二章初めての実戦と「血の谷」サングレブッローネ
模擬戦から数日経ち、五月に入ったある日。級長であるユーカリと共にディアーに呼ばれ、聖堂に来る。
「オキシペタルムクラッスの今月の課題は、盗賊退治だ」
「盗賊退治、ですか」
ユーカリから次の課題からは実戦になると聞いていたが、いきなり盗賊退治と来たか。確かにアイリスは専門だが、生徒達を連れて……となると少し厳しいところだ。
(いや、弱音を吐く訳にはいかない)
年下の天才軍師ヴァイオレットはどんなに厳しくても皆を死なせぬように策をたててくれたのだ。幸い、騎士団がついてきてくれるらしく、課題はその後処理だからどうにかなるだろう。
「では、頼みますよ、アイリス」
アヤメはそう言った後、ディアーと共にその場から去った。それを見届けた後、ユーカリが口を開く。
「頼むぞ、先生。俺達にとっては初めての実戦だ」
「もちろん。何かあった時は私が守るから」
「それにしても、先生のその刻印が「始まりを司る者」の刻印だとはな。大昔に失われたという刻印……道理で知らないハズだ」
右手を見る彼にアイリスは「そんなものが今更出てくるなんてね」とクリストファーに見せた時のことを思い出す。
祝勝会の翌日、ユーカリと一緒にクリストファーの部屋に行き、その刻印を見せた。すると彼は血相を変える。
「これは……!」
「何か知っているんですか?」
「この模様……間違いない、「始まりを司る者」の刻印だ!まさかこの目で拝める日が来るとは……!」
興奮気味に言われるが、二人はなぜそこまでなるのか分からなかった。
「あぁ……!まさか、これを持つ者が生まれるとは……!」
「あの……どういうことですか?」
もはやこちらの様子を気にしていないクリストファーにユーカリは尋ねる。すると彼は「あぁ、すまない」と興奮が冷め止まない様子だったが、説明してくれた。
どうやらこれは、今まで失われていたと思われていた刻印であること。
眷属の血か女神の使いの血か、はたまた女神本人の血か。それは分からないが、とにかく女神の血を引くと言われているユースティティア家の刻印に相当するような強さを持つこと。
この刻印を持つ者は女神の力を使うことが出来るということ。
「それで、君に頼みがある。血を分けてくれないか?ぜひとも研究したい」
「あ、はい。別に構いませんけど……」
アイリスは頷き、渡されたナイフで指の先を切った。そして、血を小さいビンに垂らす。
「ありがとう。これで私の研究がはかどるかもしれない。また必要になった時は頼むかもしれないが、その時はよろしく頼む」
それにアイリスは頷いた。部屋から出ると、ユーカリが「すごいものなんだな……」と呟いた。
「まさか、元傭兵がそんなものを持っているとはな。……あぁ、具体的にどんな力なのかはヨハン殿に聞くことにするよ」
「ありがとう。そうしてくれると助かる」
「それにしても、刻印のことをアルフレッド殿はお前に話さなかったのか?」
「うん。小さい頃に「これは何?」と聞いたことがあるんだけど、その時は「そんなこと気にするな」と言われてね……。他の人にも見せるなと言われていたんだ。唯一ヴァイオレットだけには見せていいって言われて……これは主に貴族や王族が持っているものだと話したうえで「この刻印を持っている貴族はいない」って」
ヴァイオレットのその言葉にユーカリは疑問符を浮かべる。それはまるで……。
「……もしかして、ヴァイオレットは知っていたのか?その、刻印のことを」
「恐らくは。でも、悲しそうな顔をするだけでそれ以上のことは話さなかった」
刻印を持つことは、この大陸では素晴らしいことだ。たとえ女神の眷属の血を引いていても刻印が現れないことが多いのだから。もしそのことを知っていたのなら、悲しい顔をする理由が分からない。謎は深まるばかりだ。
「……あの子は、いつも私を守ってくれたから。だから、話さなかったのも何か理由があるんだと思う」
「そう、か……」
ユーカリはそれ以上何も聞けなかった。表情を変えない担任教師が、あまりにも寂しそうな表情をしていたから。
そのような経緯があったが、あれからアイリスはあのような表情は見せなかった。いつも通りの無表情、感情はうかがい知れない。
「盗賊退治、か……」
彼女が呟いた。それで我に返る。
