最後の事件、最後の事案
3月13日夜8時45分頃、荒川沿いの空き地で死体が発見された。通報により駆けつけた機動捜査隊隊員により殺人事件と判断された。翌14日には地元東墨田署に捜査本部が設置された。
山路巡査部長はあと2週間、3月末で退職を迎える。かつては本庁の警備局にいて重要な任務を任されたこともあるが、それ以上の昇進への意欲も薄く、数年前にこの警視庁東墨田警察署刑事課に来た。
同僚刑事の佐久間は自分より20歳以上年上の山路をずっと観察していた。山路は、孤立するわけではないが、周りと無駄な協調はせず、仕事以外ではいつも独りでいる。本庁で上司に逆らい、ここに飛ばされたという噂もあれば、暴露されれば一大スキャンダルになるような重要な秘密を握っていて引退後には回顧録を書くのではないかという噂もある。さらに無責任な噂では、上層部は山路に回顧録を書かせないために、退職前に殺そうとしている、などと言われている。最後の噂は、東墨田署に来る前、事件捜査中に大怪我を負ったという事実があるので、やや信憑性がある。
どちらにしろ、警察官になったものの、上司や組織に反抗的な態度を取ったため冷遇されている佐久間は、勝手に山路に親近感を覚えていた。しかし、山路の方は佐久間に冷たい。いや、実は他の同僚と同じように接しているだけなのだが、佐久間にはその態度がそっけなく見える。
荒川土手で見つかった死体は、鋭い刃物で数十箇所も刺されており、直接の死因は多量の出血によるショック死と鑑識はみている。手の指や耳が切り取られていて、犯人の異常性が際立っていた。殺人事件の捜査本部には、警視庁から30人、東墨田署から45人の人員が割かれた。その中に山路と佐久間も含まれている。通常、警視庁刑事と地元署の刑事がペアになり捜査にあたるが、2週間後に退職を控えた山路は特例として佐久間と組むように捜査を指揮する管理官に命じられた。
山路と佐久間には、現場周辺の聞き込み班に割り当てられたが、佐久間は不満だ。もっと派手な活躍がしたいのだ。もちろん、口には出さない。そんなことを言った日には、明日から署内で身の置き所がない。しかし、同じ境遇(と勝手に思っている)の山路には、口も軽くなる。
「ねえ、山さん。辞める前にとんでもない事件が起こりましたね。これがあと2週間で解決できれば、本当に最後の花道なんですけど」
もちろん、言っている佐久間本人だって2週間で解決するとは思っていない。殺人事件は、1日2日で犯人の目星がつかなければ、長引くことのほうが多い。「殺人事件だろうが、盗みだろうが、最後の1時間まで言われたとおりに動くだけだ。刑事なんてそんなもんだろ」
山路は淡々としている。
「山さん、本庁のとんでもない秘密を握ってるってホントですか? それが理由で命を狙われているって噂なんですけど」
冗談を装って佐久間が聞くと
「なんだそりゃ? 刑事なら噂なんて信じるな。必ずその話のウラを取れ。そうしなけりゃ、とんでもない目を見るぞ」
と最初から相手にされない。
それからも、聞き込みの合間や捜査会議の後に、2人きりになると佐久間は山路に話しかけた。
「じゃあ、やっぱり本庁で出世していたのに、上司に逆らって所轄に飛ばされたんですか?」
「回顧録を出すって話も嘘ですか? 山さん、本庁時代に警察庁長官狙撃事件の捜査に関わってたって。それ絡みでなにか、まだ出ていない秘密を知っているとか」
次から次へと繰り出される佐久間のいい加減な話を、山路は黙って聞いていた。
犯人は捕まらずに10日が過ぎた。捜査本部では管理官はじめ、指揮官たちが檄を飛ばす。死体の身元は判明したが、一向に犯人の目星がつかない。
「監視カメラの映像をもう一度、すべて見直せ。聞き込みも、同じ場所、同じ人物に1度じゃなく、2度、3度あたれ。被害者周辺の交友関係、仕事関係、家族親族も、もっと範囲を広げて徹底的に洗え!」
捜査員たちは寝不足で疲れた身体の背筋を伸ばし、本部から出ていく。山路と佐久間も同じだ。2人は、殺人現場の近くで再度聞き込みを行うことにした。
「ねえ、山さん。明後日には退職じゃないですか。いいかげん、本当のことを、オレだけには教えて下さいよ」
佐久間は聞き込みに飽きているのがミエミエだった。時間をつぶすために山路に話しかけているようにすら思えた。
殺人現場は荒川沿いの野球場やサッカー場に隣接するくさっぱらだ。時間は夜8時過ぎ。昼間ならともかく、今は人影すら見られない。目撃者は未だに見つかっていない。きっといないのだろう。
「なあ、佐久間。お前、そんなに警察が嫌なら辞めればいいだろう。正直言うけど、お前刑事に向いてないぞ」
「いや、そりゃあぶっちゃけると、辞めたい気持ちはあります。でも、公務員だし、給料は安いけどよほどのことがなけりゃクビにならないし。いや、もちろん、都民の安全を守りたいって気持ちもありますよ」
「取ってつけたようにいうが、警察官ってのは大変な仕事だぞ。前にも言ったが、噂のウラも取らずに信じちゃうお人好しじゃ良い刑事にはなれない。それ以前に、公務員ってのは上の命令には逆らえない」
「えっ、やっぱり上司に無理な命令されて、逆らったから飛ばされたんですか?」
「違うよバカ。今まさに、嫌な命令を実行しようとしてるんだ。お前が警察内の不祥事をいろいろ集めていることはわかってる。それをマスコミに売れば金になるって考えてることもな。オレが受けた嫌な命令ってのは、不満分子の処分だよ」
山路は隠し持っていた鋭利なナイフを佐久間に見えないように握り直した。
「不満分子を処分してそいつが集めた不祥事の情報を隠蔽すれば、退職後に良い再就職先を世話してくれるんだ。警察上層部の秘密を握ってるなんて与太話よりも、よっぽどリアリティがあるだろ?」
異様な雰囲気を感じた佐久間は一歩後ずさるが、山路はぐいっと詰め寄る。
「これがオレの最後の事案なんだ。無事に遂行できてホッとしてるよ」
翌日、東墨田署に設置された捜査本部は、捜査中の警察官が殺害されたことを受け、特別捜査本部に格上げされ、人員も倍増された。
山路は予定通り3月31日に退職し、都内の大手警備会社に幹部待遇で再就職した。