【1】茶木明日香はサキュバスである。
ここ市立和泉沢高等学校には、学内外において大変知名度の高い一人の少女が在籍している。
常軌を逸して整った顔立ち。
宝石のような青い瞳に、腰まである絹糸のような銀髪。
リップ要らずのピンクの唇からは時折八重歯が顔を覗かせ、それが彼女の笑顔に悪戯っぽい色香を纏わせることに一役買っている。
スタイルは日本人離れしており、かつスレンダー。しかし出るところは出ているという日本男児の理想を具現化したようなボディラインは、見る者を瞬く間に虜にしてしまう魅力に溢れて仕方がない。
彼女の名前は茶木明日香。
父は芸能事務所社長で、母は元モデル。
碧眼も銀髪も生来のものであり、それは恐らく母方の祖母がロシア人であるところに起因している。
姉と妹がおり、姉はすでに父親の事務所にて女優活動の真っ最中。
妹はSNSや動画投稿サイトにて、十代の若者を中心に絶大な人気を博すに至っている。
明日香自身も何度かモデルのアルバイトで誌面を飾り、さらに妹の動画チャンネルに引っ張り出されたりなどしたのだが、その結果、ネット検索で『さきあ』と打てば予測変換に引っかかるレベルにまでその存在感を確立することとなってしまった。
こういった評判にも負けず劣らず学校生活も順風満帆。
容姿に優れているだけではなく学業も優秀で運動も卒なくこなし、友人関係も良好ときたものだから、正に恵みに恵まれた勝ち組リア充女子高生と言って差し支えないだろう。
誰もが羨むバラ色街道まっしぐら。
そんな彼女に悩みなどあろうはずもない――それが、彼女をよく知る学友一同の総意見であった。
しかし、悩みというものは如何なる時代、如何なる立場の者であっても大なり小なり抱えているものである。
それこそ今後の人生を左右し得る深刻なものから、今夜の夕飯の献立に至るまで千差万物、十人十色。
そして明日香の抱える悩みもまた彼女ならでは、かつ実に個性的な問題であった。
そう、彼女はサキュバスなのである。
サキュバスとは何ぞやと問われれば悪魔であると説明する他ない。
夢魔、淫魔とも呼ばれ、昨今の創作物においてはファンタジーやラブコメ、紳士の読み物や企画もの映像作品などなど登場作品に事欠かない一般教養レベルの存在なのだが、もちろん大多数の人間はそれをあくまで想像上のものとして認識している――のだが、事実は小説より奇なり、とはよく言ったものである。
現に彼女はここにいて、生まれつきの碧眼も銀髪もサキュバスの血に起因している。
ロシア人のクオーターだからですよ〜みたいに前述したがあれは真っ赤な嘘である。
クオーターであることは事実だが、それは彼女の存在を構成するほんの些細な一要素でしかない。
茶木明日香はサキュバス。
それが彼女にとっての不幸であり、また人生最大の悩みの種なのである。
――――――
「別に、彼氏なんて必要ないでしょ?」
それが明日香の持論だった。
聞く人が聞けば盛大な嫌味とも取られかねない主張だが、それが気の置けない友人との昼食の席であるならば話は別である。
「いやいやいや、そりゃ明日香ちゃんみたいに超の付く美人さんならいつだって好きな時に作れるからそう思うんだろーけどさ、あたしみたいな凡女子の場合だとそうもいかないんだよ、これが」
場所は校内の中庭。円形に設置されたベンチで対面に座り、弁当箱を膝に乗せてのランチタイムである。
「凡女子て……優子だって十分可愛いんだし、その気になれば彼氏くらい普通にできるでしょ」
「えー、そうかなー? でも明日香ちゃんにそう言われると自信持っちゃうかも? 的な?」
そう言って楽しそうに笑うのは篠原優子。
少し明るめに染めた髪を可愛らしくボブにカットした、噂好きの今時女子高生である。
明日香との付き合いはそう長いわけでもない。
