第3章 2
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「洗車したんだって?」
食堂で日替わり定食を食べていると、後ろから声をかけられた。
ビックリしたというかぞっとした。なぜならまた「洗車したんだって?」などと洗車のことで声をかけられたからである。
声の主は上司の小山係長だった。
武彦は言った。「洗車ですか?」
「ああ洗車さ。お前洗車をしたらしいじゃないか」
「ええしましたが」
「したのか!」
「ところでその話は誰から聞いたんです?」
武彦はとりあえずこのことだけは聞いておかねばならないと思った。その話誰から聞いたんですか。俺が洗車をしたってこと、それは誰から聞いたんですかね?
トラウマなんですよ。
ええ。
もうほとんどトラウマといっていいでしょうね。こんなに洗車のことをなじられるとは思っていなかった。洗車をしたときは、こんなに会社のみんなからなじられることになるとは思いも寄りませんでしたよ!
小山係長が答える。「誰から聞いたかって、そんなのこの会社の奴だったら誰でも知っているさ」
「誰でも知っているですって?」
武彦は困惑した。誰でも知っているとはどういうことなのか。そのままこの会社の社員なら、全員が全員俺が洗車したってことを知っているっていうのか。そんなことありえるのか。そんなことってまともなのか。
たとえば社長が交代したとか、どこかから買収されてしまうとか。そういう話だったらまだ理解できるんだ。そういう規模の話ならば、社内の全員が知っているということでも理解できるんだ。だが俺の洗車はどうだ! そこへきて俺の洗車はどうだというのだろう。
そんなにみんなの話題の中心になるべきものだろうか。
そんなにみんなを魅了してやまない話題だというのだろうか。そうは思わん!
「誰でも知っているってどういうことなんですか?」武彦は尋ねた。
「誰でも知っているとは誰でも知っているということだよ」
「ということは本当に誰でも知っているんですね」
「ああ誰でも知っている」
「同じオフィスの人も全員?」
「もちろん」
「この食堂にいる人たちもみんな?」
「私以外にもこの食堂で声をかけられなかったかね」
「いえ食堂では小山係長が初めてです」
「そうか」
「それにしてもそんな話……そんな話はにわかには信じられませんがね」武彦は言った。
「何が信じられないんだ?」
「この会社の社員だったら誰でも僕が洗車をしたってことを知っているってことがですよ!」
武彦は自分でも信じられない気持ちだった。信じられない。まだ小山係長と話を始めてからほとんど時間が経っていなかったが、朝一番の竹島さんとの会話のあわせ技でもううんざりした気持ちだった。うんざりした気持ちになってしまってもう家に帰ってしまいたい感じだった。家に帰ったところで何になるというのだろう。家に帰ったって別にしなきゃいけないことなんてない。
小山係長が言う。「隣に座ってもいいかな?」
「もちろんです」
武彦が返事をすると、すぐに小山係長が隣の空いている席へと座ってきた。彼もまたここで昼食をとるつもりだったのだろう。何定食かはわからなかったが、小鉢のたくさん乗ったトレイを手に着席してきた。このままだと今から食事が始まる。
「ところで君が本当に洗車をするとはな。まさか洗車を本当にするとは思っていなかったよ」
「どういうことなんです?」
武彦は小山係長の発言に頭が混乱した。まさか本当に洗車をするとは思っていなかっただって? まるで何かのようだ。まるで洗車ではない何かのことを言い表しているようだ。結婚? いや結婚というわけではないだろうが、それにしたって小山係長の言い回しは不自然だ。きっと彼なりに洗車ではない何かを感じながらも、しかし洗車のことについて言及しているに違いない。おもしろがっているのかな?
武彦は何となくちょっとむっとしながら言った。「洗車ですよ。小山係長、僕はただ洗車をしただけなんですよ!」
「それが一体どうしたというんだ!」小山係長が言う。「洗車をしたくらいでどうしたというんだ。洗車をしたくらいでどうした。いきなりそんなに大きな声を出すんじゃない」
「申し訳ございません」
武彦は相手が自分の上司の小山係長だったので素直に引き下がった。本当に申し訳ございません。急に大きな声を出してしまい申し訳ありませんでした。自分でも大きな声を出すつもりはなかったのですが、意図せず出てしまいました。出してしまったことはお詫びいたします。本当に申し訳ございませんでした。
でも洗車をしただけなんですよ。僕としてはですね、本当にただ洗車をしただけというわけなんですよ。それ以外は特に何もやっていないんです。それ以外は、特に変わったことなんて何もやっていないんですよ!
