第十三話:孤独な玉座と届かない声
第十三話:孤独な玉座と届かない声
王都は、血と炎に染まっていた。ヴァルカン軍の大軍が、王都の各所から雪崩れ込み、家屋は破壊され、人々の悲鳴が耳朶を離れない。王宮もまた、安全ではなかった。ヴァルカン兵と、エルードの仲間の裏切り者たちの残党が、作戦室のある王宮の中枢を目指し、執拗に攻撃を仕掛けてきていた。
作戦室で指揮を執るアリアナの顔は、厳しく、そして張り詰めていた。その美貌は、極限の緊張感の中で、氷のように冷たい光を放っている。彼女は、疲れも見せず、次々と的確な指示を出す。声は凛としており、将兵たちを鼓舞する。しかし、その紅玉の瞳の奥には、深い悲しみと、そして隠しきれない焦燥感が宿っていた。
「北部地区、防衛線崩壊!敵が南下中!王都の半分が…!」
「王宮西門、突破されました!敵が敷地内に!」
「負傷者、戦死者多数!このままでは、防衛線は持ちません!」
飛び交う報告は、絶望的なものばかりだ。兵士たちは勇敢に戦っているが、物資も、兵力も、圧倒的に不足している。アリアナのカリスマ性は、兵士たちの士気を繋ぎ止めているが、それだけでは、この巨大な脅威を押し返すことはできない。
(どうすれば…どうすれば、この状況を…!)
アリアナは、内心で叫ぶ。作戦室の窓から見える、王都の炎と煙。その光景は、彼女の心を抉る。民が苦しんでいる。民の家が、命が奪われている。
その時、彼女の脳裏に、医療室のゼノスの顔が浮かんだ。彼は今、この悲鳴を聞いているのだろうか。苦痛に耐えながら、自分の無力さを噛み締めているのだろうか。
(ゼノス…!あなたの傍に行きたい…!あなたの無事を確認したい…!そして…あなたの、あの石頭な顔を、もう一度…!)
しかし、アリアナは、作戦室を離れることはできない。彼女がここにいることで、まだ、王国は戦えているのだから。彼女が、女王としての務めを果たさなければならない。
「…ゼノス…」
アリアナは、誰にも聞こえないように、小さく彼の名を呟いた。その声には、女王としての責務の重さと、一人の女性としての、愛する人への深い想い、そして、彼への切ない感情が込められていた。
(…本当に、あなたは、いつまで私を困らせるつもりなのよ…早く元気になって、私の傍に戻ってきて…そして、私のこの気持ちに、気づいてちょうだい…)
作戦室の隅で、一人の若い侍女が、アリアナの様子を不安そうに見守っていた。彼女は、アリアナの疲れ切った顔、そして時折見せる悲しげな表情に気づいていた。そして、アリアナが、密かに「ゼノス」という名を呟いていることも、何度か耳にしていた。
侍女は、意を決して、アリアナに近づいた。
「陛下…少し、お休みになられては?お顔色が悪うございます…」
侍女は、心配そうにアリアナに声をかけた。
アリアナは、ハッとして、侍女の方を見た。そして、すぐに女王の顔に戻った。
「心配いらないわ。私は大丈夫よ。」
その声には、一切の感情が含まれていない。完全に女王として仮面を被っている。
「しかし…陛下はずっと…」
「もういいわ。私のことはいいから、あなたの務めに戻りなさい。」
アリアナは、侍女を下がらせた。彼女の優しさに、ほんの少し心が揺らいだが、今はそんな余裕はない。女王は、弱さを見せてはならない。
その時、作戦室の扉が再び開き、ゼノスの護衛団の副官が血まみれの姿で飛び込んできた。
「陛下!敵が、作戦室へ向かっています!近衛兵が食い止めていますが…!」
「なっ…!」
アリアナは、立ち上がった。いよいよ、王宮の中枢が襲撃される。彼女が、直接戦わなければならない時が来たのかもしれない。しかし、彼女の魔力は…
(ゼノス…あなたから、力を借りることができれば…)
アリアナは、思わず、病床の騎士に助けを求めた。
一方、王宮の医療室では、ゼノスが苦悶していた。体は、異常な熱と痛みに苛まれている。禁断の魔法の呪いが、彼の全身を暴れ回る。しかし、彼の意識は、以前よりはっきりしていた。王都の悲鳴。戦闘の音。そして、アリアナが危機に瀕している気配を、彼は感じ取っていた。
(陛下…危険だ…作戦室が…!お守りしなければ…!)