「確か、追い詰める場所は「血の谷」サングレブッローネだったな」
「うん。地図ももらったから皆で見よう」
地形を見ることも大事だからね、と彼女は言った。こういう時、彼女は歴戦の戦士なのだと思わされる。そんな華奢な身体で、一体どれ程の戦場を渡り歩いてきたのだろうか。
「どうした?ユーカリ」
「いや、何でもない」
置いて行かれないように、ユーカリはアイリスの後を追いかけた。
世界が喜びに溢れる中、どこかで嘆く声がする。
雨に打たれ、萌木色の髪の女性は自分より身長の高い菫色の髪の少女を見た。
「……また、皆を死なせてしまった」
萌木色の女性が菫色の少女に呟く。少女は悲しそうな表情を浮かべ、「仕方ない」と呟く。
「……君の姉も、兄も、死んでしまった。教え子達も、殺してしまった」
「……分かってる。でも、この戦争を止めるには、こうするしかなかった」
救えなくてごめんなさい、兄様、姉様、と少女は心の中で呟く。女性は年下の少女を抱きしめる。身長差のせいで、顔が少女の肩に埋もれるような形になった。
女性は震えていた。当たり前だ、少女の兄と姉は、彼女の教え子でもあったのだから。もちろん、兄と姉を失って少女もつらかった。だが、教え子に手をかけなければいけなかった彼女は、もっとつらかっただろう。なぜなら、彼らのおかげで女性の世界が色づいたのだから。少女は優しく、女性を抱き返す。そして安心させるようにその頭を撫でた。
やがて、顔を上げた女性は決意に満ちた目で少女を見た。
「……もう一度、繰り返そう」
「……えぇ、分かりました」
「私のわがままだけど、ついてきてくれる?」
「当然です。私のわがままでもありますから」
今度こそ、幸せな結末を期待して。
二人は心の中で呟いて、二人は目を閉じた。
――これは、二人の女と彼女達に手を貸した女神達の記憶の一部であったハズのもの。今では、少女と一人の女神しか覚えてはいない、遠い記憶。
平日、講義の途中で今度の課題のことについて話し合う。
「……さて、ではもし仮に囲まれたらどうしたらいいと思う?」
「目の前の敵から倒していったらいいんじゃないですか?」
「敵が二、三人ならそれでもいいが、それだと、必ず途中で体力が持たなくなってしまう。一番いいのは私を呼んでもらうことだけど、戦場ではそうも言っていられない。だからこの場合、体力を温存する方向で動いた方がいい。今回は逃がしても構わないから自分の命を守ることに専念してほしい」
アイリスが淡々と話していく。教えてもらったことはちゃんと理由があり、納得が出来ることばかりだった。やはり、戦場に出ていたがゆえにどうすればいいか分かっているのだろう。
チャイムが鳴る。「今日はここまでだ」と言って授業を終わらせた。そして、皆が教室から出ていくところを見送った。
「……ふぅ……」
皆が退出した後、アイリスは人知れずため息を零した。やはり、自分に教師の荷は重い。だが、生徒の前で弱音を吐けない。アルフレッドも騎士団に戻ると言っていたし、迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
「……一応、これを片付けて書庫に行くか……」
自分もだが、まだ若い彼らを導くには、もっと修練が必要だ。全く無知だった神学は他の先生や司祭に任せるしかないが、他のことなら教えられるように勉強しないといけないと思う。
授業の片付けを終えて、書庫に向かう。そして適当に数冊取り、戦術書を読み始めた。
それから何時間経っただろうか、書庫の扉が開いた。
「そこにいるのは……先生か?」
ガザニアだ。アイリスは顔を上げ、「あぁ、どうした?」と聞く。
「俺は返却期間が今日までだったから来た。それよりもう夜だ、早く部屋に戻った方がいいのではないか?」
それを聞いて、アイリスは窓の外を見る。確かに外はもう暗かった。しかし、あと少しで読み終わるのだ。
「……私はもう少しいるよ。ガザニアこそ、返却したら早く戻りなさい」
本に目を落としながら、アイリスは優しくそう告げた。ガザニアは何か言いたげだったが、まずは本を返却した。そして、アイリスの前の席に座る。
「……それは、戦術書か」
「そうだよ。あの子が……ヴァイオレットがいたらいろいろと聞いていたんだけどね。そうもいかないから自分で勉強しないと」
「そうか……」
