いざ無職になると不安なものだ
どうして生きているんだろう。
誰だって、そんな疑問を自分自身に問いかけたことがあるはずだ。答えを出せた人もいれば、悩み続ける人、取り敢えず保留にしている人もいるだろう。私はどうかと言うと、答え合わせの最中だ。いや、問題用紙を突き付けられたところ、かもしれない。
「もう絵をやめる」
小学生に入学した頃から、ずっと続けた絵をやめると宣言したとき、悠也は目を丸くした。
「どうして?」
私は首を横に振って答えなかった。
あのとき、私は絵を捨てたはずだった。でも、社会人として五年も働くと、私は自分が何者なのか、分からなくなって、絵を描いていたころの自分が恋しくなった。社会の歯車の一つ。そんな言葉があるが、私がいなくても社会は回る。歯車の一つですらない自分が、生きている意味を見い出すには、最も得意としていた方法で、もう一度何かを表現し、それを誰かに認めてもらう。そんなことを考えていた。
しかし、現実はそんな生きがいを持つことすら許してくれない。毎日働いて、体を休めているうちに時間はなくなっている。絵を描く時間なんて、ほとんど確保できなかったのだ。
仕事さえなければ。そんな風に思い始めた。仕事さえなければ、絵に集中できる。私が失ったものを取り戻せるのではないか。どうにか仕事から解放され、絵に力を注ぐ時間だけが欲しい…と考えていた矢先のことだった。
「この会社、今日までなんだ」
数週間前のこと。私の上司…と言うか会社の代表が宣言した。青天の霹靂、というやつだ。
「え、私たち…どうなるんですか?」
数人しかいない社員の中、誰もが戸惑っていたので、私が尋ねた。
「すまないが、転職先は自力で探してくれ。俺も紹介できるところがあれば、何とかつなげてあげたいと思うけれど、あまり当てにしないでほしい」
会社の代表だった男…木島の力ない表情に、私たちは言葉を失った。
どうやら、月曜の朝から失業したらしい。あれだけ仕事さえなければ、と考えていたはずが、いざ働く必要がないと言われると不安になるものだ。
それから、会社が潰れた経緯を木島が説明したが、要領を得たものとは言えず、私たちはただ呆然とするばかりだった。
「とにかく、原因は俺が社内政治で負けことにある。皆、俺を信じてきてくれたのに、本当にすまない」
そう言って、木島は頭を下げると、アポがあると言って、オフィスを出て行ってしまった。残された社員たちは、今後どうするか、という話をしながら、ゆっくりとオフィスの片付けを始めた。親会社の意向で、三カ月の給料は出るし、それまでオフィスも残してくれるそうだが、後はどうなるか分からない。
「ねぇ、七海さん…あの話、聞きました?」
解散宣言から数日後、私物をまとめていると、同僚の男性が話しかけてきた。
「あの話って?」
「木島さんのこと」
首を傾げる私に、彼は呆れたような笑顔を見せながら「消えちゃったらしいですよ」と言うのだった。
「この会社の代表をクビになって片付けも手伝わず、どこかへ去った後も、それなりに連絡は取れていたらしいんですけど、ここ何日か連絡が取れていないらしいです」
「それは、ただ無視しているだけじゃなくて?」
「僕もそう思ったんですけどねぇ。全く連絡取れないものだから、村田さんが様子を見に行ったんですって」
村田さんとは、同じくこの会社のメンバーだ。会社が潰れるまで、最も木島と親しく仕事をしていた人間だと言えるだろう。
「家まで行ったってこと?」
「らしいです。もしかして、村田さんも自殺しているんじゃないか、って思ったかもしれないですね」
「それで居なかったってことだよね? たまたま外出していたんじゃないの?」
「それが…」
彼は、まるで怪談のオチでも語るように、声を低くした。
「部屋は空っぽだったみたいです。郵便受けにも名前がなくて、カーテンもかかっていなかったのだとか」
「引っ越したのかな…?」
「さぁ、村田さんも流石にそれ以上は…と思ったみたいで。ただ、今となっては木島さんがどこで何をしているのか、誰も把握できないみたいです。この会社潰しちゃって、その後どうするのか気になるところですけれど…実家にでも帰ったんですかね?」