中学2年のクラス替えの際に隣の席となり、以来不思議な縁で中3、高1、今年の高2と同じクラスになり続けたせいか、今ではプライベートでも頻繁にやり取りをする親友関係に落ち着いていた。
"十分可愛い"
これは明日香から優子に対する純粋で素直な意見だった。
目鼻立ちは整っているし、スタイルも良い。
お洒落にも気を使っていて愛嬌もあり、何より裏表のない性格で男女問わず誰とでもすぐに仲良くなることができる。
その気になれば彼氏くらい普通にできると言ったのも世辞ではない。
もし自分が男であったならきっと好意を抱いていただろうし、彼女なら良い人の一人や二人すぐに見つけることができるだろう。
自分が彼女のようであったなら――と、明日香は憧れにも似た感情を常日頃、親友に対して抱いていた。
「あ、あの……!」
不意に声がかかった。
後ろを振り向くと、そこには見慣れない男子生徒の姿があった。
学年章を見るに一年坊のようである。
直立の姿勢で顔を真っ赤に上気させ、必死に明日香を見つめる様子に、女子二人は察したような表情を浮かべた。
優子に至っては憐れみの色すら帯びる始末である。
明日香は弁当箱を閉じて傍に置くと、男子生徒の前に立ち、
「はい、何のご用ですか?」
そう言って、相手の両目をじっと見つめた。
ドギマギと挙動不審に陥る一年坊。
その瞳の奥には、今まで彼女に想いを告げ玉砕していった無数の英霊達と同様、はっきりとしたハートマークが浮かんで見えた。
しばらくそうしていると、ついにいたたまれなくなったのだろう。男子生徒は意を決したように口を開いた。
「さ、茶木先輩……その、俺……す、好きです……あ、あなたのこと! 初めて、見た時からです……!」
ようやく言えたとばかりに息を吐く。
中庭にいて、事の成り行きを見ていた他生徒達からはパラパラと拍手が起きた。
少しの間を置いて、今度は明日香が口を開く。
「……勇気を出してくれてありがとね」
まずはお礼の言葉を述べ、そして、次に深々と頭を下げた。
「でも、ごめんなさい、私、年上が好みなんです」
それは優しい嘘だった。
別に年上は好みではない。というか恋愛に年齢は関係ないとさえ考えている。
しかし、彼女は嘘をついた。
高校入学当初、早々に告白してきた諸先輩方には「年下が好みなんです」と断って殲滅した経験すらある。
つまりこれは彼女が用いる常套句なのだ。
それでもやはり慣れるものではなく、チクリと心が痛んだ。そして、
「わ、わ……若さが憎いぃぃぃぃぃぃ!」
一年坊はそう叫ぶと、泣き顔を両手で覆い隠しながら走り去っていった。
しばらくの間遠ざかる「ぃぃぃぃぃぃ」が響き渡っていたが、それもようやく途切れた頃、
「明日香ちゃんは悪くない。すべては若さがいけないんだよ……」
優子は親友の肩に手を置き、謎の慰めの言葉をかけた。
――――――
サキュバスは悪魔である。
悪魔であるが故、人知を超えた異能の力を操ることができた。
夢魔と呼ばれたのも、他者の夢の中に自由に入り込むことができ、しかもその夢を都合が良いように改変する力を持っていたためである。
そしてサキュバスは淫魔でもあった。
彼女達は男性の夢の中に侵入し、淫らな夢を見せ、あるいは直接快楽を与え、その精気を舐め取ることを食事とし、活力を得ていた。
しかしそれも今は昔のお話である。
サキュバスの多くは人間の男と恋に落ち、夫婦となり、子供を儲け、連綿と交配した結果、その異能の力の大半を失い、食事も人間と同様のものをとるようになった。
先祖が有していた翼もなくなり、
角もなくなり、
尻尾もなくなり、
身体的な特徴として残ったものはほんの僅か。
明日香のその常軌を逸した美貌も、そのほんの僅かなものの内の一つに他ならない。
では、現代のサキュバスに残された異能の力とは一体如何なるものなのだろうか?