それなら、頼みたいことがあると言ってきたのでアイリスは再び顔を上げた。
「格闘術を学びたい。武器がなくとも殿下をお守りするために」
「格闘術か……父に教わったから得意分野ではあるよ。なら、この後訓練場に行く?別に明日以降の個人指導でも構わないけど」
彼の主君愛は普段の生活から伝わっている。一日でも早く学びたいだろう。そう思ってアイリスは提案した。
「いいのか?俺なんかのために」
「大事な生徒だからね。学びたいことがあるならすぐに言ってほしい。最大限尊重したい」
自分も調べて教えられるようになりたいし、とアイリスは告げる。急に教師になったというのに、文句も言わず努力を惜しまない彼女をガザニアは素直に尊敬した。しかし、どうしても素直に厚意を受け取れなかった。
「……俺は、フレット人だ。「国王殺し」という刻印をつけられた……本来なら、ここで皆と一緒に学習することもおこがましい」
そう、自分は罪深き民だ。そんな自分と一緒にいたら彼女も奇異な目で見られるのではないか。そうなれば彼女も、自分を軽蔑するのではないか。それが、怖かった。
「私からすれば、同じ「生徒」だよ。そこに貴族も平民も、人種だって関係ない。それに、ユーカリが君を従者にしたのは何か理由があるハズだ。だから、自分のことをそんな風に言ってはいけない」
その言葉にガザニアは驚く。フレット人だからと一方的に嫌われ、今までそんなことを言う人はユーカリ以外にいなかったからだ。そして、分かった。
――この人は、己の損得で態度を変えない人だ。
純粋な愛と誰にでも差し伸べる優しさを備えている、そんな神話の中の「女神」のような女性。本当にこんな人が傭兵をやっていて、「青い悪魔」などと呼ばれていたのか。しかし、先日の模擬戦の指揮は、戦い方は、確かに戦場に身を置いてきた人のそれで。
「ほら、行こう」
もう読み終わったし、と彼女は本を元の場所に戻し、ガザニアを誘う。ガザニアはそんなアイリスの隣を歩いた。
訓練場に行き、早速格闘術を習う。剣を扱っていた時も思ったが、そんな細い身体のどこにそんな力があるのだろう。
「ガザニア、ここをこうしたら案外力を使わずに相手を翻弄させることが出来る」
「君より身長が高い人が出てくるとは思わないけど、もし仮に自分より体格の大きい人が現れたらここを掴むといい」
アイリスの指導は的確で分かりやすい。教師になるために勉強してきた人と同じぐらいか、それ以上だ。
「……先生」
「どうしたの?」
「その……先生は誰から……?」
疑問を投げかけるとアイリスは「父とヴァイオレットだよ」と言った。
「アルフレッド殿は分かるが、ヴァイオレットはお前より年下だろう」
前から思っていたのだが、普通は年上や目上の人から教えを乞うものだ。年下に聞くのは恥ずかしくないのか。
「アルフレッドは武術と文字の読み書きを、ヴァイオレットは戦術や必要最低限の知識、それから武術や戦術の応用を教えてくれたんだ。正直な話、正気を取り戻したらヴァイオレットの方が頭よかったからね。ヴァイオレットがいた時はアルフレッドもあの子に頼りきりだった。年下から学んではならないという決まりもないし」
なるほど、この人は分からないのは恥ずかしいことではないと思っているのか。長所を認め、短所を補い、そうして成長していくのだと。……彼女らしいと思った。確かにその通りだ、年下から教わってはいけないという決まりなどない。むしろそこから学ぶことも多いだろう。
「今日はもう遅い。早く寝たらいい」
どうせ隣だし、送って行くと汗を拭きながらアイリスは言った。きっと彼女に勝つ日はまだ先なのだろうと思った。
次の日、個人授業で訓練場が使えることになった。アイリスは見回りをしながらそれぞれ自由に訓練をさせ、聞かれたら教えるという形を取った。いわば自習のようなものだ。
「先生、昨日の続きを教えてほしい」
ガザニアがそう言ってきたので、アイリスは応える。
「ガザニア、いつの間に先生と仲良くなったんだ?」
槍術の練習をしていたユーカリがどこか嬉しそうに尋ねた。従者は「先生の教え方が上手で身になったんです」と答えた。
「そうか。お前が言うのならそうなのだろう」
「殿下も、教わってみてはいかがですか?」
「それはぜひとも願いたいが、お前が先だろう」
