おもい、うたかた
冬というのは、どうしてこうも悲しいものなのだろう。
数日前の二月十四日、バレンタインデー。恋人たちの祭典ともいうべきこの日に、この想いは終わりを迎えた。「他に好きな人ができた」なんてベタな小説みたいな理由で。双子のように育った、幼馴染のあの子に奪われる形で。何と返したか、あの後どうしたかは記憶にないけれど、おそらくは別れを受け入れて、まっすぐ帰ってきたのだろう。渡すはずだったチョコレートは、ラッピングが破り捨てられてそのまま机の上にある。夜が明けても感情もぐちゃぐちゃのままで、共通の友人や仲のいいフォロワーに話を聞いてもらったけれど、彼らの言う慰めの言葉は心を落ち着けるには足りないようだ。話を聞いてもらうことを諦め、しかし他のことも手につかず。眠ることでせめて平穏を保とうと、私は夢の中へと身を浸した。
酷く、苦しい夢だった。
深く暗い、星や月はおろか、太陽の光すら届かぬ泉の底に座りこんで泣いていた。まるで溺れているかのように息もできないのに、不思議と意識が遠のくことはない。口から零れた気泡は、私を置いて上へと昇っていき泡沫となって弾けた。嗚咽を繰り返すうちに、突然「ねえ」と誰かの声が聞こえる。驚いて視線を上げれば、この世のものと思えぬほどに美しい女の人がすぐ目の前に立っていた。手を伸ばせば届くような距離なのに、気配など微塵も感じなかった。まるで、そこに湧いて出たかのように。その人は、私に視線を合わせると、穏やかな、しかしどこか悲し気な表情で問いかける。
「貴女は、どうして泣いているの?」
「……ひどい、失恋の仕方をして」
話すことを諦めたはずなのに、不思議と言葉が次々零れだす。嫌な感覚はしない。彼女は嗚咽交りの言葉をすべて聞き終えると、赤子をあやすかのように私を抱きしめる。
「それは、つらい思いをしたのね。貴女もきっと、わたしと一緒だわ」
背中をさする手が、ひどく心地いい。不思議な感覚だった。彼女はそのまま、言葉を続ける。
「わたしもね、ある人を愛していたの。大切だった。失いたくはなかった。……けれど、その人の行動で、別れを迎えてしまった。わたしはあんなに愛していたし、永い時を過ごした今ですら、こんなに愛しているのに」
やさしい声色のまま声を震わせた彼女の様子に、ぐちゃぐちゃだった心が少しずつ落ち着きを取り戻した。長い間解けなかった問題のきっかけを見つけたかのように。
「私、も……酷いとは感じたけれど、愛していたの。愛しているの。だから、一緒に居
たかった。それだけ、なのに……」
だからこそ友人たちの慰めや彼への批判は、私の心を乱すばかりで落ち着けることができなかったのだろう。もうおさまったはずの涙が、両目から零れて泉に溶ける。言葉と想いは、口から零れて昇っていく。
「ねえ、会いに行きましょう。わたしが、力を貸してあげる」
甘く優しい声が、耳元でこだまする。その言葉に頷けば、彼女は静かに口づけを落として溶けるように消えていく。眩暈のような、自身の内をかき乱されるような、そんな形容しがたい感覚の後に、ふっと息が楽になった。
──あぁ、あの人は。今、何をしているのかしら。
彼の姿を思い浮かべれば、周囲は明るくなる。先ほどまでの水底ではない。どうやら昇っているようだ。上に、上に。しばらくして、水面の向こうに見慣れた姿が映った。
「ねぇ、こんなお話を知ってる?」
新聞に視線を落としながら、彼は口を開く。
「人を愛して、裏切られて、愛する人を殺させられてしまった、水妖のお話なんだけど」
「彼女は今も、似た苦しみを負った少女のもとに現れては、救おうと手を差し伸べるんだ
って。『いい怪異じゃないか?』……そうだね、彼女の想いは純粋なものだ。だけれ
どね。彼女の力は、愛する人を殺さねばならない呪いでもあるんだ」
「きっと彼女はこれからも、善意のままに多くの少女を狂わせてしまうんだろうね」
飽きたというように彼が落とした新聞では、不審死事件が大々的に報じられていた。
お世話になっております。
雅楽代書房の翠雫です。
自分用に本を作ってみたくて、その際にページ数の足しにと描き下ろした小説です。
想いが重い人が好きです。人ならざる者も好きです。いいですよね。
雅楽代書房
店主 翠雫みれい