第1話 陸上部の後輩 6\10(月)
「瀬尾先輩って、今好きな人いますか?」
陸上部のジョギング練習中、俺、瀬尾達彦が後輩の女子部員と二人で街中を走っていると、隣を走る彼女がそう言った。
「え? 何で?」
俺はどうしてそんなこと聞いたのか?と言うニュアンスで聞き返した。
陸上部のジョギング練習はさほど体力を消耗せずむしろ暇なので、普段からこうやって走りながら部員と会話している。さっきまで今日の夜暇だな、何しよう?とか最近面白いゲームがあったとか他愛のない話をしていたはずなのに、後輩が急に恋バナをし始めた。
「いえ別に。ちょっと聞いてみただけです」
後輩の女子部員こと薄羽楓は表情一つ変えずにそう言った。
「いたらどうすんだよ」
「別にどうもしないですよ」
じゃあ聞くなよ。
「ただ先輩どんな人が好きなんだろうって思っただけです」
後輩の女子と二人っきりでこの会話。普通はこの後輩との恋愛フラグが立ってないか?と考えるであろう。しかし俺にはそうと思えない理由がある。
「けど先輩に好きな人がいたところで彼女にできそうにないっすね」
「は? 何でだよ」
俺は後輩の失礼な発言に眉を潜めて薄羽を睨んだ。
それと同時に俺たちは交差点に差し掛かり、前方の歩行者信号が赤であるのを確認してジョギングをやめた。
薄羽が人を小馬鹿にする表情で俺を見下しながらこう言った。
「だって先輩、チビだから」
そう。この女はこういう奴なのだ。人のコンプレックスを突いて馬鹿にする。それは相手が先輩であってもお構いなしなのだ。
心の中でふつふつと湧き上がる怒りを抑える。いくら生意気な発言とはいえ相手は後輩の女子。手を出すわけにはいかない。ここは年長者として冷静で理性的な態度を見せるべきだ。優しい言葉でこの女に先程の発言を取り下げてもらおう。
「・・・今のは聞かなかったことにしてやる」
「先輩身長いくつでしたっけ?150cmあります?」
「あるわ!殺すぞ薄羽!!」
先程の決意は一瞬でなくなった。俺の怒気を隠さずに言う。これに薄羽は薄ら笑いを浮かべながら俺の頭の高さに手をやって、自分の肩に押し当てた。
「ホントですかぁ〜? だって先輩の身長、私の肩くらいまでしかないじゃないですかぁ〜」
「お前がデカいからだろぉが!!」
俺の反論に薄羽がからからと笑う。
現に隣に立つ薄羽は女子にしてはかなりの高身長であり、それと比べると彼女の横に立つ俺の身長は低い。恐らく20cmくらいの身長差があるだろう。
「確かに私の身長も高いですけどね。この前の身体測定で175cmでした」
確かに最近薄羽との身長差が開いてきた気がする。コイツに初めて会ったのは2ヶ月前の新入部員歓迎会で薄羽は新入生、俺は2年生として出席していた。そのときに比べると確実に身長が伸びている。それに対し、俺の身長は155cm。中学生の時からミリ単位でしか身長が変わっていない。なんなら縮んでないか?と聞かれたことすらある。その時はお前らが伸びてるだけだと反論したが。
「お前、まだ身長伸びてんのかよ」
「私的にはもう身長は充分なんで、これ以上伸びて欲しくないんですけどね〜」
「俺に対する当て付けか!」
いらないなら俺に身長を分けてくれ!
「それにしても先輩、ちっさすぎじゃないですか?ホントに高校生ですか?」
「お前より年上だよ馬鹿野郎」
「年齢詐称してません?だって先輩、私が小学生のときよりもちっちゃいですよ?」
「お前、いい加減にしないと本当にブン殴るぞっ・・・!」
俺をからかって楽しんでいるのか、俺が怒っているのを見て薄羽はからからと笑っていた。本当に、いい性格をしている女だ。
歩行者信号機の表示が青になると、薄羽は俺から逃げるように走り出した。
「殴れるモンなら殴ってみてください。どうせその短い腕じゃ私に届かないですよ〜」
「お?そう思うんならやってみようか?だから逃げんじゃねぇっ!!」
逃げるくらいなら言うなよ!と心の中でツッコミを入れつつ、逃げ出した彼女を追う。そもそも陸上部の練習中なのであって、ここで追いかけない訳にもいかないのだ。
わざとらしく片手を上げながら追いかけると、あちらもわざとらしい悲鳴を上げながら逃げていく。もはやジョギングのスピードではないが、まだ余裕があるのか、息は切れていないようだ。
さっきから薄羽に対し怒声を上げている俺も、本気で怒っている訳ではない。所詮暇を持て余した陸上部員たちによる取り止めのない戯れである。この追いかけっこも本気でしているわけではなく、彼女のからかいに仕方なく付き合ってあげてるだけなのだ。薄羽による俺の身長イジリは日常茶飯事なので、もはや怒る気力もなくなってしまった。