武彦は言った。「確かに僕は洗車をしただけなのに、声を大きくしていまいましたね」
「ああ本当に大きかったぞ」小山係長が言う。「さっきの声は本当に大きかった。きいた瞬間に大きすぎるだろうと思ったんだ。いいか三井君、ここは会社の食堂なんだぞ」
「はい」
「あんまり大きな声を出したら周りのみなさんに迷惑だろう」
「申し訳ございません」
「わかればいいんだ」
「すみません」
武彦は謝った。自分でも小山係長のいうところがわかった。確かにここは会社の食堂で、今利用している人たちだって自分たちだけというわけではないのだ。自分たちだけというのではなくて、ほかにもいろいろな人が利用しているのだ。
たとえば自分の会社の人たちだけではなくて、もしかするとほかの会社の営業さんたちも利用しているかもしれない。ほかの会社の営業さんたちも利用していたらどうするんだ! ああここの会社にはすぐに大きな声を出すような気の短い変な社員がいるんだな、などと思われて自社の株が下がってしまうことだろう。自社の株が下がってしまうことがあるかもしれない。そんなことになったらどうする! マジでそんなことになってしまったらどうするというんだ。俺にはとてもじゃないが責任は取れん。とてもじゃないが俺みたいな下っ端にはその責任なんて取れはしないんだぞ!
「まあわかってくれたのならそれでいいんだ」小山係長はそう言うとトレイに持ってきた料理を食べ始めた。やはり食事が始まったのだ。
「ありがとうございます」
「いいんだ、俺だってお前のことそこまで責めるつもりはないんだ」
「そうなんですか?」武彦は言った。
すると小山係長が答える。「そうだとも。俺だって何もいたずらにお前のことを責めようってわけじゃないんだ」
「そうなんですか」
「そうだとも! 俺はただお前に気づいて欲しかっただけなんだ」
「気づいて欲しかっただけ?」
「あんまり大きな声を出しちゃいけない」
「あんまり大きな声を出しちゃいけない?」
「そうだ。人間は、急に大きな声なんてものは出しちゃいけないんだ」
「そうなんですか」
「それくらいはお前だってわかっているだろう?」
「わかっていましたよ」
「そうだろう。だが気がついたら大きな声を出していた、違うか?」
「違わないです。まったくその通りです」
「その通りだろう。お前だって、自分で意識できているうちはそんなに大きな声を出すことなんてないはずだ」
「ないでしょうね」
「だろう?」
「ないですよ。自分で意識しているうちは、大きな声なんて滅多に出す機会はありません。やはり大きな声が出てしまうときっていうのは、無意識のときの方が多いような気がします」
「そうだろう。お前はさっき無意識だったんだ」
「無意識だったんでしょうね」
「それで大きな声が出た」
「ええ」
「自分でもビックリしてしまうような、そして他人から指摘されればすぐにそうだと自己反省せざるを得ないような大きな声を出していたんだ」
「出していたんでしょうね」
「だが気にすることはない」
「はい」
「お前はもう十分に反省した。十分に理解したはずだ。だから次はどうするべきかわかるな」
「はい」
「次はどうするべきなんだ?」
「何が起きても動じないことです」
「何が起きても動じないこと?」
武彦は言った。「そうです。何が起きても動じないようにすれば、自分が無意識になることはありません。自分が無意識にさえならなければ、つまり無意識にならざるを得ないような状況さえ防ぐことが出来れば、僕は大きな声なんて出しません」
「そんなことが可能なのかな!」小山係長が言う。「そんなことって可能なのだろうか? 果たしてそんなことって可能なのかな! 無意識になる状況をそもそも防ぐなんて、そんなこと普通の人間にできることなのだろうか」
「やってみせますとも」武彦は答えた。「やってみせますよ。できなくてもやってみせます! それが僕の大声への懺悔なんです」
「なんで洗車なんかしたんだ?」
急に話題が変わった。
