確かに結婚すれば楽なのかもしれない
「へぇ、こんな場所あったなんて、知らなかったな」
隣で歩く市ノ瀬くんが言った。
「駅とは反対側にあるからね。三年通っていても、知らない人は多いと思うよ」
ここは、少しも変わっていなかった。川沿いに伸びる道は、歩道しかないため、車は一切通らない。川の流れる音が微かに聞こえるだけで、本当に静かだから、のんびりと歩くには、ちょうど良い。
そんな想い出の道を市ノ瀬くんと二人で歩くことになるとは、高校に通っていたころの私は想像もしなかっただろう。
「でも、どうして日を改めなかったんですか? 僕なんかと来るより、その霊能力者の元カレと来た方が良かったでしょ」
一通りの経緯を聞いた市ノ瀬くんは、笑いながらそんな疑問を投げかけてきた。ただ、霊能力者という言葉については、どこか含みを持たせたアクセントがあった。
「何となく…怖かったんだよね」と私は答える。
「怖かった? 後ろめたかった、じゃなくて?」
市ノ瀬くんは笑顔だが、容赦なく痛いところを刺してくる。思わず顔をしかめてしまうほどに。
「それは、そうなんだけどさ」
「誰に対して後ろめたいんですか? 悠也先輩? それとも霊能力者?」
誰にだろう、と考える。いつまでも答えない私に、市ノ瀬くんは言った。
「でも、僕なら良いんですね」
「そう、君は良いんだよ」
答えながら、なぜ市ノ瀬くんなら良いのだろうか、頭の中で首を傾げる。
「悠也先輩も、まさか僕と七海さんがこんなことになっているとは、思わないでしょうね。あ、悠也先輩は、僕のことなんて覚えていないか」
呑気な声色で言う市ノ瀬くんに、私は「そうかもね」と相槌を打った。
高校時代、悠也はサッカー部のキャプテンをやっていた。それに対して、私と市ノ瀬くんは美術部。
悠也は、私と一緒に帰るために、放課後の美術室に顔を出すことがあったが、市ノ瀬くんの顔を見たとしても覚えていないだろう。私だって、当時は市ノ瀬くんと会話することは殆どなかったわけだし。
「君って、何か不思議だよね」
「何がですか?」
「分かんないけど、気付いたら色々と許している感じ」
「身も心もですか?」
そんな馬鹿みたいなことを爽やかなトーンで言うものだから、私は怒ることも蔑むこともできなかった。それに実際のところ、そういう状態なのだから、反論のしようがない。
悠也が神崎依織と別れるまで。そういう条件の相手だったのに、状況が大きく変わってしまった。悠也と寄りを戻す。それが私にとって当面のゴールだったはずが…。
「私って、どうなるんだろうね」
「さっきから話が飛び飛びで、ついていくの大変なんですけど」
呆れるように笑う市ノ瀬くんだが、実際はそんな風に思っていないはずだ。
「まぁ、そうですね。最悪な状況ってことは、間違いないですよ。職もなければ、恋人もいなくなって、おまけに呪われているわけですからね。霊能力者に頼りたくなるのも、分かります」
先程から、彼が口にする「霊能力者」という言葉は、どこか棘があるような気がした。そんな違和感を確認する間もなく、市ノ瀬くんは続ける。
「でも、良いじゃないですか。いざとなったら、僕と結婚すれば良いわけですし」
「……え?」
驚くようなことを、さらっと言うものだから、私は耳を疑った。
「専業主婦ってわけにはいかないかもしれませんが、パートで働いて少し支えてもらえば、二人だけで十分に暮らしていけるんじゃないですかね」
それは悠也が言ってくれた言葉と殆ど同じだった。
「君、本気で言っている?」
「嫌ですか?」
「嫌って言うか……」
「だって七海さん、今更を相手を探すのも面倒でしょ?」
確かに、その通りだ。誰か良い相手を見付けられたとしても、その人のことを理解して、私を知ってもらって、深い中になるまで、どれだけの時間と労力を必要とするだろうか。そんなことを想像するだけでも、億劫であることは間違いない。
「だから、僕と結婚すれば、お互いにとってメリットあると思いますよ」
市ノ瀬くんは軽くって言ってくれるが、そういう利害関係で結婚、というのも違う気がする。いや、結婚とか交際とか、そういう関係だって突き詰めて言えば、利害の一致ということになるのだろうけど。
「うーん……」
色々と考える私だったが、結果出てきた答えは、これだった。
「それも一つの手段かもねぇ」
市ノ瀬くんは、溜め息を吐く私の手を取った。
「そうしましょうよ。七海さんも観念するときがきたんですよ」
「観念、かぁ…」
動機は取り敢えず横に置いて、それもいいのかもしれない、と少しだけ思った。求めあったり、傷付けあったり、そんな感情の先に、真の愛があるというわけでもないはず。心と体、経済を支え合い、人生を共に歩む関係だって、十分に愛のあるパートナーと言えるではないか。
そうすれば、ちょっとは楽に生きれるのかも、と考える。そして、市ノ瀬くんだったら私が絵を描こうとしたとき、そのモチベーションを支えてくれるかもしれない。案外、私にとって理想の相手なのだろうか。
突然だった。
吐き気が込み上げ、私は両手で口元を抑える。
「どうしたんですか?」
隣の市ノ瀬くんも、私の動きに驚いたらしい。私は彼に向かって首を横に振るが、それが何を伝えようとしているのか自分でも分からなかった。頭も重たい。目を回り出す。まるで、急にアルコールが全身に回ったみたいだ。
「大丈夫ですか? ちょっと座ります?」
「ここから、離れたい」
私は何とか言葉を発する。市ノ瀬くんがは「分かりました」と言って、肩を貸してくれた。これは悠也によるものなのだろうか、と朦朧とする意識の中で考える。肩が痛い。たぶん、あの痣がある部分だ。それは確かに、誰かの恨みを受けているような気がした。
「もしかして、悠也先輩の前で結婚の話したことが悪かったんですかね」と市ノ瀬くん。
そうなのかな。だとしたら、悠也も自分勝手だ。これだけ私を待たせておいて、勝手に死んじゃったくせに、今更嫉妬するなんて。
川沿いの道から離れても、吐き気は止まらなかった。むしろ、命の危険を感じるくらい、悪化したような気がする。
「ごめん。ここに連れて行って」
市ノ瀬くんに、携帯端末の画面を見せる。そこには、堀口がいる「占いの館」のホームページが表示されている。
「でも、七海さん…もう営業時間、終わってますよ」
「……じゃあ、電話して。この人に」
私は携帯端末を操作してから、市ノ瀬くんに手渡した。自分で電話すればいいのかもしれないが、これ以上は無理だ。集中していないと、吐いてしまいそう。
「もしかして、霊能力者の元カレですか?」
携帯端末を手にして、画面を確認した市ノ瀬くんは、露骨に嫌そうな声を出した。