序:髑髏は嗤う
多分、私は残酷な選択をしてでも"約束"を優先する。
だから、どうか私のことは赦さないでほしい。
嗚呼、どうしてそうも簡単に他者を信じてしまうんだろう。
「だから、貴方は此処で終わるんです」
いつものように微笑んで、私は彼の人の額に十字を合わせる。
「どうぞ恨んでください。それをも糧に私は死出の旅路を突き進むでしょう。どうか、赦さないでください。憐れな死徒にやがて訪れる苦痛の死の中で、貴方の名を呼び、貴方のことを思い出せるように―…」
まるで祈りにも似た独り言。
そうして引き金は引かれた―…。
〆〆〆
大粒の雨が石畳を叩いては跳ねて散っていく。
大抵の人はこんな天気は好きになれないと家にこもって酒でも飲むのだろう。けれど、それは"家"が在って初めて出来ることだ。
名も無い、正確にはその"名"と言う初めの愛情さえ欠片も与えられなかった家なき子供達。ストリートチルドレン達にとっては一種、恵みの雨でもあるのだ。飲み水さえままならないここでは、その雨水が決して綺麗なものでなくとも飲むしかないのだ。
此処はスラムの中でも一番酷い地区。大破壊の後で見捨てられた街の一つであり、最下層でもある。そして今は"ゴミ捨て場"であり、"廃棄場"であり、そして死神の住む、"処刑場"となっている。
震える手足を叱咤して一人の少女は帆を進める。
このスラムにおいてはありえない程の豪奢なドレスをたくしあげて、早足で進むその足は裸足だ。足の裏から滲む血が痛々しい赤を落としていく。それでも凛と前を見据えて、恐怖に負けじと進んでいくのだ。
少なくない視線が少女を追っていた。
それは奪う為であり、生きる為であり、そしてその為の一瞬を見逃さない為である。
そんな視線もある場所からは追ってこなくなった。
それは少女が目指した目的の場所に到達したから、だろう。
そこはスラムに在って異質、異様だった。
大破壊以前はこれが普通だったというが、その時代から今も生きている者がほぼいない所為か、信じている者は少ない。
石造りのようにも見えるが、これはコンクリートと言う元、液体状の石だというのだ。この石壁の中には鉄でできた柱が縦横に走ってより強い壁にしているのだとも。
そう教えてくれたのはその不思議な高層建造物にたった一人で住んでいる存在だ。
年齢不詳、性別すら不明。けれど博識で貴族たちでさえ時折お忍びで助言を乞うほどなのだ。
一見石造りに見える建造物が異様なのは、傷一つなく、失われし技術の一つである電気が王宮以外で唯一現存しているということも要因だ。
マンション、そう呼ばれていた、と苦笑いで教えたここの主はその"マンション"の四階の一番端の部屋にいる。電気があるお陰で今も現役で動いている昇降機へと乗り込んで、少女は灯った4、のパネルを押した。
扉が閉じて鉄の箱はガゴン、と上昇を始める。
次に扉が開けば、きっと…。
少女は悲壮な決意を胸に、言葉を噛み締めた。選択を、切り札を、タイミングを見誤れば、奈落へと真っ逆様に落ちるということを聡明な少女は残念ながら理解していたからだ。それでも、彼女にはもはや退路すらないのだ。
ガゴンッ、動き出しの時と同じような音がして昇降機は停まり、少女は小さく息を吐いて廊下へと歩み出る。そして真っ直ぐに彼の存在がいる部屋へと進んでいく。
この建物は一つの階に七部屋あるのだ。廊下はT字型をしている。
T字の足の部分の一番奥の部屋。"401"と掲げられた扉が彼の人の部屋の扉だ。
少女は扉の前に立つと、"インターフォン"と教えられた呼び鈴を一度押して応答を待つ。以前、自分の知る呼び鈴とはずいぶん違うことに驚いて何度も押してしまい、大層立腹した彼の人に口も聞いてもらえずに酷く冷めた視線と拒絶をされてからはどんな状態でも待つことを覚えた。
しかし、危急の用で来訪している今日は、出てきてくれるまでのほんの僅かな時ですら心を波立たせる。
「来るなら明るいうちに、と言った筈なんだけれどねぇ…。…そうかい。来たるべき時が来たのかい。…お入り、勇ある姫君。智を貸そう」
ガチャリと扉を開けた部屋の主は少女を見るなり何かを悟ったかのようにそう言って少女を招き入れた。
音を立てて閉まった扉は変わらずソコにあるというのに。少女を尾行していた招かれざる客人はまるでそんな扉など見えていないかのように視線を彷徨わせるばかりだ。