主従の譲り合いが起こり、アイリスは「どっちからでもいいよ。何なら休みの日、時間を作るし」と言った。それにユーカリがパァアと子供のように顔を明るくさせた。
「本当か⁉」
「うん。どうせならアルフレッドにも来てもらおう。確か、次の休みは今度の日曜日だったハズだし」
アイリスのその言葉に耳をピクッと動かしたのはフィルディア。あぁ、こいつに火をつけたな……と思ったのはシルバーだった。
「その鍛錬、俺もまぜてくれ」
「いいよ。後で伝えておく」
そうして日曜日にオキシペタルムクラッスの課外授業が決まった。
日曜日、訓練場に集まったオキシペタルムクラッスの生徒達はまず騎士団長親子の打ち合いを見学する。
「アイリス!そこはもう少し腰を下げろ!」
「腕で受け止めるんじゃねぇ!全身で受け止めろ!」
おおよそ女性に対する教え方ではないが、アイリスはそれについて行く。さすが、今まで傭兵としてしごかれただけはあった。
それに魅入っていた生徒達ではあったが、不意に打ち合いは終わる。そしてアイリスが近付いた。アンナがタオルを渡すとそれを受け取る。
「……一応言っておくが、普段ならもっとやらされる」
それこそ、動けなくなるほどに。
汗を拭きながら、覚悟するように、と告げる。
「まぁ、安心しろ。もし仮に動けなくなっても私が部屋まで送ってやるから」
それを聞いた生徒達は自分達がいわゆる「お姫様抱っこ」というものをされると想像してしまった。この教師ならやりかねない。
「どうした?やらないのか?」
アルフレッドに呼ばれ、「誰からでも行くといい」とアイリスは言った。真っ先に行ったのはやはりフィルディア。父と教え子の打ち合いを見ていると、
「あ、あの、先生。僕、弓なので見学するしか出来ないんですけど……」
アドレイがもじもじしながらアイリスに訴えた。彼女は「それなら、私が離れた場所で指導しよう」と告げる。それを聞いてアドレイは「い、いいんですか?」と驚いたような表情で担任を見た。
「もちろんだ。せっかく訓練場に来たのに何もしないのは本意ではないだろう?」
「で、では、ご指導、よろしくお願いします」
「あぁ。それなら女子生徒も誘おうか」
さすがに父のあの訓練を女子生徒にさせるのは酷だろう。それに、サライとアンナは魔法が得意だ。二人はそちらを重点的に伸ばすべきだろう。
的を持ってきて、遠くに置く。そして一度的を狙うように言った。アドレイはいつも通りにやり、アイリスがこうしたらいいのではないかとアドバイスを与える。実はヴァイオレットの受け売りではあるのだが。
(あの子、すごかったんだな……)
こうして教える立場になって、他人に教えることがどれほど難しいのかを初めて知った。さすが天性の秀才、アルフレッドに「天才軍師」と呼ばせただけある。
「先生はどんな武器でも扱えるんですね」
メーチェに言われ、「基本的なことはね」と答えた。魔法も簡単なものなら使えるようになった。もっとも、魔法学校に通っていたサライとアンナはもっとすごい魔法が使えるだろうが。
メーチェと槍で打ち合いをして、それを見ていたアドレイから自分も学びたいと言ったので基本を教える。サライとアンナにはどんな魔法があるか教える。
……これが、「楽しい」というものだろうか。
生徒達とこうしていると、心が浮かれていると自覚する。傭兵をやっている頃はこんなことなかった。ただ生きて、敵を屠る……そこに感情などいらなかった。アイリスにとって生とは死への道だ。生あるものはいずれ死んでしまうのだから感情などあっても意味がないと思っていた。
「……アイリス、楽しそうだな」
一通り手合わせを終えたアルフレッドがアイリスを見てそう言った。アイリスは「そう、かな?」と考え込む。表情に出ていたのだろうか。
「楽しい……確かにそうかもしれない」
浮かれる心が、「生まれて初めて」楽しいと告げている。この日常が愛おしいと言っている。そして、ここにあの子もいてくれたらと僅かな寂しさを覚える。もし一緒に行動していたなら、あの子も士官学校の生徒になっていただろうに。
「そうか……そうか。こいつらが、いい刺激になってくれているんだな」
アルフレッドはさぞ嬉しそうだ。なぜそこまで嬉しそうなのか、アイリスには分からなかった。
課題の一週間前、ディアーに呼び出された。
「前も言ったが、生徒達が危険にさらされないように気を付けてくれ」
「分かっています」
