第二話:女王陛下の日常と騎士の誓い
第二話:女王陛下の日常と騎士の誓い
辺境からの緊急報は、王宮全体を一瞬にして張り詰めた空気で満たした。謁見の間の熱狂は冷め、代わって緊張感が支配する。玉座の間で「来たか」と呟いた女王アリアナは、即座に侍従や大臣たちに指示を飛ばした。
「国境警備隊に応援を!騎士団第二連隊と第三連隊に出撃準備を命じて!物資の輸送ルートを確保し、周辺領主たちにも警戒を強めるよう通達を!」
その声は、先程の演説とは異なり、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。次々と的確な指示が飛ぶ。混乱しかけていた大臣たちも、女王の迷いのない言葉を聞き、慌てて行動を開始した。この迅速かつ冷静な判断力こそが、アリアナが若くして王国を立て直せた理由の一つだった。カリスマは、民を鼓舞するだけではない。危機においては、組織を動かす羅針盤となるのだ。
ゼノスは、その間、一歩も動かずアリアナの傍らに立っていた。彼の役割は、女王の指示を復唱することでも、作戦を提案することでもない。ただ、女王の「剣」として、あらゆる脅威から彼女を守ること。そして、彼女の傍らにいること。
(陛下の、この御判断…一切の無駄がない…)
ゼノスは、アリアナの指示を聞きながら、改めてその頭脳明晰さに舌を巻く。危機においても揺るぎないその姿は、まさに王国の希望の光だ。
大臣や侍従たちが慌ただしく部屋を出ていく中、アリアナは椅子の背にもたれかかり、再び深々と溜息をついた。
「はぁ…また、面倒なことが増えたわ。」
先程までの鋭い表情が和らぎ、疲労の色が滲む。この、公務と私生活の間の、一瞬の顔。ゼノスだけが知る、女王の素顔だ。
「辺境の報告では、魔物の群れとヴァルカン兵が連携している節があるとか。嫌な予感がするわね。」
アリアナはゼノスを見ずに、虚空を見つめながら呟いた。
「…ヴァルカン兵が、魔物を操る術を開発した可能性もございます。」
ゼノスは、冷静に分析結果を口にした。
「…そうね。あり得るわ。」
アリアナは頷いた。そして、ふと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。王宮の庭園を見下ろす。
「…平和って、脆いのね。」
その背中は、まるで重い荷物を背負っているかのように小さく見えた。緋色の髪が、夕日に染まり、一層鮮やかな紅玉色に輝いている。
(陛下…)
ゼノスは、女王の傍らに立ちたい衝動に駆られるが、一歩踏み出すのを躊躇う。彼の役割は、傍らに立つことではない。影として、危険を取り除くことだ。
「…陛下がお守りになられる限り、この王国は揺るぎません。」
ゼノスは、絞り出すように、しかし強い意志を込めて言った。それは、アリアナへの慰めではなく、自身の誓いの再確認だった。
アリアナはゆっくりと振り返り、ゼノスを見た。その紅玉の瞳に、一瞬、驚きのような色が宿った。
「…ありがとう、ゼノス。でも、それはあなたの役目でもあるでしょう?わざわざ口に出して言うことでもないわ。」
(…!まただ!)
ゼノスは内心でパニックになる。せっかく勇気を出して、心からの思いを口にしたのに、また感情的な言葉で返されてしまった。しかも、「あなたの役目」という言葉は、彼の感情を全て「忠誠心」という枠に押し込めるかのようだ。
「…御意。私の、役目でございます。」
ゼノスは、感情を表に出さずに応える。内心では、「私の役目は、陛下をお守りすること。それも、この命に代えて。そして…」と、続く言葉を飲み込んだ。その続きは、決して口にできない、禁断の感情だ。
アリアナは、そんなゼノスの様子を見て、何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わず、再び書類の山へ向かった。
「さて…休んでる場合じゃないわね。書類を終わらせないと、明日からの指揮に響くわ。」
アリアナは椅子に座り直し、ペンを手に取った。しかし、その手つきは少しおぼつかない。辺境からの報告が、想像以上に彼女の心を揺さぶっているのだろう。
ゼノスは、静かにアリアナの傍らに寄り、茶器セットを手に取った。言葉は要らない。こういう時こそ、剣として、そして従者として、彼女を支える。
「…ん?」
アリアナが、ゼノスの行動に気づき、視線を向けた。
「あら。何も言ってないのに、気が利くじゃない。珍しいわね。」
(珍しい…?)