「木島さん、実家ってどこだっけ?」
「さぁ? 七海さんが知らないなら、誰も知らないんじゃないですかね」
確かに、この会社のメンバーの中では、木島と付き合いが長いのは私かもしれない。だけど、身の上話をするほどでもなかった。出身地、家族構成、何が趣味なのか…そんなことすら、知らなかった。
「五年後の自分を想像できる?」
これは木島の言葉だ。少しでも気に入った仕事仲間には、この質問をしていた。私に関しては、半年に一回はその質問をされて、その度に同じ答えを返していた。
「そんな先のこと、少しも想像できませんね」
すると、木島はわざとらしく目を大きくして、信じられない、という表情を作る。
「人間、五年間隔で大きく環境が変わる。だから、それに向けた目標を立てて、十分な準備をするべきなんだ。七海くんは、何かやっていることある?」
「ありません」
「そんなんじゃやっていけないぞ」
「そうですね、やっていけない気がします」
気のない私を見て、木島は「大丈夫か?」と言って心配してくれたみたいだった。
木島は仕事大好き人間だった。いや、仕事をしている自分が好きだったようだ。私は逆で、仕事は嫌いだし、仕事をしている自分も、あまり好きではなかった。本当の自分は絵を描いていた頃の自分だから、労働させられている自分は、本当の自分ではない。そんな風に思うこともあった。
だから、木島に仕事のモチベーションについて話される度に、重たい気持ちになった。やりたいことだけやっていたい。そんな風に思っているのに、社会はそうはさせてくれない。何かしらの努力と成果を求めてくるのだ。それでも、私は働くことに中途半端で、何となくやっている。だから、ときどき思う。自分のペースでゆっくり歩く私の肩を、いつか誰かが叩く。そして、こう囁くのだ。
「君に、生きる資格なんて、ないんだよ」
私はこの誰かに追いつかれないよう、自分のペースではなく、少し早足で人生を歩まなければならないが、それはいつか限界を迎えるはずだ。
こんなモチベーションの低い私を、なぜ木島は引き抜いて、次の職場でも一緒に働こうと思ったのか。気になるが、それについて教えてもらう機会は、もう二度とないような気がした。
木島が姿を消してしまったことについて考えたせいなのか、その夜、酷い悪夢を見た。
「無理に働かなくて良いよ。結婚したら、俺が養うから。あ、パートくらいは頑張ってほしいけど」
いつだか悠也が実際にかけてくれた言葉だ。私は嬉しかった。地獄のような毎日から、悠也が救ってくれるような気がしたから。そのときの光景を夢で見ていると、悠也の背後に黒い渦が現れて、彼を引きずり込んでしまった。
悲鳴を上げると、自分が真っ暗な空間に立っていることに気付く。私自身も、あの黒い渦の中に引き込まれたのだろうか、と混乱した。すると、何者かの気配を背後に感じた。そして、その何者かが、私の肩を叩いた。ついに、この日が来てしまった。
私は反射的に、肩に置かれた手を振り払う。もう一度、あいつに肩を叩かれてしまったら、生きる資格がないことを、世界中にバラされてしまう。私は走った。あいつに追いつかれないよう、肩を叩かれることないよう、全力で。
頑張ったせいか、あいつが追ってくる気配がなくなった気がした。しかし、後ろを確認してから、走るスピードを緩めた瞬間、重力が消えた。自分がどんな場所を歩いていたのかは分からない。でも、足を踏み外してしまったことは分かった。
あ、これは落ちる。
そんな感覚があって、何かに掴まろうと手を伸ばしたが、支えを得ることはなく、私は落下した。真っ暗な空間で、何も見えないが、底のない穴へ落下し続ける。
どれくらいの高さから落ちたのかは分からない。でも、落ちたら死ぬことは間違いなかった。嫌だ、死にたくない。どんなに強く願っても、私の体は落下するばかり。死に対する恐怖が頂点に達したとき、私は目を覚ました。
最悪な夢だった。嫌な汗で全身が気持ち悪かったので、シャワーでも浴びようと服を脱いだら、それに気付いた。肩に小さな痣があったのだった。