ひやおろしの香りは秋風に乗って
1枚目の挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
2枚目の挿絵の画像を作成する際には、「Ainova AI」を使用させて頂きました。
3枚目の挿絵の画像を作成する際には、「Gemini AI」を使用させて頂きました。
九月の上旬は残暑が厳しくて辟易させられたけど、後期の授業が始まって十日程が経った今の時期になると、ようやく気温が落ち着いてきたね。
何しろ私が在籍する堺県立大学があるのは近畿地方だから、夏場は本当に暑くなっちゃうんだ。
先週までは五限の講義が終わった今時分でも昼間みたいに明るくて蒸し暑くて、僅かな信号待ちの時間も苦痛で仕方なかったの。
だけど今日は日差しも穏やかで過ごしやすいから、校門の門塀に寄り掛かってゼミ友と雑談する余裕も出来たんだよ。
「ここ最近は随分と涼しくなったね、美竜さん。冷え性対策のカーディガンを屋外でも羽織っている子が増えてきたよ。」
「確かに過ごしやすくなったね、蒲生さん。残暑も収まり、朝夕の風にも秋の涼しさが感じられるようになって…もう言う事無しって感じかな。」
この何気ない返答に、私は違和感を覚えちゃったんだ。
何しろゼミ友の王美竜さんは台湾生まれの台湾育ちだから、暑さには強そうな感じがするんだよね。
そんな私の腑に落ちない様子を、何となく察したんだろうね。
美竜さんは軽く笑いながら、私の方へ向き直ったんだ。
「そりゃ確かに台湾の気候は暖かいけど、それでも暑い物は暑いからね。春や秋の気候が穏やかな時期は、やっぱり有り難いよ。ベトナムから来た留学生の子も、『日本の夏は蒸し暑くて堪える…』って言っていたし。」
「へ、へえ…」
台湾やベトナムで生まれ育った人達でさえ、日本の夏は耐え難い程に蒸し暑いだなんて。
流石に私も二の句が告げないよ。
「それに日本には、秋口ならではの楽しみがあるからね。朝夕の風が涼しくなる今の時期になって、初めて味わえるんだよ。」
「えっ?今の時期になって初めて味わえる物?」
美竜さんの言う「秋口ならでは日本の楽しみ」って、一体何だろう。
昔から「食欲の秋」って言うように、秋になると色々な食べ物が旬を迎えて美味しくなるけれど。
「もしも蒲生さんに時間があるなら、ちょっとだけ付き合って欲しいんだ。そこに行けば、私の言う『日本の秋口の楽しみ』が何かを示してあげられるんだよ。」
そう言いながら得意気に笑う美竜さんの長い黒髪を、涼しく吹き抜ける秋風が爽やかに揺らしていったの。
それはあたかも微風に揺れる柳の木のように、何とも幽玄で且つ情緒的に感じられたんだ。
そうして美竜さんに案内されたのは、中百舌鳥駅からも程近い居酒屋街だったの。
泉北高速鉄道と大阪市営地下鉄の乗り換えポイントという事もあり、中百舌鳥駅界隈にはサラリーマンや学生をターゲットにした飲食店や飲み屋さんが沢山あるんだ。
まあ、私や美竜さんもターゲットの一人だけどね。
そこで軒を連ねている民芸風の蕎麦屋さんが、私達の目的地だったんだ。
「へえ…美竜さんも、蕎麦屋飲みとは渋い趣味を持っているね。」
「ここは蕎麦屋飲みを推奨しているから、御酒の銘柄も豊富に取り揃えられているんだよ。まずは何も言わずに、この冷や酒を飲んでみて。堺の酒蔵で醸造された純米酒の『堺衆』だよ。」
透き通った液体が御銚子から御猪口に静かに注がれ、日本酒の馥郁たる芳香が上品に立ち上ってくるね。
この鼻腔を刺激する芳香には、やっぱり堪えられないよ。
「うん、良いね!辛口の冷や酒は、やっぱり五臓六腑に染み渡るよ。」
御猪口の中身を飲み干した私は、思わず唸っちゃったんだ。
充分に冷やされた事でキリッとした辛口の風味が一層に際立ち、そこに先の上品な芳香が加わってくるんだもの。
美味しい地酒のある堺に生まれた事の喜びを、改めて実感させられるね。
「御気に召して頂けて喜ばしい限りだよ、蒲生さん。それじゃ、ピッチャーの水で口の中をリセットしておいてよ。今の御酒の味が口の中に残っていると、変化が分かりにくくなるからね。」
どうやら美竜さんは、私に利き酒的な事をさせたいみたいだね。
そして恐らくは、次に紹介する一杯が本命なんだろうな。
そうして冷たい氷水で口の中をスッキリさせた私に美竜さんが御酌してくれたのは、やっぱり辛口の冷や酒だったんだ。
「さっきと同じ辛口純米酒で、醸造したのも先程のと同じ堺の蔵元。そして銘柄も同じ『堺衆』だよ。だけど、この二つには明確な違いがあるんだよね。」
「その違いを利き酒で当てるって寸法だね。なかなか風流な趣向じゃない。」
そうして御猪口に満たされた冷や酒を口にした次の瞬間、私は二種類の純米酒の違いを思い知らされたんだ。
「確かに風味も香りも同系統だけど…こっちの方が口当たりがまろやかな気がするよ。深みとコクも、後の方が強いみたい…」
「気付いてくれて喜ばしい限りだよ、蒲生さん。最初に飲んで貰ったのは普通の純米酒だけど、蒲生さんが今飲んでいるのは同じ銘柄の『ひやおろし』なんだ。そして、この『ひやおろし』こそが、秋口ならではの日本の楽しみなんだよ。」
美竜さんの話によると、ひやおろしというのは熟成に一手間をかけた特殊な御酒なんだって。
春先に仕上げた日本酒を一度火入れした上で涼しい蔵に入れ、それから半年かけてジックリ熟成させるんだ。
そうして涼しくなった秋に蔵から下ろしたら、ジックリ熟成された事で味に丸みと深みが出て飲みやすくなるんだって。
「成る程ねえ…ヒンヤリ涼しい秋になってからおろすから、『ひやおろし』って言うんだ。なかなかストレートで良い名前だよ。」
「ひやおろし自体は九月九日から解禁されているけど、九月上旬はまだまだ暑かったからね。蒸し暑い中で飲んじゃったら、ひやおろしに申し訳ない気がしてさ。今日みたいに涼しい秋風の吹く日こそ、ひやおろしの旬だと思うんだよ。」
そう言いながら笑う美竜さんが見つめる窓の向こうでは、白い月が雲に遮られる事なく燦然と夜空に輝いていたんだ。
今が旬のひやおろしを傾けながら、月見酒に興じる。
それもまた、風流なのかも知れないね。