二人で会話をしていると、後ろから女の子が来た。緑色の髪の、どこか浮世離れした少女だ。
「お兄様、お話が……あら?そちらのお方は?」
お兄様、ということは、彼女はディアーの妹ということか。その割には随分離れているような気がしないでもないが……。
「あぁ、彼女は先月から士官学校の教師をしているアイリス=カサブランカ殿だ」
「まぁ、士官学校の……わたくし、チェリーと申します。よろしくお願いしますわ、先生」
彼女――チェリーはアイリスに礼儀正しく頭を下げた。それにアイリスも「よろしく、私はアイリスだ」と改めて挨拶をした。
「チェリーはともかく、生徒達の命は君の指揮にかかっている。そのことを肝に免じておいてくれ」
「はい」
それでは、とアイリスは一礼し、その場を去った。それを見届けた後、ディアーはチェリーに向き合った。
「それで、なんだ?チェリー」
「……先程のお方……アイリス先生、でしたわね?」
「そうだな。アルフレッド殿のご息女だが、それ以外の素性が分からない。アヤメはなぜ彼女を教師にしたのか……」
ディアーは頭を抱え、呟く。チェリーはアイリスが去った後の道を見つめていた。やがて口を開く。
「あの方……雰囲気が似ていますわね」
「雰囲気?」
「分かりませんこと?……でも、そんなわけは……」
妹が何を言いたいのか、ディアーには分からなかった。
――そう、二人は何も知らなかったのだ。アヤメが裏で何をしていたのかを。それによってどれ程の犠牲者が出たのかを。
同日夜、ヴァイオレットは一人、「血の谷」サングレブッローネに来ていた。
「……ユスティシー、ここのこと、覚えてる?」
他の人からは、黒衣の少女一人しか見えない。だが、彼女には確かに見えているのだ。自分と同じ菫色の髪に赤い瞳の女性……いや、「女神」が。
「えぇ。私達はここに住んでいたんだもの。あなたも、それは知っているでしょう?」
「……うん。どの本にも載っていないけど、僕も知っている」
長い髪を耳にかけながら、ヴァイオレットも頷く。ユスティシーの記憶はヴァイオレットの記憶なのだ。その逆もまたしかり。なぜなら二人は本当の意味で「一心同体」だから。
「……でも、姉様は覚えてないわよね」
「僕は元々、ユスティシーの血を引いていたからあなたが力を取り戻すのに時間はかからなかったけど、あっちは無理やりやったようなものだから結構かかるんだと思うよ。むしろよく適合したと思う」
ヴァイオレットは苦笑いを浮かべる。この少女は昔に比べて、随分感情豊かになったと思う。
「そうね。それに、あなたは元々「女神の生まれ変わり」と呼ばれる運命……こうなることは必然だったのでしょうね」
「あなたの意識まで受け継ぐとは思わなかったけどね」
「……それは私もよ。恐らく、大司教が何かやったんだと思うわ」
だからこそ、母は自分を連れて平民として過ごしていたのだ。……その母は約八年前に殺されてしまったのだが。
改めて目の前の廃墟を見る。……ここで争いがあり、女神の眷属達の多くが亡くなった。そしてユスティシーはこの後の戦いで……命を落とした。アリシャ歴で言うなら九百九十五年の出来事。アリシャが「終末を誘う王」ネメシスを倒す五年前のことだ。
そして、今は千九百九十五年。女神達が亡くなって丁度千年が経った。千年の時を経て、女神は再び現れる。その時――再び戦争が始まる。全てを巻き込んだ大戦争が。
冷たい風が、少女の頬を撫でる。まるで自分の心の中に吹き荒れる嵐の寒さのようだと思った。必要なのは「女神の生まれ変わり」であって、誰も「自分自身」を望まないのだから。そのことに虚しさを覚える。
近い内にここに来るであろう女神の片割れを想いながら、その場を去った。
課題当日、アイリスは生徒達を連れてサングレブッローネに来た。
「計画通り、騎士団の人達が追い詰めてくれているね」
周囲の様子を見て、目の前の盗賊しかいないことを確認する。
「前も言った通り、盗賊は逃がしても構わないから自分の命を守ることを優先するように」
アイリスにとっては慣れたことだが、生徒達はそうではない。これが初めての実戦なのだ、最悪の事態だけは避けたい。
「ふん。さすがのおぬしも生徒達が死ぬのは目覚めが悪いか。なら、わらわの力をおぬしにも使わせてやる」