それはずばり――《誘惑》である。
読んで字の如く、その姿を目にした異性を問答無用かつ無差別で虜にするこの異能は、彼女達が人間社会で生きる上で大変有用に働いた。
ある者は単純に意中の男性を射止めることに用い、またある者は権力者、あるいは大きな財力を持つ社会的成功者を籠絡することに用い、さらにある者は面白半分に他人をおもちゃにすることに用いた。
そして、この力にオンオフの切り替えスイッチなどは存在しない。
そして、この力が原因となり、茶木明日香という少女は、大変歪んだ恋愛観を持つに至ってしまった。
曰く、この異能がある限り、本当の意味で自分に好意を抱いてくれる異性が現れることはない。
純粋な瞳で自分を見てくれる異性は存在しないし、素直な評価を与えてくれることもない。
男なんてみんな同じ。
自分と話す時の楽しげな様子も、恥じらいの様子も全部嘘。
"綺麗"なんて言葉も"可愛い"なんて言葉も全部でたらめ。
"好き"だとか"付き合いたい"だとか、全部全部《誘惑》に言わされているだけに過ぎない。
そこに、真心なんてありはしない。
捻くれていることは自覚していた。
母も、姉も、妹も、自身がサキュバスであることに自信を持ち、その優位性を存分に発揮して人生を謳歌している。
でも、サキュバスであるという皮をもし剥くことができたなら、果たしてそこには何が残ってくれるのだろうか。
そんなことを考え始めると、明日香は夜も眠れなくなるほどの不安に苛まれてしまうのだ。
そして、そんな拗らせ女子の彼女の元に、《その時》は、あまりにも突然に訪れたのである。
――――――
化学の授業を受けるため、優子を含めた仲の良い女子生徒数人と共に特別教室へと向かっていた時である。
道すがら他愛もない世間話を交わしていた明日香だったのだが、曲がり角に差し掛かった次の瞬間、ドンという衝撃を受けそのまま尻餅を着いてしまった。
「わ! 大丈夫、明日香ちゃん!?」
「ちょっと男子! どこ見て歩いてんのよ!」
慌てて手を貸す優子と、ぶつかった犯人である根暗そうな男子生徒を責め立てる友人達。
「い、いいよ、みんな、大丈夫だから! 私もよそ見してたし!」
軽い痛みはあったものの慌てて立ち上がり、明日香は相手の男子生徒に頭を下げた。
「ごめんなさい、ケガはなかったですか?」
その生まれ故、男に対して諦めにも似た不信感を持っている彼女だが、その一方で憐れみや同情のような複雑な感情も持ち合わせていた。
いかに屈強な大和男であろうと、いかに聡明なインテリ男子であろうと、《誘惑》を前にすれば誰も彼も似たようなもの。
その気になれば、身も心も差し出させることは容易い。
でも、そんなのはあんまりだ。
そう思うからこそ、明日香はどんな男が相手でも正面から対応することに決めていた。
今回だって自分が友達との会話に夢中になっていたことがその一因となっている。
相手は大してダメージもない様子だったが、ここは自分のほうから謝るのが筋だろうと考えた。
だからこそ、頭を下げた。
これで場は丸く収まる。
万事解決。
結局、男なんて――
「……ちっ」
空気が騒ついた。
和泉沢高校のアイドル・茶木明日香が男子生徒とトラブっているという状況に周りが無関心なわけもなく、遠巻きにその様子をうかがっていたギャラリーだったが、当の男子生徒の口から発せられた短いノイズに耳を疑ったのである。
そしてそれには明日香本人も同様に動揺した。
え? 舌打ち?
