第三話:辺境からの影と宰相の思惑
第三話:辺境からの影と宰相の思惑
執務室での襲撃は、アストライア王国、特に王宮の中枢に大きな衝撃を与えた。女王直属の執務室という、最も安全であるべき場所が侵された事実は、王国に潜む脅威が、想像以上に深く根を張っていることを示していた。
アリアナは、襲撃者たちの処理と、王宮内の警備体制の強化を指示した後、疲労困憊の様子で椅子に座り直した。肩の傷を手当されたゼノスは、痛みを顔に出さず、いつものようにアリアナの傍らに控えている。彼の肩に巻かれた真新しい包帯を見るたび、アリアナの胸は締め付けられた。自分のせいで彼が傷ついたのだという事実は、彼女の心を重くしていた。
「…まさか、この王宮の中まで入り込むとはね。警備は何をしていたのよ!全く、情けないことだわ!」
アリアナは苛立ちを隠せない様子で呟いた。机を軽く叩く。
「侵入者たちは、王宮の内部構造に詳しすぎました。手引きした者がいるのは、間違いありません。おそらく、かなり高位の人間かと。」
ゼノスは冷静に報告する。彼の声は常に平坦だが、その分析には鋭さがあった。
「…ええ、分かってるわよ、そんなこと!改めて言わないで!」
アリアナは、ゼノスの言葉に少し語気を強めた。それは、彼を責めているのではなく、自分自身の、事態を把握しきれていなかったことへの苛立ちだ。
「犯人の特定は急務ね。ゼノス、あなたの騎士団に捜査を命じて。あらゆる伝手を使い、徹底的に調べさせなさい。」
「御意。必ずや。」
ゼノスは恭しく頭を下げた。その横顔は、使命感に燃えているのが見て取れた。
その時、執務室の扉が再び開けられた。入ってきたのは、宰相エルードだった。彼は、心配そうな顔を装いながら、部屋を見回した。細い目が、部屋の隅々、そしてゼノスの肩の包帯にまで向けられる。
「陛下!ご無事との由、何よりでございます。このエルード、居ても立ってもいられず駆けつけました。」
エルードは、白い髭を揺らしながら、大袈裟に安堵の表情を見せた。しかし、彼の目に宿る光は、偽りのように冷たいものだった。ゼノスは、エルードの登場に内心で警戒を強める。彼の嗅覚が、この老獪な政治家の裏に何かを感じ取っていた。
「宰相。心配させてしまったわね。私は大丈夫よ。見ての通り、無傷だわ。」
アリアナは、エルードに対し、冷静な女王の顔で応対する。その美貌は、緊張感の中でも揺るぎない威厳を放っていた。
「おお、それは何よりでございます。これも、ゼノス騎士団長殿の御働きあってのことですな。流石でございます。しかし、お怪我をされているとか。陛下をお守りする者の体が、万全でなくては困りますな。何しろ、陛下は王国の至宝、その御身に万が一があっては…」
エルードは、ゼノスの肩の包帯に視線を向け、口元に僅かな嘲りを浮かべながら言った。その口調は称賛しているようだが、ゼノスにはそれが嫌味に聞こえた。あたかも、負傷したゼノスはもはや女王の護衛にふさわしくない、彼の不手際で陛下が危険に晒されたのだ、と言外に匂わせているかのようだ。
(この程度で、陛下の剣である私が折れるなど…ありえません。)
ゼノスは内心で反論したが、表情には出さない。
「この程度の傷、心配には及びません。既に手当も済んでおります。」
ゼノスは、表情を変えずに応じた。
「いやいや、そうは仰られましてもな。万が一ということもございますからな。陛下におかれましても、より万全な体制を整えられることをお勧めいたしますぞ。特に、最近は若い方々も増えましたからな。血気盛んなのは結構ですが、経験不足もございます。ここは、古株の、経験豊富な者にも警備を分担させるとか、いっそ専任の護衛を…」
エルードは、ちらりとゼノスに視線を向けながら、アリアナに言った。それは、ゼノスを護衛から外せ、そして自分の息のかかった者を女王の傍らに置こうという意図が明白だった。エルードの狙いは、女王を操り、王国の実権を握ることだ。そのために、最も女王の信頼を得ているゼノスが邪魔だった。
アリアナの顔に、僅かな険しさが走る。彼女の紅玉の瞳に、氷のような冷たさが宿る。