ゼノスは、ベッドの上で、必死に体を起こそうとする。彼は、アリアナが苦労していることを知っていた。彼女が自分を必要としていることを知っていた。
「うっ…くそっ…動け…!私の体…!」
ゼノスは、歯を食いしばり、己の体に命じる。彼の全身から、微かに紅玉色の光が漏れ出す。禁断の魔法の呪いと化した力が、彼の意志に応えようとするが、同時に、彼の肉体を破壊しようとする。その力は、彼の生命力を燃焼させているのだ。
その時、医療室の扉が開き、アリアナの従妹、リリアナが、恐怖と心配に顔を歪ませながら、そして少しばかりの希望を携えて入ってきた。彼女は、医療室の外で、ゼノスの護衛団の騎士たちとヴァルカン兵の戦闘に巻き込まれそうになったが、なんとか切り抜けて、ゼノスの元へ辿り着いたのだ。
「ゼノス様…!大丈夫ですか…!?王都が…大変なことに…お姉様も…作戦室で…危ないです…!」
リリアナの声は震えていた。彼女は、王都の悲惨な状況と、指揮を執るアリアナの重圧、そして迫りくる危機を知っている。
ゼノスは、リリアナの声を聞き、僅かに意識がはっきりした。
「…リリアナ様…ご無事で…よかった…」
ゼノスは、か細い声で言った。彼女が無事だったことに、安堵の表情を見せる。
「私のことはいいんです!ゼノス様こそ!また体が光って…苦しそうで…」
リリアナは、ゼノスの異常な熱と、顔の苦痛を見て、心配そうに言った。彼女は、ゼノスが普通の病気ではないことには気づいていたが、禁断の呪いだとまでは知らない。
「…私のことは…構わ…ないで…陛…下…を…お守り…ください…作戦室へ…」
ゼノスは、絞り出すように呟いた。彼の頭の中にあるのは、アリアナの安全だけだ。リリアナに、アリアナの元へ行き、彼女を守るように言っているのだ。
その時、医療室の外で、さらに激しい戦闘の音が始まった。怒号と剣戟の音。ヴァルカン兵や裏切り者たちが、医療室の区画へ、さらに深く侵入してきたのだ。
「…っ…!敵が…!」
リリアナは、恐怖に顔を青ざめさせた。医療室のドアが、激しく叩かれる音がする。
ゼノスは、その音を聞き、全身に痛みが走ったかのような衝撃を受けた。陛下が指揮を執る作戦室に、敵が迫っているのかもしれない。彼は、再び立ち上がろうとする。
「陛…下…!」
ゼノスは、叫び、ベッドから身を起こそうとするが、激しい痛みに呻き、そのまま倒れ伏した。彼の全身から、紅玉色の光が強く放たれる。それは、彼の生命力を吸い取るかのように輝きながら、しかし同時に、彼の体を突き動かそうとしているかのようだ。
「ゼノス様!駄目です!無茶をしないで!」
リリアナが慌ててゼノスを支えようとするが、彼から放たれる魔力の奔流に、押し戻される。リリアナは、恐る恐るゼノスの手を握ろうとするが、彼の体温が異常に高いことに驚く。
ゼノスは、床に倒れ伏しながら、彼の心に直接響くアリアナの声を聞いていた。
『…あなたの、あの石頭な顔で、ちゃんと、私の目を見て、『大好きです』って言いなさいよ。それまで、死ぬわけにはいかないでしょう?』
そして、最後のキス。その感触。
(…生きる…!陛下に…『大好きです』と…伝えるために…!)
