Ⅴ
<鷹卿>
皇家鷲族闘技場は、既に半分ほど、空獲りに参加する十三歳の若者で埋め尽くされていた。
鷹卿が闘技場に下り立つとほぼ同時に、誰かが物凄い勢いで飛び去って行った。ちらりと目に入った翼の形が隼で、どうやら隼族の女卿のようだったが、鷹卿にとっては、そんなことはどうでもよかった。
鷹卿は、精神を空獲りに優勝することだけに集中させた。そうでなければ、不安に押しつぶされそうだった。自分が空獲りに勝てばいい。勝てば、トルクも生きのびる。そう、懸命に自分に言い聞かせた。
鷹卿には、三つ歳の離れた弟がいる。それがトルクという。
トルクは、生まれた時から身体が弱く、飛ぶことはおろか、長時間歩くことさえままならない。しかし、心根の優しい、頭の良い弟で、武術に秀でた兄をひたすら誇らしく思ってくれている。鷹卿にとっては、この世にただ一人と言ってもいい、掛け替えのない存在だ。
もともと鷹族は翼族最大の部族で、その頂点に立つ、大鷹の翼の公家鷹族は、四大公家の中でも最も力のある一族だ。当然、人々の誇りは高く、その頭首である鷹族公爵には、並々ならぬ威厳と統率力が要求される。
その後継者として生まれた鷹卿に期待されるものも、強さと独立心だ。平伏す者たちは持っても、馴れ合うものは持つな、という育てられ方をした若者に、心を許せるものは少ない。弟は、鷹卿にとって唯一のそういう存在だ。
その掛け替えの無い弟が、感冒をこじらせ、数日前から危篤状態に陥っている。
こんな時、いつも鷹卿は、人一倍丈夫に健康に生まれてきた自分が、弟に残すべき精気を、すべて母の胎内から持ってきてしまったように感じる。謂れのない罪の意識に苛まれる。
今回、その行き場の無い憤りは、もう危ないようです、と告げた医師に向けられた。役たたずめ、と医師を殴り倒し、別の医師二人を従えて弟の寝室にこもったのは、一昨日の晩のことだった。
しかし昨日になると、夜明けと共に、突然、鷹卿は医師を残して弟の傍らを離れた。一日中飛行術の稽古をし、晩には生死の境を彷徨っている弟を尻目に、十分な食事を取って、サッサと寝てしまった。見舞いすらしなかった。
それが、今日の空獲りに勝つためだということは、誰の目にも明らかだった。父親である公爵は、もともと身体の弱い弟の生死よりも、鷹族の名誉と誇りを重んじたとして長男を称えた。が、真実はそうではなかった。
昨日の朝、不意に鷹卿は、弟が自分の空獲りの勝利を望んでいたことを思い出したのだ。
トルクは、兄が何事かで勝利を収めることを、いつも自分事のように嬉しがった。『兄上、すごいですね、すごいですね』と、誇らしげに目を輝かせて兄の勝利の話を聞くのだ。そういう時のトルクは、驚くほど生気に満ちている。それが空獲りの勝利ならば、尚更強い活力をトルクに与えるに違いなかった。
ならば、今、自分がすべきことは、弟の枕元で、成す術も無く、間抜け面をして佇んでいることではない。何としてでも空獲りに勝つことだ、と思ったのだ。
だから、準備をしなければならなかった。準備を怠れば、いくら天性の飛行術の才能がある自分でも、あれに勝つことは出来ない、と鷹卿は知っていた。あれ、というのは、同い年のコンドル族の王子だ。
少々話が逸れるが、鷹卿と、コンドル族の王子とは、水と油の仲で有名である。昔から、反りが合わないようだと互いに意識はしていた。が、違う初等学校に属していたし、会う機会も少なかった。それが、今年奇しくも同じ飛武術本館で共に学ぶようになり、反目が表面化した。
コンドル卿は、鷹卿にとって、一から十までが気にくわない相手だった。
まず、このコンドル族の王子は、飛武術本館に、自分の卒業した初等学校から年少の者を見学に連れてきたりする。年下に慕われるのは結構だが、自らがまだ新入の身でそういうことをするのは、鷹卿には、身の程をわきまえていないように見え、だらしなく思えてならない。
また、誰にでも愛想よく話しかけるところがある。その態度は、身分の高い者でありながら、周囲に媚を売ることを良しとしているようで、鷹卿の目には不快なものとしか映らない。全くもって、上に立つ者の厳しさというものがない。
そして何よりも、コンドル王子は大柄で無骨で、四大公家の王子たるに相応しい気品や優雅さというものに欠けている。大体、コンドル族など、四大公家の一員に数えられてはいるが、戦闘能力に長けている以外は特筆することもない小部族だ。名門大部族の鷹族とは、そもそも格が違う。その格式のなさが現れているのだろう、と鷹卿は思っている。
が、そのくせ、学問も飛武術の才も、鷹卿に勝るとも劣らないときている。
誇り高い鷹卿が、そんな相手を気に入るわけがなかった。
当然、立場を変えれば似たようなことがコンドル卿の心の中でも起こっていたらしく、飛武術本館で顔を合わせると、諍いが起こらないことはなかった。口論はもちろん、木刀勝負にまで発展することも多く、実のところ、館の年長者たちも、この二人の啀み合いには手を焼いているのだった。
鷹卿が空獲りに勝つためには、何といっても、そのコンドル卿に勝たなければならない。鷹卿は、それを十分に理解している。
