定の場所へ…?そして、唸り声…まさか、禁断の魔法に関係が?」
アリアナは、ハッと顔を上げた。王宮で聞いた、ヴァルカン兵が禁断の魔法に関係する紋様を使っていたという報告が脳裏をよぎる。この館が、その禁断の魔法の封印に関わっている、あるいは、その力を研究している場所なのかもしれない。
「可能性がございます。特に、あの地下への通路は、通常の館の構造としては不自然です。」
「地下…不自然な通路…」
アリアナは考え込む。そこには、辺境の異変、そして王国全体を揺るがす陰謀の鍵があるのかもしれない。しかし、同時にそれは、極めて危険な場所だろう。
「…危険な場所ね。でも、行ってみる価値はあるわ。知らずにいるわけにはいかないもの。」
アリアナは、決意を固めた。その紅玉の瞳に、強い探求心と使命感が宿る。ゼノスは、アリアナの言葉に身が引き締まる思いだった。
「陛下、危険すぎます。私一人で…私が先行して、安全を確保いたします。その後、陛下に状況を…」
「何を言ってるのよ!あなたに一人で行かせて、また怪我でもされたらどうするの!?王宮で傷ついたばかりでしょう!」
アリアナは、ゼノスの言葉を遮り、少し怒ったように言った。それは、心配していることの裏返しであり、彼の無事を強く願う気持ちが溢れている。
(陛下が…私の身を、これほどまでに案じて…)
ゼノスは、アリアナの優しさに、内心で跳ねた。彼女が自分にだけ見せる、この弱い部分。それは、彼にとって何よりも尊いものだ。
「それに…あなたの石頭じゃ、一人で行かせたら、変な真似をして、閉じ込められてしまうかもしれないし!私がいないと、ちゃんと道も見つけられないでしょう!?」
アリアナは、付け加えた。それは、単なる強がりだけではなく、少し意地悪な、からかいの要素も含まれているようだった。
(…石頭…変な真似…道が見つけられない…?)
ゼノスは、自分が単独行動した場合に「変な真似」をする可能性、そして「道が見つけられない」ほど方向音痴なのか、について真剣に考え始めた。私は騎士団長であり、斥候の訓練も受けている。方向感覚に問題があるという自覚はない。陛下は、私の能力を疑われているのだろうか?それとも、これはやはり単なるからかいで…?
「陛下、私の方向感覚に問題は…」
「もういいのよ!とにかく、私も行くの!あなたに何かあったら、私が困るでしょう!私が、あなたがいなくて、困るのよ!」
アリアナは、ゼノスの言葉を遮り、さらに強い口調で言った。「私が困る」という言葉は、彼女にとって、ゼノスへの重要度を示す、最大限の、そして最も素直な表現だった。
(私が困る…陛下にとって、私は、お困りになるほど…重要な存在…?騎士として…それとも…?)
ゼノスの内心は、歓喜と困惑がないまぜになる。彼の理性の壁が、感情の波に打ち砕かれそうになる。そして、その喜びを隠すため、彼はいつもの無表情を保つのが、いよいよ困難になってきた。顔色が、少し赤くなっているかもしれない。
「…しかし、陛下の御身に万が一でもあれば…私が…」
「だから!あなただって同じでしょう!?万が一があったら、私が困るのよ!寂しいのよ!もう、分からずや!本当に石頭!」
アリアナは、ゼノスの言葉を遮り、今度は完全に拗ねたような、そして少し寂しそうな顔をした。美貌が、拗ねた表情でさらに可愛らしく見える。そして、「寂しい」という言葉が、ゼノスの心臓に直接突き刺さった。
(寂しい…陛下が…私がいないと…寂しいと…?)
ゼノスは、その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。それは、主従の枠を完全に超えた、パーソナルな感情だ。女王が、臣下に対して「寂しい」と言うなど、ありえないことのはずだ。しかし、アリアナは確かにそう言った。しかも、拗ねた顔で。
「…分かりました。私も、お供いたします。陛下の傍らをお離れするわけにはいきませんゆえ。」
ゼノスは、アリアナの強い意志と、彼女の言葉の裏にある、剥き出しの本音を感じ取り、折れることにした。アリアナの傍を離れることなど、最初から考えられないのだ。彼の内心では、「寂しい」という言葉が、甘い毒のように心を満たしていた。
「最初からそう言えばいいのよ…まったく、手間取らせるんだから。」
アリアナは、ホッとしたような顔をして呟いた。そして、ゼノスが自分のことを「必要」としてくれているという事実に、密かな喜びを感じていた。
深夜。アリアナとゼノスは、人目を忍んで館の地下へと続く隠し通路に足を踏み入れた。ゼノスが事前に見つけておいた、隠された扉だ。暗く湿った通路は、不気味な雰囲気を纏っている。ゼノスは、常に周囲を警戒し、アリアナを庇うように歩く。
「うわっ…何かいる…?ひゃっ!」
突然、アリアナが小さく悲鳴を上げた。暗闇の中に、何かが素早く動く気配がしたのだ。思わず、ゼノスの腕を掴んでしまった。
(!?…陛下が、私の腕を…!)