アモールの声が聞こえたと思うと、目が僅かに熱くなった。頭の中に、時間を巻き戻す方法が浮かぶ。一度に数回しか使えないが、十分だ。
「ありがとう、アモール」
頭の中でお礼を言う。そして、これから戦場になる場所を見つめる。……白魔法が満ちている床に盗賊のボスがいる。その周囲には斧を持った手下達、さらには弓を持っている盗賊もいる。全部で……十五人。
「ユーカリ、ガザニア、フィルディア、シルバーは前線に。サライ、アンナ、メーチェはその後ろについて。アドレイ、少し前に出てあの盗賊を狙えるか?」
「や、やってみます」
アイリスが指した盗賊に向けて、アドレイは矢を放つ。まさかそんなに遠くから放ってくると思っていなかった盗賊は驚き、反応が遅れて避けられなかった。
――これは、ヴァイオレットの策からもらったものだ。
まさかこの場所から攻撃をしてこないだろうと思っている人ほど、不意打ちをくらうと反応が遅れてしまうのだと。盗賊は教養のある者とは違い、不意打ちに弱い人が多い。それを利用したのだ。
「ユーカリ、敵が近い!すぐに攻撃を!」
「分かった!」
斧を持った盗賊が、ユーカリを狙っていた。アイリスはすぐに前に立ち、槍は届くが斧だと届かない距離まで離した。
「槍のリーチを利用して有利に立て!」
他の敵にターゲットを変えながら、そう指示を出す。ユーカリは刃のところで盗賊の斧を飛ばした。そしてその勢いのまま、その首を刈り取る。さすが騎士の国の王子だと思った。
応戦していると、フィルディアが怪我をする。「フィルディア、一度下がって。アンナ、すぐに白魔法を」と告げる。そして、「サライ、黒魔法をお願い。シルバー、その後ろから攻撃を」と周囲を見ながら言った。
「ガザニア、ユーカリの後ろに敵がいる!」
ガザニアに叫ぶと、彼はアイリスから学んだ格闘術で投げ飛ばした。
「メーチェ、追撃を!」
「分かりました!」
他の盗賊の相手をしながら、次々に指示を出していく。それに気付いた盗賊の頭はアイリスから倒すように手下に命令した。
アイリスの周りに盗賊が五人もにじり寄ってきた。そして一気に襲い掛かってくる。
「先生!」
皆が焦り、ユーカリが叫ぶ。しかし、当の本人は全く慌てた様子がない。至って冷静に状況を把握しているようだ。
目の前から斧を振りかざしてくる敵を蹴り飛ばす。そのまま回し蹴りで後ろの敵に直撃させる。そして殴りかかろうとした敵の手首を左手で掴み、投げ飛ばす。その勢いで残りの二人を同時に斬りつけた。
流れるような戦い方に生徒達は唖然とするしかなかった。さすが元傭兵、こういった非常事態にも手慣れていた。
(もっと……昇進せねば)
ユーカリはそれを見てゴクリと息を飲みながら思った。――彼には、命を賭してもやり遂げたいことがあったから。そのためには、どんな戦略も身につけたかった。
残りは盗賊の頭だけとなった。
「くそ!おれはただ命令されて……!」
その言葉にアイリスは疑問を感じたが、今回の教団の指示は討伐。生徒達も疲れの色が見えているので早く倒した方がいいだろう。
「た、助けてくれ!」
「……それは出来ない。自分のしたことを恨むんだな」
盗賊の頭が最期に見たのは、無表情の悪魔だった。
アイリスは生徒達のところに行き、無事か確認する。
「お疲れ、皆。……君達にとっては初めての実戦だった。怖かった者もいただろう。不安なら、私や他の教師に話してほしい。場合によっては明日の講義を休みにすることも検討する」
では、修道院に帰ろうとアイリスは先に歩きだした。それを呆然と見ていた。
――本当は、優しい人なのかもしれない。
生徒達は初めて人を手にかけて、今にも膝をついてしまいそうだった。悪人とはいえ、本当に殺してしまったのだ……その罪悪感がついて回っていた。そのことに気付いたのは、恐らく彼女が元傭兵だったからだ。無表情で何を考えているかは相変わらず分からないが、感情がないわけではないのだろう。
「……どうした?戻らないのか?」
振り返った担任教師の瞳には、明らかな慈愛が含まれていた。先程まで盗賊に向けていたあの冷酷な瞳ではなく、温かな視線。
(あぁ、この人は――)
「今行く、先生」
他の人達が言っていたような心の持たぬ悪魔などではないのだと。その言葉を飲み込み、ユーカリは彼女について行った。
夜、自室で報告書を書いていると、誰かが来た。扉を開くとそこにはユーカリの姿。