認めるのは腹立たしいが、コンドル族の王子は実力のある相手だ。準備を怠ればきっと負ける。だから、本当は一時も弟の側を離れていたくはなかったが、必死で心を抑え、飛行術の稽古をし、休息も十分に取ったのだ。
甲斐あって、準備は万端だった。
今は、弟のことは考えまい、と鷹卿は思った。ただ、空獲りに勝てばいい。勝者の懐剣を手にすれば、必ず弟も生きのびようとしてくれる。
軽く身体を動かしながら、鷹卿は、そう自分に言い聞かせていた。
その時だ。
「鷹卿!」
独特の澄み切った高い声がした。振り返ると、見覚えのある白い顔が微笑んでいる。白鳥族の王子だ。
鷹卿は、この白鳥族の王子には、敬意と好意とを抱いていた。現皇太子妃の弟という立場のこともあるだろうが、何よりも、弟トルクの数少ない友人だからだろう。画の師を通して知り合ったのだと、弟から聞いている。
「弟君の具合はどうですか」と、微笑みながら白鳥卿が尋ねてくる。
鷹卿は、表情を変えずに「いつもの通りです」と嘘をついた。空獲りの儀式の前に、トルクの危篤をその友人に知らせるのは親切ではない。見るからに優しげな白鳥卿は、きっと動揺するだろう。それに、弟が苦しんでいるのを、他人に知らせるつもりもない。
「そうですか。良かった」と、白鳥卿は愛らしく笑った。
つられて鷹卿も笑った。
と、白鳥卿が予想外のことを言い出した。「空獲りが終わったら、頼まれていた絵を届けに伺おうと思っていたところです」
「絵?弟が、卿に何か頼んでいましたか」
白鳥卿は、柔らかく頷いた。「ええ、表装をね、頼まれていたんですよ。素晴らしい絵です。鷹卿はもうご覧になりましたか?」
「何の絵です?」
「卿の絵です。飛武術をしているところ。見事ですよ」
「……私の……いつの間に……」そう呟く、鷹卿の表情が微かに歪んだ。自分をそんなふうに描いてくれる弟が、今にもこの世から消え去ろうとしている、そんな不安が、再び強く鷹卿を襲った。
「……鷹卿?」
白鳥卿の不思議そうな声で、鷹卿は、はっと我に返った。咄嗟に、「いや、まだ見ていません」とだけ返した。
白鳥卿は、穏やかな目で少しの間、鷹卿を見つめた。
それから、静かに口を開いた。「……僕ね、あの絵を見て、二つの意味で羨ましかったんですよ。絵に描かれた卿のように飛武術が出来ればいいな、と思ったし、弟君のように絵が描ければいいな、と思ったから。でも、今は三つの意味で羨ましいようです。卿のところほど、深く心の繋がっている兄弟を、僕は見たことがありません」白鳥卿は、納得したように頷いて、微笑みながら「きっと大丈夫ですよ」と続けた。
鷹卿は驚いて相手の顔を見た。
「大丈夫ですよ」そう繰り返して、白鳥卿は、もう一度笑った。大人びた、驚くほど優しい笑みだった。
それから、ふ、といつもの幼い様子に戻り、慌てたように続けた。「僕は、もう失礼しなければなりませんね。これ以上、卿のお邪魔になってはいけません」
それから急いで頭を下げ、白鳥卿は返事も待たずに人ごみの中に消えて行った。
その白い翼を、鷹卿は呆気に取られて眺めていた。
(……大丈夫……トルクのことか?知っていたのか?それとも、心を読んだのか?)
鷹卿は、眉を顰めて、暫くの間、その場に立ち尽くした。不意打ちを食らったように、頭の中は混乱していた。
少しして我に返り、鷹卿は、再び身体を動かし始めた。
不思議なことに、気づけば、先程までの不安が消えている。どうも、あの白鳥の王子からは、光の匂いしか漂ってこない。その光に、不安の方が溶かされてしまった。
鷹卿は、かつて祖父が側に置いていた、イサという名の付き人のことを思い出していた。鍬形翅の豪農の出で、色が浅黒く妙に人懐こい顔をしていた。鷹卿が生まれた時にはもう館にいたが、祖父が頭首になった頃に呼び寄せたのだという。粗野で闊達で鷹族の仕来りにも疎かったが、祖父は好きにさせていた。
自分を取り巻く世の仕組みが、少しわかるようになってきた頃、不思議に思った鷹卿が、なぜあの無作法な昆虫翅を館に置くのですかと聞いたことがある。その時、祖父が答えるでもなく呟いた言葉を鷹卿は思い返していた。
『……生まれてこのかた、心に不安を抱いたことがない者には、不安を抱く者の心など、決して分からぬ。心に不安の無いものに、邪心が付け入る隙など無い。これを使わぬ手はないわ』
その言葉の意味が、今、突然腑に落ちた。
不安を知らない者というのは、不安の心が分からぬが故に、根拠のない平安を、人の心に与えることも出来るのだ。イサはそういう人物だった。豪農の次男で何不自由なく自然の中で育ったと、本人から聞いている。
実は、世の禍事の多くは、負の心が呼び寄せている。
祖父が亡くなった後、実家のある村に戻ってしまったが、確かにイサがいた時は、館内のいざこざがやけに少なかった。そういうことか、と鷹卿は思った。
今も、何故か弟は本当に大丈夫だという気になっている。
自分は、今はただ空獲りに集中すればいい。誇りある鷹族の王子として、あの世俗的なコンドルに負けるわけにはいかない。
翼の調子を確かめながら、「……白鳥の王子は、イサのような魔除けの護符にもなるようだ。しかも、イサよりずっと見目もいい」と呟いて、鷹卿は珍しく柔らかい笑みを浮かべた。
・〜・〜・〜・〜・