昇降機を降りて、確かに少女はそちらへ向かった筈だというのに…。髭面の男が少女と入れ違いで四階に降り立ったとき、小さな赤い足跡があることを確認している。しかし、足跡は廊下の途中で忽然と消えてしまっている。挙句、この建物、通電しているのが不思議なほど荒れ果てている。男は首を傾げ、ならば出てきたところを。そう考えたのか、再び昇降機を操作して下の階へ降りるべく、開いた扉へと足を踏み出した。
隠れているはずの少女の気配を探るように視線は廊下へ向けたまま、後ろへ下がるように開いた昇降機へと足を踏み出した。そして―…。
「危機感が足りていないのか。それとも警戒心が足りていないのか。さて、キミはどちらだと思う?」
突如かけられた声。声のした方へと視線を跳ね上げる。
廊下の天井からずるりと這い出るように、滲み、揺らぐ影がそこに在った。
ぼんやりとしてはっきりと像を結ばないソレは、真なる闇が人の形を模しているように見えた。おおよそ顔の辺りに二つ、深紅の光が輝いていた。
「ヒッ!?」
その異様な光景に恐怖と驚愕で男は息を呑んだ。
「嗚呼、人為らざるモノと相対するのは初めてだったかい?それは失礼した。ケレド、キミは知ってる筈だろう?壁の外に何があるのか、城の地下の真実。そして、キミの主の秘密」
「お、お前、何者だ?!一体、な、何を知っていやがる?!!」
「君の質問に答えてやってもいいんだが、それならコチラの問いにも答えるべきじゃないかね?」
「何を、言って?」
「ふむ、答えないならもう用はないな」
闇がずるりと形を変える。
まるで、掴んでいた何かを離すように。ぶわりと広がったのだ。
瞬間、髭面の男は理解不能な浮遊感に、何が起きたかわからなかった。理解できないまま、あ、と思った時。浮遊感の正体が落下によるものだと思い至った。しかし、状況を理解した時には手遅れだった。
壮絶な破砕音とトマトを潰したような不快な音。男の身体は落下の衝撃で腰まで一気に潰されていた。だというのに男は即死できずに迸るように叫び声をあげ、悶絶して口の端から泡がこぼれる。
何かから逃れたいとでもいうように残った両腕を振り回して暴れた。
苦しみで、痛みで、恨みで、増していく憎しみで、怒りで、悲しみで、後悔で、叫んで血を吐いてそれでもまだ死ねずにもがきながら失血で失神し、命が失われるその間際。彼は此処がどこであるかを思い出した。自身の命を対価に、身をもって思い知らされたのだ。
「初めの問いは…ソウ、キミの死の要因だ。愚かなヒトよ。嗚呼、もう聞こえちゃいないだろうが。答えてやるとも。知っているよ。ヨオク、ヨオオオク、知っている。大破壊の真実も、貴族どもの欲するものも…。そしてコレから始まる悲しき戦いも。全て知っているよ。ケレド、先のことは知らないサ。…傍観者ではモウ居られないかも、知レなィね」
昇降機の竪穴の底。其処に秘められたモノ。
カタカタと髑髏達が嘲笑った。新入りの誕生を、再び行われた惨劇を。そして己と同じ愚かな選択を。
此処は最下層スラムにして"死神の棲まう場所"そして、此処こそが、"死神の教会"なのだから。
身体のような深淵の闇を揺らめかせ、どこか楽し気に深紅の光を瞬かせた死神はじわりと影が消えるようにその姿を消した。
〆〆〆
少女は知っていた。傷一つない"マンション"はその壁に真っ赤な逆十字が描かれていることを。それが神への叛逆を示すことも。
けれど少女は知らない。その真っ赤な赤がペンキでないことも。昇降機の竪穴の底でひっそりと嘲笑う躯のことも。
話し疲れて眠る少女を眺めて、部屋の主は独り言をおとした。
「…今更ですか。どれほど時が経とうとも、やはり変わりませんか」
心底呆れたように呟いて、そうしてそっと部屋の灯りを消した。
そうして、はるか遠い彼方の夢に想いを馳せる。今尚、色彩豊かに残る日々の記憶達。それだけが今や事故の存在証明のようで。少しずつ失い始めたソレを大事に大事に掬い上げる。
目の前の少女を通してわずかながらも新たな力の一端を知り、正直笑いたいのに泣き出しそうで。その上今日は満月だ。どうりで明るい。
いつの間にか上がった雨。
暑い雲の間から丸くて赤い不吉な満月が顔を出していた。