第66話 アナザーデイ
そこにはとても大きい鉄製の門が見える。その門をくぐり五十メートル進んだところに磨かれた石を組み上げて建てられたとても大きな邸宅がある。つまり正門から玄関まで五十メートルにも渡り庭があるということだ。そして、その道の脇はきれいな芝生と緑の木々、噴水などがあり、整備が行届いていた。
ライアンストリートはこの国を二分している。二分された街は、中央から外に向かって層になって区分けされ、中央にルンガ地区、上流階級地区、中流階級地区、下流階級地区、更にその外に貧困層が暮らす。この豪邸はルンガ地区の一角であり、ルンガであるウォルシュ家のものだ。
よく晴れた空の下、ウォルシュ邸では使用人の声が響いていた。
「まあ! なんてことなの! リリー様! 一体どうされたのですか!」
神経質そうに甲高い声を上げるその女性の使用人は、頬に手を当てて血相を変えて驚いている。その両手は不快感と緊張から、小刻みに揺れていてた。
その目線の先にある玄関の上がり框には一人の少年が座り、俯いて靴を脱いでいた。
靴紐をほどくその少年の手を見るとひどく汚れている。半袖からのぞく細い腕には泥がつき、血が出ているのか赤いものが滲んでいる。上等そうな白いシャツは見る影もなく埃と泥にまみれていた。
そこへもう一人の使用人が早足でやってくる。
「執事帳。大丈夫です。私が対処します。」
「エリスさん……」
エリスと呼ばれたその女性は、少しも取り乱す事なく凛とした様子で、まっすぐに執事長の目を見て、確認するように少し頷いた。
「……そうですか、わかりました。ここはエリスさんにお任せします。慣れているでしょうし」
なんとなく、意味深な言い方をして執事長は奥に下がっていった。
その様子を尻目にエリスは少年の近くまで行くと、静かに腰を落とし少年の顔をゆっくりと見る。
「リリー様。また喧嘩ですか?」
リリーと呼ばれた少年は靴を脱ぎながら少し虚空を見て、
「えっと……えへへ、エリスさんこれは喧嘩とは言いませんよ、僕は手を出していないんですから」
リリーは申し訳なさそうに後頭部に手を当て、複雑な笑みを浮かべる。
エリスはため息混じりに俯き、
「それはいじめられたということですか? 私などが差し出がましいですが、少しはやり返したらどうでしょうか?」
エリスは少しムッとした様子だ。
「大丈夫です、エリスさん、僕の事は。そもそも当の本人の僕がいじめだなんて思ってもないですから、そうですこれはつまりいじめではないと思います」
「……もうよろしいです、呆れて何も言えませんので」
エリスはそう告げると、リリーの肩に手を回し
「さあ、お風呂場にお急ぎください。そのお召し物も着替えませんと。それに、その傷は大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。傷は擦り傷だから大した事ありません。それより、相談なんですが、くれぐれも父上には――」
ばつが悪そうにリリーが言いかけると、
「分かっています。このような事を旦那様にお伝え出来るはずもありませんので。他の使用人にも私からきちんと言っておきます」
「……ありがとうございます」
リリーは申し訳なさそうに呟いた。
リリー・ウォルシュ。十歳。
丸い目と長いまつ毛が印象的なとても端正な顔立ちをしており、綺麗な白い肌と、体躯も線が細く、それも相まって少女と言っても誰も疑わないだろう。耳までかかっている頭髪は、とても美しい黒色をしていて、そのシャープな顎から長い首にかけての美しいラインはその髪と相まって神秘的でさえある。
リリーは男性だが、名前とその容姿から「女だ!」とよく馬鹿にされていた。体つきも華奢で、お世辞にも強そうには見えない事もそれを助長した。
しかし、リリーは特に悔しがる素振りはなかった。どちらかと言うと冷めていて、まるで感情を持ち合わせていない、そんな印象すら与えた。
リリーは八歳の時ウォルシュ家に引き取られた養子である。
実はあの大雨の日にライアンストリートで行き倒れていた少年、それがリリーであった。