武彦は最初ビックリしたが、そういえば小山係長とははじめからガソリンスタンドでの洗車の話をしていたのであって、彼がまた洗車のことを話し出すのは、いずれ予定されていたことなのである。だからもしかするとこの転調も、そこまで変なことではないのかもしれない。いつかはなされるべき事柄だったのである。
武彦は言った。「それはアドバイスがあったからですよ」
「アドバイスがあったからだって?」小山係長が箸をとめる。
「そうなんです、実は今回の洗車は、自分ひとりで決めたことではないんです」
「それは一体どういうことなんだ?」
「ええ、詳しくお話しますとね――」
武彦は自分が今回の洗車に至ったいきさつを簡単にかいつまんで小山係長に話した。
小山係長が言う。「とすると、そのお前の友達の上本って奴がお前に洗車をすすめたってわけなのか」
「まったくその通りなんです」
「その上本って奴はどんな奴なんだ?」
「どんな奴?」
「つまり洗車に詳しい奴なのか。いってみれば洗車のプロみたいな奴なのか」
「いいえ全然」武彦は答えた。「そいつはただの友達で、さらにいうとここの会社で働いている同僚ですよ」
「ここの会社で働いている同僚だって!」小山係長が驚いた様子で言う。「ってことはお前の言っている上本っていうのは俺の知っている上本でもあるのか」
「多分そうですよ」
「そうなのか」
「何だと思っていたんです?」武彦は言った。
「わからん」
「わかりませんか」
「ただあああの上本なんだ、と思ったね。俺は今あああの上本にすすめられて三井君は今回の洗車に踏み切ったのか、と思っているよ」
「実はそうなんです」
「汚れていたのかな?」小山係長が言う。
「え?」
「汚れていたんだろうな。汚れていたからこそ、上本だってお前に洗車をすすめてきたんだろう」
「そりゃその通りだと思いますが」
「やっぱりな!」小山係長が少し興奮気味な感じで「やはりな、やはりそうだろうと思ったよ。汚れていたんだ、お前の車は汚れていたんだ、汚れていたからこそ、だからこそお前は今回の洗車に踏み切ったというわけなんだな」
「ええ」
武彦は答えながらも「それのどこがおかしいんだ? それのどこがいけないというのだろう」と疑問に思わずにはいられなかった。汚れていたから洗車をしたのさ。そうとも。俺は車が汚れていたから洗車をしたんだ。逆にそれ以外の理由があるというのか? それ以外の理由で洗車をすることなんてあるのだろうか。
武彦は言った。「汚れていたんですよ。汚れていたから私は自分の車を洗車したんです」
「そうだろうな」
「汚れていたんですよ。ですが違うんです」
「何が違うんだ?」
「自分としてはそこまで汚れているとは思っていなかったんです」
「そこまで汚れているとは思っていなかった?」
「そうです、思っていなかったのです」武彦は言った。「自分としては、汚れていることは知っていましたが、しかしだからといって洗車をするほどではないかなと思っていたんです。ところが上本君に指摘されてみて、洗車をすべきなのかな、と思ったというわけなんです」
「すべては上本の助言があったからというわけなのか」
「そうなんですよ」
「するとそこまで本格的に汚れていたというわけではなかったのかな?」小山係長が言う。
「どういうことです?」
「お前としては洗車はまだ必要ないかなと思っていたんだろう、だが上本からしてみれば洗車をすべきだった」
「おっしゃるとおりです」
「二人の判断が違ったわけだ」
「そうですね」
「だがお前も上本に言われてみて洗車に踏み切った」
「ええ」
「最終的にはお前も上本の意見に賛成したというわけだが、最初は二人で意見が違ったんだ」
「違ったんですよ」
「誰が見ても洗車をすべき状態にあったというわけではない」
「そういうことになりますかね」
「なるだろうな。もしかしたらもっとほかの人がお前の車を見てみれば、六対四くらいでまだ洗車は必要ないという結論に達することだってあったかもしれん」
「あったかもしれませんね」
「あったかもしれないな」
「でももう私は洗車してしまったんですよ!」武彦は言った。「後悔はしていませんとも。別に後悔はしていませんよ。たとえほかの人が以前の状態の私の車を見て、まだ洗車は必要ないんじゃないかと言い出しても私は今回の洗車に踏み切ったことを後悔していません! だって一年経っていたんですよ。車を買って一年、私はその車に洗車らしいことはしてこなかったんですよ」