「宰相、ゼノスの忠誠心と能力に、疑いの余地はありません。辺境での反乱鎮圧でも、彼は大きな功績をあげましたし、今回の襲撃でも、彼の働きがなければ、どうなっていたか…彼こそが、私の最も信頼する剣です。代わりなど、考えられません。」
アリアナは、はっきりとゼノスを擁護した。その口調には、一切の揺らぎもなかった。ゼノスは、その言葉を聞き、内心で胸が熱くなるのを感じた。陛下は、これほどまでに自分を信頼してくださっている。この信頼に応えるためならば、どんな犠牲も厭わない。
「…しかし、陛下。陛下の御身は、王国の未来そのもの。万が一、があっては…」
エルードは、なおも食い下がる。
「もういいわ、宰相。私の護衛は、私が決めます。ゼノス以外に、私の傍らに立つ資格のある者はいません。」
アリアナは、エルードの提案をきっぱりと、そして有無を言わせぬ口調で退けた。彼女のカリスマ性が、部屋全体に張り詰めた空気を作り出す。エルードも、女王の明確な拒否に、それ以上は言い募れず、顔を僅かに引きつらせた。
「…失礼いたしました。では、辺境からの報告についてですが…」
エルードは、巧みに話題を転換させた。内心では、ゼノスへの憎悪と、アリアナへの新たな警戒心を燃え上がらせていた。
辺境からの報告は、深刻なものだった。魔物の異常な増加と、隣国ヴァルカン兵の組織的な活動。そして、捕獲されたヴァルカン兵の一部が、奇妙な紋様を持つ道具を使っていたという情報。それは、古の禁断の魔法に関係するのではないか、という疑念を生じさせた。
「ヴァルカンが、禁断の魔法を…?まさか、あの恐るべき力を…」
アリアナの顔色が変わる。禁断の魔法。それは、かつてこの王国に破滅をもたらしかけた、恐るべき力だ。その力は、今も王国のどこかに封印されている、と伝えられている。
「可能性は否定できません。あの紋様は…古文書に記されたものと酷似しているとか。ヴァルカンが、その封印を解こうとしているのかもしれません。」
エルードは、深刻な顔で言った。だが、ゼノスには、その顔がどこか芝居がかっているように見えた。まるで、この禁断の魔法について、エルード自身も何かを知っているかのように。エルードは、この状況を、何かに利用しようとしているのではないか?ゼノスの疑念は深まる一方だった。
辺境の危機と、王宮内の陰謀。二つの脅威が、同時にアリアナに迫っていた。
エルードが去った後、執務室に再び静寂が戻った。アリアナは深くため息をつき、テーブルに肘をついて頭を抱えた。緋色の髪が、疲れたように肩から滑り落ちる。
「…禁断の魔法…ヴァルカン…そして、王宮内の裏切り者…一度にこれだけ来るとはね。本当に嫌になるわ。私、ちゃんとやれてるのかしら…」
その声は、先程の毅然とした女王のものではなく、不安に揺れる、疲れきった少女のものだった。その無防備な姿は、ゼノスの心を強く締め付けた。
ゼノスは、静かにアリアナの傍らに立った。そして、一歩だけ、彼女に近づいた。
「…陛下。あなたが、この王国で最も必要な方です。あなたが指揮を執られなければ、この王国は立ち行かなくなるでしょう。」
ゼノスは、自身の心を込めて、しかし冷静に聞こえるように言った。
アリアナは顔を上げ、ゼノスを見た。その紅玉の瞳に、迷いと不安の色が浮かんでいる。そして、ゼノスに向けられた視線は、まるで溺れる者が藁をも掴むような、縋るような色を帯びていた。彼女の美貌が、今は痛ましいほどに弱々しく見える。
「…ゼノス…」
アリアナはゼノスの名を呼んだ。その声は、弱々しく、そして僅かに震えていた。その声に、ゼノスの心臓は激しく鼓動する。
(陛下が…私に、助けを求めていらっしゃる…?この、誰にも見せない弱さ…この、私だけが知る女王の素顔…それを守るためならば…)
ゼノスは、アリアナの傍らに跪きたい衝動に駆られる。そして、彼女の手を取って、その小さな手を、自分の大きな手で包み込みたい、と願う。
しかし、アリアナはすぐに顔を背けた。そして、いつもの女王の口調に戻る。
「…べ、別に、あなたに頼ってるわけじゃないわよ!ただ、少し、ね!状況が複雑で、頭の整理が追いつかないだけなんだから!勘違いしないでよね!」
(…えええっ…!)