しみる傷を我慢し、風呂から上がると新しい真っ白なシャツの袖に腕を通し、スラックスの半ズボンに膝まである靴下をはいた。
そして、リリーは書庫を目指す。そこはお気に入りの場所なのだ。
古びた紙とインクの匂いにその部屋は満ちている。両脇には大人二人分ほどの高さがある本棚が並んでいて、部屋の一番奥には金色に塗られた鉄製の重厚な出窓がある。
その窓のそばには古びた黒い革製のソファーがあり、リリーはいつもそこに座り本を読んでいた。
リリーは、部屋に入ると書庫のはしごを登り、十センチほどの厚さがある一冊の古びた本を取り出した。
その背表紙には金色の文字でこう書かれている。
【生と死を司る古代魔法の研究】
いくつもの人の手にわたり、今ここに存在していること。一冊の古書には、今まで手に取った人々の思いが感じられるような気がした。リリーは時間さえあれば書庫で本を読み耽っていた。
その空間には古い時計が時を刻む、乾いた音だけが響いている。
どれくらい時間が経っただろう。その沈黙は、軽快な馬車の足音で終わりを告げる。
地面を蹴る蹄の音が敷地内に響き渡る。
ソファーにうつ伏せに寝そべり、開いた一冊の分厚い本を眺めていたリリーはその音でハッとする。
父と母が帰宅したのだ。急いで本を片付け、書庫を出て玄関へ向かった。
急ぎ足で廊下をかけていくと、玄関では使用人たちが出迎えている最中だった。
扉が開き、一人の紳士が入ってくる。
エドワード・ウォルシュ。三十四歳。少しカールした金色の頭髪は耳にかからない程度の長さで、そのはっきりとした目鼻立ちを際立たせている。そして、その体躯は一見すると細身だが、日々の修練により一切無駄のない体つきをしている。
エドワードはリリーを見るなり、屈託のない笑顔で笑いかける。
「ただいまリリー、今日はどんな一日だったかい?」
「父上、おかえりなさい」
リリーは答えるよりまずはしっかりとお辞儀をした。
しかしエドワードは、そのお辞儀が終わるや否やリリーの背後に回り込み、その脇を両腕で抱き上げそのまま自分の右肩に座らせる。大きな窓から西陽が差し、ブラウス一枚は薄く透けその引き締まった体のシルエットが浮かび上がる。
「ち、父上! 止めてください!」
リリーは、恥ずかしさでなんとも言えない顔になる。
「いいじゃないか、リリーとはあまり一緒にいられないしね。さあ、晩ご飯にしよう! リリーの一日を聞かせてくれ」
リリーのあれこれになんてお構いなしに、そんな事を言いながらエドワードは歩き始める。
すると、後ろから声が聞こえる。
「まったく、エドワードったら。リリーが嫌がってるじゃない」
呆れた様子で伏し目がちに首を左右に振るこの女性は、エミリー・ウォルシュ。
年齢はエドワードと同じ三十四歳で、肩までかかる赤毛が美しい。白い肌には少しそばかすがある、大きな瞳と少し低い鼻がとても可愛らしい印象だ。
エミリーはあまり着飾ることを好まず、上品な布の洗練されたシンプルなドレスにすらっとした体のラインが生えている。また博学でありまさに才色兼備といったところだった。
また、この二人は【ルンガ】だが、とても優れた人格を持っていた。
通常ルンガ達は、他人に対し特にルンガ以外の者達にたいし、強い差別意識があり、とても排他的でどうなろうと何も感じない。そのように育てられるのだ。
しかし、この二人は違った。
全ての生き物に対し平等意識を持った心優しい人物なのだった。
エミリーの言葉を聞きつつも、エドワードは特に気にせずニコニコと台所に向かう。
エミリーは呆れた様子で「はぁ」とため息をつく。しかし、その光景を見る瞳はとても穏やかで、次の瞬間には朗らかな笑顔になっているのだった。
ライザ帝国の郊外はとても豊かな木々に囲まれている。大きく悠々たる木々達の森に囲まれその中心でライザ帝国はきれいな円形を描いている。
夕方になれば、空は綺麗な茜色に染まり、夕陽に照らされ白を基調として作られたライザ王国は桃色に輝くのだった。