「一年という期間だって!」小山係長が驚いた様子で言う。「一年という期間君は自分の車を放ったらかしにしていたというのか」
武彦は答えた。「その通りです」
「そうなんだ」
「そうです」
「なるほどね」
「実は今回の洗車の件については、今日の朝に事務の竹島さんともお話をさせてもらったんですよ」
「竹島さんとお話?」
「そうです。今朝竹島さんに声をかけられたんです」
「なんて声をかけられたんだ」
「洗車したんだって――と。先ほど係長にかけられたセリフとそっくりそのままです」
「そうだったのか」
「そうだったのです」
「それで何か問題でも?」小山係長が尋ねてくる。
武彦は言った。「問題というわけではないんですけれどもね」
「しかし何かあったのか?」
「何かあったというわけではないのですが」
「何もなかったのか」
「いや、何もなかったというと、そういうわけではありません」
「そういうわけではないのか」
「そういうわけではないんです。係長聞いてくれますか」
「どうしようかな」
「え!」
武彦は短く叫んだ。てっきりこちらの話を親身になって聞いてくれるもんだとばかり思っていたのに、一旦考慮するのか。一旦考慮をしなけりゃならない事案なのか。
小山係長は言った。「お前の話を俺がきくのか?」
「そうですとも」
「俺がお前の?」
「そうです。一体それの何がいけないっていうんですか」
「いけないことはないだろう」小山係長が答える。「だが逆にいいことなのかどうかもわからない」
「いいことなのかどうかもわからないですって!」武彦は興奮しながら言った。「いいことなのかどうかもわからないですって! いいことなのかどうかもわからないなんて!」
「一体どうすりゃいいんだ!」小山係長が叫ぶ。「もうどうすればいいのかわからん。俺はお前の話に対してどのような態度を取ってやればいいのか全然わからんよ!」
「優しくしてください」武彦は言った。「そりゃうんと優しくしてください。うんと優しい気持ちで接してくれればそれで結構ですとも」
「俺がお前に?」
「ええ僕にですよ。係長! 部下の私の話をきいてくださいよ」
「部下?」
「ええ! 部下ですとも。私はあなたの部下なんですよ」
「部下だって?」
「部下です」
小山係長が武彦に向かって改めて言う。「部下よ」
「何ですか」
「どうしたんだ」
「え?」
「最近洗車をしたそうじゃないか。どうしてまた今頃になって洗車なんてしたんだ」
「汚れていたんですよ」武彦は答えた。「汚れていたんです。そりゃもうめちゃくちゃひどいくらいに車が汚れていたんですよ」
「どうしてそんなに汚れていた」
「一年間放ったらかしにしていたんでね。一年間という長い間、私は車を乗り回すだけ乗り回しておいて、それを洗うってことを一切してこなかったんですよ」
「この不潔野郎が!」
「申し訳ございません」
「この仕事は清潔感も大切だと常日頃から言っているだろう!」
「本当に申し訳ございません」
「反省しているのか」
「しています!」
「本当にそれで反省しているというのか!」
「どうしたらよろしいでしょうか?」
「それはわからん」
「え?」武彦は思わず言った。
小山係長が言う。「そんな反省をするときにそれを相手にわかってもらうために何をすればいいのかとかそういうことは俺はあんまりわからん」
「わからないんですか」武彦が言う。
「わからん」
「あんまりわからないんですね?」
「あまり詳しくないな。今朝竹島さんに何と言われたんだ!」
「すごいと言われましたよ」
「何だって!」
武彦はもうこうなったら小山係長に今朝あったことのすべてを話すしかないと思った。彼は自分の上司なので、自分に問題があれば、それを包み隠さず報告せねばなるまい。逆に報告せずにことが悪い方にすすめば、あとで怒られるのは自分なのだ。
「今から私は係長に今朝の竹島さんとのやり取りを話します」武彦は言った。
「話すのか?」すぐに係長が反応してくる。
「ええ話します」