聞き間違いだろうかと恐る恐る頭を上げる。
その時初めて、明日香は相手の男子生徒の顔を見た。
それはどこにでもいる、極めて平凡な顔立ちの男の子。
特徴として挙げるなら、そのひどく眠そうな目と、その下の濃ゆいクマ。
そして、明日香を見下ろす、まるでゴミを見るようなしかめっ面である。
彼女は目を離すことができなかった。
背中を汗が伝い、心臓がドキドキと早鐘を打った。
そんな顔で見下ろされたのは初めてだった。
ハートマークの浮かんでいない男の目なんて見たことがなかった。
彼女の知っている男とは、決して彼女にこんな態度は取らない生き物のはずだった。
それは果たして、未知への恐怖から来る感情だったのか。
そしてそんな彼女に、件の男子生徒はさらなる追い打ちをかけるのである。
「ちゃんと前見て歩け! このブス!」
……え? ブス? ブスって、あのブス? え? ええ?
「ちょっと男子! それ誰に向かって言ってるか分かってんの!?」
「家に鏡あるわけ!?」
「ふざけんな! 死ね!」
たちまち周囲から浴びせかけられる非難轟々雨あられ。
しかしその男子生徒は面倒臭いとばかりにヘッドホンを付けると、音量を上げ、そのままスタスタと歩き去ってしまった。
「もう信じらんない! 何なのアレ!」
「茶木さんが頭下げてるっていうのにあれはないよね……」
「ドン引きだよ。人としてサイテー」
「死ねばいいのに」
「いや、あんた、それは言い過ぎ」
単純な怒り、明日香への気遣い、空気を読んだ上での発言が場を満たす中、当の本人は口をポカンと開けたまま、男子生徒が去って行った方向を見つめていた。
「……お、驚いちゃったね、明日香ちゃん」
傍に寄り添っていた親友がそうこぼす。
明日香がそうであるように、優子もまた驚きを隠せないでいた。
茶木明日香に、"あの"茶木明日香に、あのような不躾な態度で接する男がいようとは夢にも思わなかったのである。
そしてその事実はそれ以上に、《誘惑》の異能を持つサキュバスにとっては正に異次元の衝撃であった。
奇跡と言い換えてもいいだろう。
茶木明日香は声の震えを懸命に押し殺しながら、それでもどうにかこうにか言葉を絞り出した。
「今の人……誰だか、知ってる?」
その問いに答えたのは仲の良い友人の一人だった。
キリッとした眉と気の強そうな目が印象的なその少女は、口に出すのも嫌だと言わんばかりの口調でこう話した。
「小笠原拓郎だよ。隣のクラスの男子だけど、茶木が知らなくても無理ないかもね。キモくて陰キャで目立たないし、誰だって話題にしたくないでしょ、あんな失礼な奴」
その説明に優子はああ、と声を上げる。
「そう言えば、たまに体育の合同授業の時に見かけたことあったね! 確かにあんまり目立たない人だったかも……アニメ好きのオタクさんなんだっけ?」
「そ。アニメ好きで、陰湿で、人間嫌い。特に女は大っ嫌いなんだってさ。二次元の女の子以外は近寄るな〜って、まじキモいし!」
「あはは……しんらつ〜」
「あいつのさっきの態度見てたら分かるでしょ? 関わるだけ損だよ、損。茶木もあんな奴の言うことなんて気にしないほうがいいよ」
「…………」
応答のない親友の様子に、優子は心配そうな面持ちでその顔を覗き込む。
「えと……明日香ちゃん?」
明日香の視線は未だ例の男子生徒――小笠原拓郎が消えた廊下の向こう側に注がれていた。
瞳孔が開いている。
不意にピンク色の唇が動き、チュッというリップノイズが鳴った。
「小笠原……拓郎……」
そのあまりに小さな呟きは誰の耳にも届かなかった。
しかしその名前を呼んだ瞬間、彼女の頰と耳がほんの僅かに熱を帯びたことに、本人は気付いていた。
茶木明日香と小笠原拓郎は、こうして最初の出会いを果たしたのである。
続きが気になる! と思って下さった読者の方がいらっしゃいましたら、是非ブクマ・感想等よろしくお願いします。
執筆時のモチベーションが跳ね上がります。