「ユーカリ?こんな遅くにどうした?」
とりあえず中に入りなさい、とアイリスは彼を部屋に入れる。そして先程まで使っていた椅子に座らせる。自身はベッドに座った。
「何か不安なことでもあったか?」
自分を見つめるばかりでいつまで経っても口を開かないユーカリに尋ねる。ユーカリは「……今日は、俺達を導いてくれてありがとう」とようやく声を紡ぐ。
「そんなの、教師としては当然だよ。お礼を言われるまでもない」
実際、アイリスにとってはあれぐらい朝飯前だった。依頼者を守りながら、敵を倒していく……それが生徒に変わっただけであるし、戦える分むしろ楽だった。
「それでも、言わせてくれ。先生がいなければ大怪我を負っていただろうし、最悪誰かが死んでいたかもしれない。フィルディアなんかは俺の言うことなど聞かないだろうからな」
「……そうか。そういえば、君とシルバー、フィルディア、メーチェは幼馴染だったな」
「あぁ。幼い頃は、フィルディアとも仲がよかった。……あいつの兄が亡くなってから、変わってしまった」
「……「フレットの悲劇」か?」
聞くと、彼は「……あぁ」と頷いた。
「フィルディアの兄……グレイというのだが、若くして騎士に抜擢されてな。王宮に仕えていた。彼はメーチェと婚約していてな、親の都合ではあったが二人共想い合っていた。……俺は、それを奪ってしまった。彼を殺してしまったんだ」
「どういうことだ?」
なぜ、彼がそのグレイという人を殺したということになるのか。ユーカリは俯き、ぽつぽつと話し出す。
「……俺は、フレットの悲劇の唯一の生き残りなんだ。フレットの民と話し合いをしようということで、俺も勉強のためと王族全員と側仕えの者達がフレット地方に行こうとしたんだ。フレットの悲劇は、その道中で起きた出来事だった。そこでグレイは俺を守って命を落とした。友好関係にあった王国の王……俺にとっては父を、卑劣なやり口で殺したフレット人はそれ以降、「国王殺しの民」として粛清の対象になってしまった。……だが、俺は知っているんだ。フレット人がやったのではないと」
「どういうこと?」
「……見ていたんだ。フレット人ではない、何者かが遠くから俺達の乗っている馬車に何かしてきたことを。それで周囲は燃え上がり、父は目の前でフードを被った何者かに捕らえられ、首を落とされた。……それを、俺は目の前で確かに見た。だが、俺がいくらそのことを話しても、大人達は信じてくれなかった。「殿下は子供でしたから、混乱しているのですよ」と言うだけだった」
「……そんなことがあったんだね。だからガザニアを従者にしたんだね、彼らの無実を証明するために」
国王殺しと言われている民の人間を従者にするのはリスクがある。周囲からも奇異な目で見られるだろう。だが、彼はそうしてでも無実を証明してやりたかったのだろう。唯一、真実を知っている者として。
「……その通りだ。先生も分かるだろう、ガザニアがどれほど優しく、他人を気遣ってやれるか」
「うん。それは分かっているよ。……なるほど、そういうことか。それなら、私の方でも出来る範囲で何か情報がないか探ってみるよ。確か、傭兵時代にフレット地方の近くの村で依頼を受けたことがあるんだ。そこの人と仲がよくてね、もしかしたら何か分かるかもしれない」
そう申し出ると、ユーカリは驚いた表情を浮かべた。
「……いいのか?」
「もちろんだ。言っただろう?生徒を守るのは教師の務めだと」
「俺の言うことを信じてくれるのか?」
「君が嘘をつく理由があるのか?」
アイリスは首を傾げる。疑うことを知らない瞳だ。もちろんユーカリも、嘘は言っていない。――胸に抱えている、この復讐心さえなければ。
「……いつか、フレットの人達の無実が証明されるといいね」
純粋な厚意を与える彼女が眩しくて、ユーカリは目を逸らしてしまう。これは、あの日生き残ってしまった自分が与えられるものではないと、自分に言い聞かせるのだ。
次の日、アイリスは報告書をアヤメに持っていった。ちなみに、やはり生徒達の不安が取れないからと今日は休講にした。
「ありがとうございます、アイリス。あなたの活躍は騎士団の方から聞きました。オキシペタルムクラッスの生徒達を守ってくれたみたいですね」
「いえ、私は教師として当然のことを……」
それでは、失礼します、と頭を下げ、アイリスは去った。