「話してどうにかなるのか」
「どうにかなるですって?」
「話して何かお前にメリットはあるのか」
「メリットデメリットですか」
「そうだ。メリットデメリットだ」
「メリットデメリット」
「メリットデメリットは大切だぞ」
「メリットデメリットは大切なんですか」
「ああ大切だ。メリットデメリットは大切なんだ。なんだ、お前は今までそんなこともよく知らなかったのか」
「何となくわかりますけれどもね」武彦は答えた。「メリットデメリットが大切なことであるというのは何となく知っていたというかわかりますけれども、しかし今までそれを強く意識して生きてきたことはありませんでした」
「では挑戦するんだ」係長が言う。「いい機会だ。挑戦するんだ」
「挑戦するんですか?」武彦が問う。
係長が言う。「ああ挑戦するんだ。いい機会なんだから挑戦するんだ」
「一体何に挑戦しろっていうんですか」
「メリットデメリットだ」
「メリットデメリット?」
「ああそうだ。これを機に、何に対してでもメリットデメリットがどのようにあるのかということを意識して考えていくようにするんだ」
「何に対してもメリットデメリットを考える?」
「意識するんだ」
「意識する」
「そうだ。今後はどんなことに対してもどのようなメリットデメリットがあるのかということを強く意識してがんばっていくんだ」
「わかりました」
わからなかった。武彦は小山係長の言っていることがよくわからなかった。わかりましたと返事をしたけれども。っていうかさっきからこの係長はずっと何の話をしてるんじゃい! 早く今朝の竹島さんとのやり取りを報告してこの昼食の時間を終わらせないと。早く係長との昼食の時間を終わらせないと、せっかくの休憩時間がこのやり取りだけで終わってしまうぞ。
「係長、話があるんです」武彦は改めて切り出した。「実は私最近洗車したんです」
「何だって!」小山係長が反応してくる。「洗車をしたとはどういうことなんだ」
「ですから洗車をしたんです」
「一体なぜ」
「なぜってそりゃ車が汚れていたからですよ」
「車が汚れていたからだって?」
「そうです」
「そんなに車が汚れていたのか」
「汚れていましたね」
「それは確かなのか」
「ええ確かです」
「確かなんだろうな?」
「何度も確認しました」
「何度も確認しただと?」
武彦は答えた。「ええ何度も確認したんですよ。私は自分の車が本当に汚れているのかどうかということを確認したんです。確認して確認して、それでやっぱり汚れていたので洗車に出したんです」
「そんなに汚れていたのか」
「買ってからもう一年になっていましたからね」
「買ってから一年になっていただと?」
「そうなんです」
「どういうことなんだ?」
「つまり車を買ってから一年という間、私はその車を放ったらかしにしていたんですよ」
「そりゃ車が汚れて当たり前じゃないか!」小山係長が言う。「そりゃ当たり前だぞ。三井君よ、そりゃ当たり前の話じゃないか。だって車を買ってから一年もの間放ったらかしにしておいたら、そりゃ汚れるに決まっているじゃないか」
「はい」
「逆に一年もの間よく放っておいたな」
「自分でもそう思います」
「自分でも思うだろ。自分でも車を見て汚いなと思わなかったのか」
「正直思ってはいたんですが」
「でもまだ大丈夫だと思っていたのか」
「そうなんです」
「恥ずかしい奴だな」
「すみません」
「それで洗車をしてちょっとはマシになったのか」
「何がです?」
「当然車だよ! お前の車はその汚れがちょっとはマシになったのか」
「そりゃもうピカピカですとも」
「ピカピカだって?」小山係長がビックリしたような顔をする。武彦は思った。何をビックリすることがあるというのか。そりゃガソリンスタンドの洗車に行ったんだから、ピカピカになって帰ってくるのが当たり前じゃないか。この係長頭がどうかしているんじゃないか?
係長が言う。「ピカピカになったってお前それどれくらいのことを言っているんだ?」
「どれくらいのことといいますと?」
「ピカピカってもしかして新車並みにまたきれいになったということなのか」
新車並みに?