ゼノスは内心で驚いている。こんな状況においても、陛下はこのような態度を貫かれるのか。いや、もしかしたら、これが陛下にとって、不安を誤魔化す唯一の方法なのかもしれない。強がっているのだ。自分にだけ、こんな弱さを見せているのだ。
「…御意。陛下におかれましては、御無理なさいませんよう。私が、剣として、影としてお支えいたしますゆえ。」
ゼノスは、内心の動揺と、彼女の強がりに対する切ない愛おしさを隠し、平坦な声で応じた。しかし、彼の言葉の端々に、通常より強い、アリアナへの配慮と献身が滲んでいた。
アリアナは、ゼノスの方を振り返り、再び睨む。
「だから!無理なんてしてないって言ってるでしょう!?どうしてそういう風にしか受け取れないわけ!あなたの石頭は、もはや病気なんじゃないの!?もう、治療が必要よ!騎士団長辞めて、治療に専念したらどうなの!?」
「…騎士団長を…辞める…?治療…」
ゼノスは真剣に考え始める。本当に石頭が病気ならば、治療が必要だろうか?王宮に医師を呼ぶべきか?しかし、石頭を治す薬など聞いたことがない。もしかして、これは比喩表現か?陛下は、私がもっと柔軟な思考をすることを望んでいらっしゃる?しかし、剣は柔軟すぎても折れてしまう…そして、騎士団長を辞めるなど…陛下の傍らを離れるなど…それは、私の存在理由を否定することに等しい。
ゼノスが深刻すぎる顔で考え込んでいるのに、アリアナは今度は怒るよりも、その真面目さに噴き出しそうになった。
「…ふっ…ははは!」
アリアナは、堪えきれずに笑ってしまった。執務室に、女王の楽しそうな笑い声が響く。ゼノスは、突然の笑いに戸惑う。
「な、何がおかしいのですか、陛下?」
「だって…あなたの顔ったら!本当に、石頭のこと、病気だって信じてるんでしょ!あはは!」
アリアナは笑いながら、涙を拭った。その笑い声は、先程までの緊張感と不安を、一時的に吹き飛ばすかのように明るかった。美少女女王の、無邪気な笑い声。
(…陛下を…お疲れさせているのでは…?)
ゼノスは内心で反省する。しかし、陛下に笑みをもたらすことができたのであれば…この石頭も、案外役に立つのかもしれない。ゼノスは、内心で僅かに喜びを感じていた。
「もういいわ。あなたが石頭なのは、今に始まったことじゃないもの。それに…今の私には、あなたのその石頭ぶりが…必要みたいだから。絶対に騎士団長を辞めてはダメよ。」
アリアナはそう言って、書類に目を戻した。その口元には、まだ笑いの余韻が残っている。ゼノスの融通の利かなさ、真面目さが、彼女にとって、この困難な状況の中で、少しだけ心を和ませるものになっているのだ。そして、「必要」という言葉が、ゼノスの心に深く突き刺さった。
(陛下が…私を…必要だと…)
ゼノスは、内心で、その言葉を何度も反芻した。それは、騎士としての必要性だろうか?それとも…
その時、再び伝令が執務室に飛び込んできた。先程よりも、さらに緊迫した様子だった。
「陛下!緊急報!隣国ヴァルカンが、国境付近でさらに大規模な軍事行動を開始した模様!宣戦布告はまだですが、事実上の侵攻が始まったように思われます!前線からは、応援要請が!そして、王宮の各所にも、不審な動きが…!」
アリアナは、先程の笑みや疲労の色を一瞬にして消し去り、女王の顔に戻った。その紅玉の瞳に、強い決意と、冷徹な光が宿る。カリスマ女王の、臨戦態勢の表情だ。
「…そう。いよいよ、本格的に始まったのね。」
低く、しかし響き渡る声。アリアナは立ち上がり、ゼノスに視線を向けた。その視線は、揺るぎない信頼と、そして何か特別な、言葉にならない感情を含んでいた。
「ゼノス。準備を。あなたには、私と共に最前線へ行ってほしい。」
「御意。この命に代えましても、お守りいたします。」
ゼノスは深々と頭を下げた。彼の全身から、剣としての鋭い気が放たれる。王宮内の裏切り者と、辺境からの侵攻。二つの脅威が、今、王国に牙を剥こうとしていた。
そして、その嵐の中で、紅玉の女王と、彼女の剣、二人の主従関係の恋の物語は、さらに深く、切なく、そして、激動の展開へと突き進んでいく。