ゼノスは、アリアナに触れられたことに再びパニックになりそうになるが、すぐに騎士としての務めを思い出す。
ゼノスは瞬時に剣を抜き、アリアナを背後へ隠す。
「陛下、お下がりください。」
剣の切っ先が、暗闇に向けられる。しかし、何も出てこない。先程よりも大きな物音だったが、やはり敵意のある気配ではない。
「…?何だったのかしら…大きなネズミ…?」
アリアナが首を傾げる。まだゼノスの腕を掴んだままだ。
「…おそらく、大型のネズミか、ネズミを捕食する魔物かと。ご安心ください。私が、陛下を必ずやお守りいたしますゆえ。」
ゼノスは言った。アリアナは、ゼノスが自分を守ろうとしてくれたこと、そして彼の言葉の力強さに、少し照れたような顔をした。そして、掴んでいた腕を離す。
「べ、別に、怖がってたわけじゃないわよ!ただ、大きなネズミかと思って驚いただけ!ネズミは、ちょっと苦手なのよ!」
(…ネズミが…苦手…!?)
ゼノスは、あのカリスマ溢れる女王陛下が、可愛らしいネズミを苦手とされているという事実に、新たな愛らしさを発見する。そのギャップが、たまらなく愛おしいと感じる。
「…御意。今後は、ネズミにも警戒いたします。」
ゼノスは、真面目に、しかし内心では少し微笑ましく思いながら応えた。
「だから!ネズミに警戒とか!そういう問題じゃなくて!もういいわ!早く進みましょ!」
アリアナは、ゼノスの真面目すぎる反応に、またしても呆れた顔をした。そして、少し拗ねたように先を促す。
二人は、さらに地下通路を進む。通路の奥から、微かな、しかし奇妙な唸り声のようなものが聞こえてきた。それは、魔物の声とも違う、禍々しい、そしてどこか人工的な響きだった。
そして、通路の先に、古びた扉が見えてきた。そこから、その唸り声はさらに大きくなっていた。扉には、見慣れない、複雑な紋様が刻まれている。辺境の報告にあった、禁断の魔法に関連する紋様だろう。それは、見る者に畏怖の念を抱かせる、不気味な美しさを持っていた。
「…ここね。」
アリアナは、緊張した面持ちで言った。その美貌に、強い決意の光が宿っている。ゼノスは、剣を握り直す。この扉の向こうに、辺境の異変、そして王国全体を揺るがす陰謀の鍵があるかもしれない。そして、その鍵は、禁断の魔法という、王国の歴史に関わる恐るべき秘密と繋がっている可能性が高い。
「陛下、私が先に…扉を開け、安全を確認いたします。」
ゼノスが扉を開けようとした。これは、騎士としての当然の務めだ。最も危険な場所に、主君を先に立たせるわけにはいかない。
しかし、アリアナがその腕を掴んだ。今度は、寝ぼけて掴んだ時とは違う、確かな意志のこもった力で。
「駄目よ。一人で先に行かせないわ。何があるか分からないもの。それに…」
アリアナは、ゼノスの瞳を真っ直ぐに見つめた。その紅玉の瞳に宿る強い意志と、そしてゼノスへの深い信頼。そして、そこに僅かに混じる、個人的な、心配の色。
「…あなたに、何かあったら、嫌だから。」
その言葉は、小さく、しかしゼノスの心に深く響いた。それは、主従の壁を超えた、紛れもない本音。
ゼノスは、アリアナの言葉に何も言えず、ただ、強く頷いた。そして、彼女が掴む腕に、そっと力を込めた。それは、応えることのできない、しかし確かに受け止めた、彼の返事だった。
そして、二人は並んで、古びた扉を開けた。
扉の向こうから、冷たい、瘴気を帯びたような空気が吹き付けてきた。そして、その奥から聞こえてくる唸り声は、さらに大きく、そして不気味さを増していた。辺境の罠、そして禁断の魔法の秘密が、今、明らかになろうとしていた。そして、その秘密は、二人の主従関係の恋をも、抗えない嵐の中へと巻き込んでいく。
 