武彦は小山係長の言っていることがあまりよくわからなかったが、とにかく洗車をして車がまたピカピカになったという自負はあったので答えた。「そりゃ新車並みにまたピカピカになりましたよ。わざわざガソリンスタンドまでサービスを受けに行ってよかったです」
「お前わざわざガソリンスタンドにまで洗車をしに行ったのか!」
「え?」
「お前洗車のためだけにガソリンスタンドにまでわざわざ行ったのか!」
小山係長の大げさな反応に、武彦は何か自分が悪いことでもしたのかと思った。だが思い返してみ何も悪いことはしていないように思う。確かにガソリンスタンドまで洗車をしにいった。しかしそのことの一体どこが悪いというのか。悪いわけなんてない。これは普通の行為で、きっと誰だって知っているしやったことのある人だってたくさんいるはずなのだ。
武彦は行った。「行きましたね。行きましたとも!」
「行ったんだな」小山係長が改めて確認してくる。
「行きました」
「行ったというのか」
「ええ行きましたね」
「それは確かなことなのか?」
確かなこと? 武彦は小山係長にそういわれてふと疑問に思ったが、だが確かなことだった。あの日は現実だった。あの日に起きたことは確かにこの現実で起きたことなのだ。
「確かなことですね」武彦は答えた。
すると小山係長も言う。「そうか確かなことなのか」
「ええ確かなことです」
「じゃあお前がガソリンスタンドにわざわざ行って洗車を行ったという件は本当なんだな。紛れもない事実なんだな」
「紛れもない事実です」
紛れもない事実でないとしたら何だというのだろう。
小山係長は言った。「わかった」
「わかってくれましたか」
「ああわかった。お前が確かにガソリンスタンドに行って洗車をしたということはよくわかった」
「わかってくれればそれでよいのです」
「よいのか」
「ええよいです」
「よいならばそれでよいだろう。一体何が問題なんだ?」
「一体何が問題なんでしょうね」
武彦は小山係長の唐突なこの問いかけに何と答えればいいのかわからなかった。一体何が問題だというのだろうか。今我々は、果たしてどのような問題について話を進めている最中だというのだろうか。話を進めている最中? 話なんて本当に進んでいるのだろうか。
武彦は言った。「実はちょっと不思議なことが起きたんです」
「不思議なことだって?」
武彦は不思議なことといって、今朝竹島さんにやたらと洗車をしたことに対して「すごいすごい」と連呼されたことについて話そうと思っていた。今思い返してみてもあれは何だったのだろうか。結局彼女とはどれだけ話してみても、朝の段階では結論に至らなかった。何かしらの結論にも至らずに、ただ急に怖くなって席を離れてしまったのだ。一度上司である係長にこのことを相談してみてもいいだろう。相談してみるのはいいことだ。第三者である係長に相談すれば、何かこの件について心の晴れるようなことがあるかもしれない。ないかもしれない。
武彦は続けた。「ええそうなんです、不思議なことがあったんですよ」
「まったく別の話か?」小山係長が問いかけてくる。
「まったく別の話とは?」
「つまり洗車の話か?」
「洗車の話?」
「今からお前が俺にしようとしている不思議な話っていうのは、まだ今回の洗車に関連しているような話なのかな? それともまったく別の話か? 今お前は私にこれまでとはまったく違うような話をしようとしているのかな?」
「洗車ですとも!」武彦は答えた。「そりゃ洗車です。そりゃ洗車に決まっていますとも。もうこうなったら係長と洗車のこと以外で話すことなんてありませんよ。あなたと話すときは洗車のことだと決まっているのです」
「それほどなのか」小山係長が言う。「それほどお前は私に対して洗車の話をしたいというのか。それほどなんだな。それほどの情熱をお前は持っているんだ。お前は今回の洗車について他人には推し量れないような強烈な情熱を抱いているんだな!」
「わかりません!」武彦は言った。「わかりません! 私が今回の洗車についてどれだけの情熱を持っているのかなんて、そんなことは自分ではわかりません。私にはさっぱりなんですよ」
「それで?」小山係長が言う。「それでお前の不思議な話っていうのは何なんだ。不思議な話っていうのは一体どんな感じの話なんだ?」
「それが奇妙なことなんです」
「奇妙なこと?」小山係長がオウム返しをしてくる。
武彦は答えた。「ええ奇妙なことなんですよ。今朝ね、竹島さんと話していると、とってもこれは奇妙だ! としかいえないような出来事が起こったんですよ」