「……やはり、あなたは……」
アヤメは恍惚の笑みを浮かべながら、その背を見送った。
その日の夜、ヴァイオレットはフレット地方にいた。
「……どう?ヴァイオレット」
ユスティシーが聞く。ヴァイオレットは首を横に振って「なかなか見つからないものだね」と答えた。
「ラメント村の大量虐殺とフレットの悲劇……「あいつら」と繋がっているハズなのだけど……やっぱり四年前だから厳しいね」
「確か、その一年前に皇帝の子供達も次女であるアネモネ以外不審死しているのよね?それはどうかしら?」
「どうだろうね……もしかしたらそれも「あいつら」と繋がっているのかもね。それも、調べられたら調べようか」
二人(傍から見たら一人だが)で話をしながら、荒れ果てた村を探索してみる。人の気配はない。恐らく王国の兵士達に追われて、別のところに行ったのだろう。
崩れた建物の中に入る。ここは学校だったらしい、教本や羽ペンなどが落ちていた。
「それにしても、酷いわよね。いくら国王殺しの民だからと言って、惨殺する必要はないのに」
ヴァイオレットが教本の中身を見ていると、ユスティシーがそう言ってきた。
「……まぁね、それはやりすぎだと思うよ。しかも、よく調べもせずにやったみたいだからね。案外、無実の証拠というものは転がっているというのに」
見て、とユスティシーに教本の中身を見せる。フレット地方特有の言語だが、二人は読める。
「フレットの民は、魔法の類を習わない。もし仮に習うとしても、村の外に出て勉強して、そのまま村には戻ってこないようだ」
「信仰している神も違うみたいね。確か、王国で聞き込みした時は「アリシャ教の女神のために」とか言っていたと聞いたけど、どうやら嘘みたいね」
「うん。フレット人は独自の宗教がある。それに、閉鎖的な民だ。だから、アリシャ教はほとんど知らないハズだよ。それから、王国に対する忠誠もかなり強いものだった。友好関係にある王国に何か恨みがある、というわけでもない。そんな彼らが、国王を……アルバート様を殺すわけがない」
だが、これだけでは証拠として不十分だ。もう少し調べてみる必要があるだろう。もしどこかから暗殺計画書とかいったものが出てきたら話は変わってくるが、それは出てこないだろうと確信していた。
――なぜなら、手口がラメント村の大量虐殺の時と同じだから。
ちなみに、ディオース大陸中の村町が何者かに襲われるという話を聞いている。その手口も同じだ。同一犯の可能性が高いとみていいだろう。
「「闇に生きる者」……こんなに情報が転がっているというのに、何を企んでいるのか分からないね」
「あなたの頭脳でも分からない?」
「奴らの動きが全く読めない。王国内だけで起こっているとかなら、その国を潰そうとしているのだろうと考えられるけど……大陸中で被害が出ているからね。最近は同盟領の村だったし」
「でも、何かを企んでいる。そしてそれは大陸中を揺るがすもの……それだけは確かよね」
「そうだね。それだけは分かる。……やっぱり、おじい様に頼んで書斎も見た方がいいのかな?」
でも、頼むの面倒なんだよな……と呟く。祖父のところに行ったら最後、「領主になれ」と言われるに違いない。こちらは「義賊」として過ごしたいというのに。
「大修道院の書庫は?」
「あそこも情報の宝庫だけど、今はそんな時間がない」
それに、ある意味自殺行為に等しい。大司教が何を言い出すか分からないのだ。
「まぁ、出来る限り自分で情報を集めてみるよ」
「嫌なら、そうするしかないものね」
とにかく、次の依頼までもう少し時間はあるので今日のところはここで休むことにした。
「……ヴァイオレット」
廃屋と化した小屋に身を寄せ、暖炉に薪をくべているとユスティシーが彼女を呼んだ。
「どうしたの?」
「あなたは、今後どうするの?」
ヴァイオレットは女神を見つめる。その瞳は少女を心配しているようだった。
「……どうするもこうするも、なるようになるしかない」
「……それは、そうだけど」
「でも、僕はどんな道でも先輩が決めたのなら、それに従う。それだけだよ」
「そうね、あなたはそういう人だった」
ユスティシーは笑みを浮かべる。僅かに寂しさを含んだ笑顔だとヴァイオレットは思った。
大丈夫、この寒さは慣れている。
心に吹き荒れる、この嵐の寒さは。