これでも昔は大人しくて礼儀正しい奴ではあったが、いつからか部員の中で俺のことだけやたらとイジるようになった。なんでそうなってしまったかは具体的には覚えていない。しかし、確か彼女をムッとさせることをうっかり言ってしまったんだろうと想像はつく。なので彼女のイジリも多少大目にみている。
「やーい先輩の短足〜。ストライドも短いっすね〜」
「・・・相当殴られたいみたいだな」
といってもウザいものはウザい。俺はジョギングをやめ、そこそこ本気のランニングで追いかけ始めた。あくまで練習内容がジョギングだったので、ジョギングの域を出ない速度で追いかけようと思っていたのだが、今の発言で気が変わった。
「げ、先輩がキレた!?」
さっきまでジョギングをしながら余裕の表情で前方を走っていた薄羽も、スピードを上げた俺を見て慌て出した。遂に俺が本気で起こったと思ったのか、あちらもランニングのペースで逃げ始めた。
背の高い薄羽は俺のことを短足呼ばわりしてるだけはあって脚が長い。そのためストライドがとても長く一歩一歩が大きい。それでもピッチで上回る俺が薄羽との差を詰めていく。
脚の長さというハンデはあれど、こっちは男子であっちは女子。さらに彼女は入部2ヶ月の新入部員である。陸上2年目になった俺が負ける訳にはいかない。
間も無く薄羽に追いつくと、彼女の着ているジャージを乱暴に掴む。掴まれた薄羽は突然の感覚に驚いて跳び上がった。
「捕まえたぞ、薄羽ぁ・・・」
「うげっ!」
あまりに女の子らしからぬ汚い悲鳴である。薄羽はジャージを掴んだのが俺であるのを確認すると観念して走りをやめた。
「ひぇ・・・大人気ないっすよ先輩。後輩女子捕まえるのに全力疾走ですか?」
「はぁ・・・全力疾走な訳あるか・・・!」
そう強がって言ったものの、正直息を切らしていた。というのも薄羽の逃げる速度が予想以上に早く、全力に近いスピードで追いかけていた。それを悟られるのは嫌だったので呼吸を整えていたのだが、あっさりとバレていた。
それに対して薄羽の方は息を切らしている様子はなかった。必死に追いかけてきた俺を見て若干引いてるようだった。
「・・・何かすいません先輩」
その謝り方は一番悲しい。女子の後輩に身長で負けるのはもう諦めがついたが、走力で劣っているかも知れないと思うと流石に情けなくなってくる。勿論彼女が悪い訳ではないので謝られてもどうしようもないのだが。
二人の間にいたたまれない雰囲気が流れる。その時、左腕につけていた腕時計がピッ!と鳴った。
「・・・そろそろ時間だ。学校に戻るぞ」
「はい!」
ジョギングは60分と決まっている。その間は学校の敷地外のどこを走っていてもいいのだが、ちゃんと時間を見てないとそれまでに帰って来れなくなる。勝手の分からない後輩の面倒を先輩がしっかり見て、迷子にならないようにするのが陸上部の慣しである。
さっきと打って変わって従順になった薄羽を横目にジョギングを始める。彼女も俺のすぐ後ろをついてきた。
先ほどまで散々身長のことをイジられていたが、ちゃんと部活の先輩後輩の関係は崩れていない。属に言う後輩スイッチ(俺が命名した)である。俺が陸上部の先輩として発言したときには後輩らしく従順な態度になる。これが後輩スイッチがオンの状態。逆にジョギング中など暇だったり、部活以外になると後輩スイッチはオフになる。
「・・・瀬尾先輩」
しばらく沈黙していた後輩スイッチオンの薄羽が俺に話しかける。
「・・・どうした?」
いつになくしおらしい薄羽の態度にやりづらくなる。最近は後輩スイッチオフの彼女とばかり会話していたので、それとのギャップに戸惑っていた。しかし、俺も先輩らしく毅然とした態度で接しようと薄羽の方を振り返る。
「今さっきすれ違ったランドセル背負ってる女の子、先輩より背たかくなかったですか〜?」
いつのまにか後輩スイッチはオフになっていた。人を小馬鹿にする見慣れた薄羽の表情にイラッとしつつ、しかし奇妙な安心感もあった。
なんだかんだ言って薄羽とのやりとりを楽しんでいたのかも知れない。
「そんな訳ないだろ。眼科行け」
「私両眼1.5ですー。先輩の目が節穴なんですよ」
「じゃあ頭が悪いんだ、脳神経外科に行け」
「成績はどちらかというと優秀な方ですー。むしろ毎回補習に引っかかってる先輩の方が頭悪いじゃないですか〜?」
「頭の良さは学業の成績だけじゃねぇぞ」
「そんな屁理屈ばっかりこねてるから先輩はチビなんですよ」
「はぁ〜?関係ないだろ! やっぱお前馬鹿なんじゃねぇか?」
「馬鹿って言ったぁー!可愛い後輩に言う台詞じゃないですよ!先輩は身体もちっさければ心もちっさいんですね」
「誰が可愛い後輩だ?普通後輩は先輩に向かってチビとか狭量とか言わねぇんだよ!」
人目をはばからず、下らない言い合いを続けながら学校への帰り道を走る二人。はたから見たら二人が喧嘩しているように見えるだろうか、それとも仲良しに見えるだろうか。
西の空はすでに茜色に染まっていた。