ゼノスは内心で首を傾げる。いつもこうしているのに。
「…いえ、いつものことでございます。」
「そう?…でも、今日のは、なんか…特別に気が利く感じがするわ。」
アリアナは、少しからかうような口調で言った。
(特別に気が利く…?一体、何が…?)
ゼノスは真剣に考え込む。茶葉を変えたわけではない。湯の温度もいつも通りだ。淹れ方も変えていない。しかし、陛下は「特別に気が利く」と仰られた。それは、私の心の状態が、茶を淹れるという行為に影響を与え、それが陛下の舌に伝わったということか?いや、それは魔法使いの領域だ。しかし、他になぜ…?
ゼノスが思考の迷宮に入り込んでいると、アリアナはくすっと笑った。
「ふふっ。何よ、その顔。また変なこと考えてるんでしょ?」
「滅相もございません!陛下の御言葉の真意を、汲み取ろうと…」
「いいのよ!真意なんてないわ!単なる私の気まぐれよ!」
アリアナはそう言って、ゼノスから顔を背けた。しかし、その頬が僅かに赤らんでいるのを、ゼノスは見逃さなかった。
(気まぐれ…?陛下の御言葉が、気まぐれ…?しかし、女王陛下の御言葉に、気まぐれなど存在してはならないはず…)
ゼノスはまたしても混乱するが、同時に、アリアナが自分にだけ見せる「気まぐれ」という名の素顔に触れたことに、密かな喜びを感じていた。
ゼノスが淹れた茶を、アリアナは受け取った。一口含み、目を閉じる。
「…ふぅ。やっぱり、美味しいわ。このお茶を飲むと、少しだけ…楽になる気がする。」
その言葉に、ゼノスの胸が大きく跳ねた。
「光栄でございます、陛下。」
「えっ、だから、別に、あなたが淹れたからだけ美味しいってわけじゃないわよ!この茶葉が良いの!あと、そう、カップもね!このカップの形状が、香りを引き立てているのよ!」
アリアナは慌てて言い繕い、また顔を赤らめた。まるで、ゼノスの淹れたお茶によって心が安らぐという事実を隠そうとしているかのようだ。
(茶葉とカップ…?確かに、それらも重要な要素ではあるが…しかし、陛下の御心に安らぎをお届けできているのであれば…)
ゼノスは、アリアナの言葉の奥にある、隠された本音を、わずかに感じ取っていた。彼女が自分を「特別な存在」として頼ってくれている可能性。それは、主従の壁に阻まれた彼の心に、一筋の光を差し込むような、切なくも甘い希望だった。
アリアナは、そんなゼノスの内心を知ってか知らずか、再び書類に目を向けた。
「さて…やるわよ。サボってる暇はないわ。」
ペンを持つ手に力がこもる。しかし、その肩にはやはり、王国を背負う重圧が乗っているのが見て取れる。
ゼノスは、静かにアリアナの傍らに立った。彼女の呼吸、ペンの音、書類をめくる微かな音。全てが、彼にとって女王の存在を確かめる音だ。
その時、また、王宮の廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。ゼノスは瞬時に身構える。これは通常の伝令や侍従の足音とは違う。複数の、焦燥感を伴った足音だ。
「…!?」
ゼノスは異変を察知し、アリアナの前に滑り出る。剣の柄を掴む。
「ゼノス?」
アリアナが怪訝な顔でゼノスを見る。
「陛下!お下がりください!」
ゼノスが叫んだ直後、執務室の扉が乱暴に開け放たれた。飛び込んできたのは、見慣れない数名の男たち。その装束から、彼らが王宮の者ではないことが一目で分かった。そして、彼らが持つ得物は、ただの護衛のものではない。
「女王アリアナだな!大人しく我々と来てもらおう!」
男たちは、獰猛な笑みを浮かべながら、アリアナに迫る。
「なっ…!侵入者!?」
アリアナは驚きに目を見開く。王宮の中枢、執務室まで侵入を許すなど、前代未聞だ。
その瞬間、ゼノスは迷わず剣を引き抜いた。漆黒の剣が、静かな音を立てて鞘から抜かれる。
「一歩でも近づけば、斬る。」