ゼノスは、歯を食いしばり、痛みに耐える。体内の呪いが、彼の肉体を破壊しようとするが、彼の意志と、アリアナへの愛情が、それに抵抗する。
その時、医療室のドアが破壊され、ヴァルカン兵たちが雪崩れ込んできた。彼らは、倒れているゼノスと、傍らのリリアナを見て、凶悪な笑みを浮かべた。
「いたぞ!病み上がりの騎士と、王族の娘だ!これはいい土産になる!特に、この娘は、女王陛下の従妹だ!価値がある!」
ヴァルカン兵たちは、リリアナに迫る。リリアナは、恐怖に震えながら、後ずさりする。
「…っ…リリアナ様…!」
ゼノスは、その光景を見て、絶望的な叫び声を上げた。体が動かない。大切な方を、またしても危険に晒してしまった。呪いの力は、彼に力を与えるが、彼の体を破壊する。そして、今、その力を使いこなすことができない。
「お前など、ここで終わりだ!」
ヴァルカン兵の一人が、ゼノスにとどめを刺そうと剣を振り上げた。彼は、ゼノスから放たれる紅玉色の光を危険だと感じ、早めに始末しようとしたのだ。
しかし、その剣が届く前に、リリアナが、恐怖を乗り越え、叫んだ。
「やめてええええ!」
リリアナは、無意識に、持っていた小さなペンダントを、ヴァルカン兵に向かって突き出した。それは、幼い頃、ゼノスがアリアナからもらったものと同じデザインの、王族の証のようなペンダントだった。
ペンダントが、リリアナの恐怖と、ゼノスを助けたいという強い願いに呼応したかのように、微かに光を放った。その光は微弱だが、ヴァルカン兵の動きを一瞬だけ鈍らせた。
その隙に、ゼノスは、床に倒れたまま、最後の力を振り絞った。彼の体から、紅玉色の閃光が放たれた!それは、医療室に侵入してきたヴァルカン兵たちを、吹き飛ばすほどの威力を持っていた。閃光を浴びたヴァルカン兵たちは、悲鳴を上げて後退する。
ゼノスは、その力を使った代償として、さらに力を消耗した。全身から、血の汗のようなものが滲み出す。禁断の魔法の呪いが、激しく彼の肉体を蝕んでいるのだ。
「ゼノス様!」
リリアナは、目の前で起きた信じられない光景と、さらに苦悶するゼノスの姿を見て、駆け寄った。
ゼノスは、床に倒れたまま、荒い呼吸を繰り返す。彼の視線は、リリアナに向けられている。
「…リリアナ様…逃げ…て…ください…陛…下…の元…へ…」
ゼノスは、絞り出すように言った。陛下の傍へ行き、無事を知らせてほしい。そして、陛下を守ってほしい。王都の悲鳴が、さらに大きくなっている。
リリアナは、ゼノスの言葉を聞き、彼の瞳に宿る強い意志と、そして自分やアリアナを案じる優しさを感じ取った。彼女にできることは、彼の願いを叶えることだけだ。
「ゼノス様…生きてください…!必ず、お姉様に伝えますから…!あなたのこと…!」
リリアナは、そう言い残し、涙を拭い、立ち上がった。医療室の外では、まだ戦闘が続いている。しかし、ゼノスの願いを果たすために、彼女は危険を承知で、アリアナの元へ向かう。
「ひ…光を…お守り…ください…」
ゼノスは、消え入りそうな声で、リリアナの背中に向かって呟いた。
リリアナは、ゼノスの言葉を聞き、頷いた。そして、彼の言葉を胸に、医療室を出て行った。彼女の背中は、ヴァルカン軍と裏切り者たちが跋扈する王宮の中を、アリアナの元へ向かう。
ゼノスは、一人医療室に取り残された。全身を襲う激しい痛みと、呪いの力。しかし、彼の心には、アリアナへの想いと、彼女の「生きろ」という命令、そして「大好きです」と伝えるという使命が宿っていた。リリアナが無事で、陛下の元へ向かってくれたことに、彼は安堵していた。
(陛下…必ず…必ず…あなたの元へ…あなたの『全て』として…!)
ゼノスは、意識が遠のいていく中で、強く誓った。彼の体から、再び微かに紅玉色の光が放たれる。それは、彼の命が燃えている光であり、そして、希望の光でもあった。禁断の呪いは彼を蝕むが、彼の意志が、その力をねじ伏せようとしている。
王都の悲鳴は続く。アリアナは、作戦室で指揮を執りながら、王国を救うために、そして愛する騎士が生きていることを信じて、戦っていた。
二人の主従関係の恋は、絶望的な状況の中で、切なく、そして強く燃え上がっていた。そして、病床の騎士は、愛する女王の願いを胸に、禁断の魔法の呪いと戦いながら、立ち上がることを誓うのだった。王都の命運と、二人の運命は、今、風前の灯火となっていた。




