無職からしてみると目的があることは安心する
目が覚めた。限界まで水中に潜っていたみたいに、必死に空気を吸い込む。
「大丈夫、落ち着いて!」
思わず、立ち上がろうとした私を、堀口が宥めた。
「光莉、ここが現実だ。君は大丈夫。ちゃんと生きている」
私の肩に置かれた堀口の両手から、体温を感じる。
先程と違って、五感がはっきりとしていた。
堀口の言う通り、ここが現実なのだ、と落ち着きを取り戻せそうだった。
「落ち着いた?」と堀口に聞かれ、頷く。
目覚めてから、何分経っただろうか。たぶん、五分も経っていないと思うけど、混乱が収まるまで時間が必用だった。
「何か嫌なものを見た?」
「説明できないけど、最悪だった」
堀口は「そうか」とだけ言って、特に追及はしてこなかった。なので、こちらが聞きたいことを口にした。
「一誠の方は、何か視えた?」
「憑いていた」
堀口は清々しいくらい、はっきりと言った。
「どんな霊が?」
「分からない。ただ、光莉に対して物凄い執着を抱いているのは感じられた」
執着って何だろう。そんな疑問に答えるように、堀口は続ける。
「それが、どんな感情なのかはっきりはしなかったが、もしかしたら、恨んでいると言うよりは、助けを求めている、というのが近いかもしれない」
電話の向こうで、悠也は言っていた。俺を見付けて欲しい、と。それは、助けを求めていたのか。
「どうすれば助けられるんだろう?」
堀口は不信感を露わにした。普通なら、除霊の話とか、そういうことを尋ねるべきだったのかもしれない。
「分からない。コンタクトを取ろうと思ったが、拒絶された。と言うより、何だか混線状態みたいな感じで、上手く聞き取れなかった」
混線状態、という感じがどんなものかよく分からなかったが、私は肩を落とした。だが、堀口は言う。
「でも、いくつかヒントになりそうなビジョンは見えた」
堀口はどこからかノートを取り出し、何かを描き始めた。
「……なにこれ?」
それは、堀口が見た何かを絵で描いたものか、と思いきや、区切りのような線と文字で書かれた、記号の集まりらしい何かだった。中心に線で挟まれた「川」という文字があり、所々に丸で囲われた「木」という文字がある。分かりにくいけれど、どこかの風景だと思われた。
「だから、これが橋で、川が流れてて、それを挟むように木が…。で、たぶんこれは裏から見たコンビニ」
それらが何を表しているのか、まったく分からなかったけど、堀口の説明を聞いていると、私の頭の中で風景が構築されていった。
「橋の手すりは白?」
「ああ、うん。そうだった」
「川沿いにずっと道が続いていた?」
堀口は頷く。
「心当たりがあるのか?」
私は立ち上がり、すぐにでもその場所へ向かおうとした。
「待て。そこがどんな場所なのか、もう少し説明して欲しい。そうじゃないと、危険な目に合うかもしれない」
「大丈夫。無理はしないから」
「甘く見るな。こういうとき、思いもよらないタイミングで引きずり込まれることもある。一人で安易に動くことは、本当に危険なんだ。なぜ、霊がこの風景を見せたのか解釈して、準備と安全を整えてから行くべきだ」
解釈も何もない。堀口が見たであろう場所は、私と悠也が一緒に通っていた高校の近くにある道だ。人通りが少ないから、二人で帰るとき、この道を通っていた、私たちの想い出の場所。きっと、悠也はそこで私を待っている。
「本当に大丈夫。私、行くね」
「待って」
引き止める堀口を無視して相談室を出た。受付の女性に「すみません、いくらになりますか?」と聞くと、彼女は助けを求めるように、目を泳がせていた。堀口が相談室から出てきた気配を感じ、財布から一万円を出して、受付の女性に渡し、すぐに去ろうとしたが、間に合わなかった。
「頼むから、落ち着いてくれ」
私の手首を掴んで、制止しようとする堀口。
「離して」
私はまるで反抗期の娘だった。堀口も父親のように諭そうとする。
「俺の話もちゃんと聞いてくれ。そういう、自分こそ正しいと思うところ、直さないと痛い目見るぞ」
堀口の指摘に、私はより反発心を抱く。何だか、私のことをよく知っているような言い方が気に入らなかったのだ。堀口を睨み付けると、彼は心苦しそうな表情は見せたが、退く気はないらしい。数秒、沈黙が続いたが、それを破ったのは受付の女性だった。
「あの」と彼女は消え入りそうな声で言った。
私と堀口は殆ど同時に彼女を見る。怯んだ様子だったが、彼女は声のボリュームを上げた。
「堀口先生、あと十五分で予約のお客様が来られます。準備をされた方が……」
睨み付けると、堀口は諦めるように、私の手を離した。
「今度、時間を空ける。だから、一人で行かないと約束してくれ」
「……わかった」
堀口は受付に置かれた一万円に気付くと、それを取り、私に差し出す。私はそれを、自分に突き付けられた凶器であるかのように見ていたが、結局は折れて受け取ると、拗ねたような態度でその場を去った。
人混みの中、私は怒りを抑えられず、歩いていた。
堀口の偉そうな態度に苛立ったことはもちろんだが、受付の女性がいる前で、まるで痴話喧嘩のようなやり取りを見せてしまったことが、何よりも不快だった。
そして、私と悠也の問題なのに、どうして堀口に止められるのか、と思うと腹立たしくて仕方がない。やっぱり、今から行こうか…とも思うが、一人では行かない、と約束をしてしまった。約束を破ることは、人としてどうなのだ。そんなことを考えると、なかなか足が素直に動かなかった。
そんな風に、駅前の周りをぐるぐると回るように歩いていると、声をかけられた。
「あれ、七海さん。何をしているんですか?」
まだ学生のような浮遊感のある声。市ノ瀬くんだった。
「市ノ瀬くんこそ、何しているの?」
「何って、普通に仕事終わって、帰るところですよ」
「君って、職場この辺だっけ?」
「今日は取材先と打ち合わせがあったので」
私は市ノ瀬くんの顔をまじまじと見る。何かが思いつきそうだ。
「なんですか?」
「ねぇ、この後…暇?」
「特に予定はありませんけど」
「一緒に想い出巡りしない?」
「……はぁ?」
堀口は、一人で行かないと約束しろ、と言っただけだ。別に堀口と一緒に行く、と約束はしていない。
しかし、私はすぐに後悔することになる。霊的なトラブルを甘く見てはならない、と。