低く、しかし凍てつくような声が響き渡った。彼の目は、アリアナ以外、ただ敵だけを捉えている。彼の存在から放たれる圧倒的な殺気に、侵入者たちは一瞬怯んだ。
「なんだ、この騎士は…!王宮の護衛が、これほどとは!」
「構うな!数で押せ!女王を捕らえろ!」
男たちが一斉にゼノスに襲いかかる。ゼノスは、寸分の躊躇もなく迎え撃った。剣と剣がぶつかり合う鋭い音。狭い執務室の中で、激しい戦闘が繰り広げられる。
ゼノスの剣技は、驚くべきものだった。無駄のない動き、研ぎ澄まされた技。まるで舞うかのように敵の攻撃を受け流し、正確に相手の急所を突く。彼の剣は、アリアナに迫る全ての脅威を、文字通り切り裂いていく。
しかし、敵の数は多い。そして、彼らは相当の手練れのようだ。一人がゼノスを牽制している間に、別の男がゼノスの隙を突いて、アリアナに迫る。
「陛下!危ない!」
ゼノスが叫び、アリアナを庇うように飛び出す。その瞬間、男の刃がゼノスの肩を浅く掠めた。
「っ…!」
ゼノスは僅かに顔を歪めたが、構わず男を剣で弾き飛ばす。
「ゼノス!」
アリアナは、ゼノスが傷ついたのを見て、悲鳴に近い声を上げた。
ゼノスが全ての敵を倒し終えた時、執務室の床には数名の男たちが倒れ伏し、静寂が戻っていた。剣を鞘に収めたゼノスは、すぐにアリアナの方を振り返った。
「陛下!御怪我はございませんか!?」
ゼノスは、肩から血が滲んでいるのも構わず、アリアナの無事を確認する。彼の顔には、安堵の色が浮かんでいた。
アリアナは、未だショックから立ち直れない様子で、ゼノスを見つめていた。彼女の目の前で繰り広げられた、凄惨な戦闘。そして、自分を庇って傷ついたゼノス。
「…ゼノス…肩…!」
アリアナは、ゼノスの肩の傷に気づき、駆け寄ろうとした。
「この程度の傷、問題ございません。」
ゼノスは、まるで自分の傷は大したことではないとでも言うかのように、冷静に答えた。しかし、彼の顔色は少し青ざめているようだった。
「問題ないわけないでしょう!?血が出てるじゃない!全く、あなたは…!」
アリアナは、怒りと心配が入り混じった声で言った。そして、ゼノスの肩の傷にそっと触れようとした。
その瞬間、ゼノスは少し後ずさる。
「陛下!汚れておりますので…!」
彼の肩は血と埃で汚れている。神聖なる女王の御手に触れていただくべきではない。それが、ゼノスの考える完璧な騎士の姿だった。
「っ!何を言ってるのよ!そんなことどうでもいいでしょう!私のために…」
アリアナは言葉に詰まった。「私のために、あなたが傷ついたのに」という言葉を、素直に口にできない。
(陛下が…私の身を案じて…?)
ゼノスは、アリアナの動揺と、自分に向けられた心配の感情を敏感に感じ取っていた。それは、騎士としての務めを果たしたことに対する評価、というだけではなかった。それは、一人の人間、一人の女性として、彼を大切に思っているからこその反応だった。
「陛下…私は、あなたの剣…」
ゼノスは、いつものように主従関係の言葉を口にしようとする。しかし、アリアナはそれを遮った。
「違うわ…あなたは…」
アリアナの紅玉の瞳が、ゼノスを真っ直ぐ見つめた。その瞳に宿る感情は、忠誠心や尊敬といった言葉では表せない、もっと個人的な、複雑なものだった。
(…あなたは…私の…?)
ゼノスは、その言葉の続きを、アリアナの瞳の中に探した。それは、自分が長年胸に秘めてきた、禁断の想いと同じものなのだろうか?
王宮の中枢での突然の襲撃。そして、明らかになった、辺境の異変との繋がり。そして、危機一髪の中で垣間見えた、女王と騎士の、主従関係を超えた絆。
物語は、新たな展開を迎えようとしていた。紅玉の女王と、彼女の誓いの剣。二人の関係性は、この危機の中で、どのように変化していくのだろうか。そして、ゼノスが抱く秘めた恋心は、いつか女王に届くのだろうか。