「どうしたというんだ」小山係長が言う。
「どうしたといわれてもね」武彦は答えた。「どうしたといわれても何と説明していけばいいのかわかりませんよ」
「落ち着くんだ」小山係長が言う。
「落ち着けですって?」
「ああ落ち着くんだ。落ち着け」
「はい」
「落ち着くことはとても大切なことなんだぞ」
また大切なことの話か。……武彦は思った。この人は話を始めると、すぐにぶつかるんだ。すぐにこの「大切な話」とやらにぶつかってしまうことになってしまうんだ。謎だな。こりゃ大変な感性の持ち主だな。
「落ち着くことは大切なことなんですね」武彦は言った。
「そうだ大切なことだぞ」
「係長」
「どうした」
「私は落ち着いていますよ。大丈夫です。私は今とても落ち着いているのです」
「落ち着いているだって!」小山係長が言う。「自分で落ち着いていますと言ってくる奴のどこが落ち着いているというのか。自ら落ち着いているといえるからといって本当にそいつが落ち着いているという保障はどこにもない」
「ではどうやって今私が落ち着いていることを証明すればいいというのでしょうか」
「証明などいらん」
「なんですって?」
「証明などいらんのだ、三井よ」
「いらないんですか」武彦は言った。
「いらない」
「本当にいらないのですか」
「いらないんだ。これは本当にいらないことなんだ」
「ちっともなんですか」
「ちっとも?」
「ええいらないというのは、それはちっともいらないんですか。それともちょっとはあれば、それはあればあるでいいものなんですか」
「いやちっともいらない」
「ちっともいらないですって!」
「いらないんだよ、三井」
「はい」
「いらないんだ」
「いらないんですね?」
「いらない。自分が今落ち着いているのかどうかという証明などちっともいらんのだ」
「どうしていらないんですか」武彦は言った。「普通はちょっとくらいはいるもんだと思うんですけれども」
「いやいらないんだ」小山係長は言う。「いらない。それこそ本当にちっともいらない、必要のないものなんだ」
「小山係長は落ち着きを証明するかしないかのスペシャリストなんですか?」
「え?」
「ですから小山係長は、落ち着いているかどうかの証明がいるかいないかの判断を下すのがめちゃくちゃうまい、それのスペシャリストなんですか?」
「何を言っているんだ三井よ」
「私ですか?」
「ああ三井よ、お前だ。お前は急に何を言い出しているんだ?」
いやですからあなたは、小山係長は落ち着きの証明というものがいるのかいらないのかという判断を下すスペシャリストなのかどうかということなんですが……
武彦は言った。「スペシャリストじゃないんですね」
「私はただの係長だ」
「ええそうです」
「小山係長だ」
「そうです、あなたは小山係長です」
小山係長は小山係長だった。所詮ものごとの判断を下すスペシャリストではないということだ。スペシャリストというわけではないんだろうなとは思っていたが、しかしこう改めて彼が特にスペシャリストでないということが発覚すると、どこか寂しい気持ちにならなくもない。なぜなんだろう。何なんだろうこのむなしい気持ちは。
武彦は言った。「係長」
「なんだ」
「係長じゃないですか」
「急にどうした?」
「急にどうしたもこうしたもありませんよ。係長じゃないですか。あなたは係長だ」
「そうとも、私は係長だが?」
「係長だ!」
「そうだとも?」
「どうして係長がこんなところにいるんです? どうして食堂にいらっしゃるんですか」
「昼食のためさ」小山係長が言った。「昼食のためにいるんだよ。ごはんだよ。今は昼休憩の時間だからね。私もちょっとご飯を食べようと思ってね」
「ご飯を食べるですって?」武彦は言った。「係長はご飯を食べるんですか」
「食べるとも」
「食べるんですね」
「本当にどうしたんだ? まさか私がご飯を食べない係長だとでも思ったか」
「いいえそういうことではないんですが」
「じゃあ一体どういうことなんだ!」
どういうこともこういうこともないとも! 武彦は思った。
武彦は言った。「何を食べているんですか?」
「煮っ転がしさ」
「煮っ転がし?」
「そう、芋の煮っ転がしを食べている」
芋の煮っ転がしって何なんだ? 武彦はそう思うと、小山係長の持ってきていたトレイの中身を覗き見してみた。確かに何かの煮物らしい器がある。
「これがそうなんですか」武彦は煮物らしい器を軽く指差して言った。
小山係長が答える。「お前こそ三井じゃないか」
「え?」
「三井君!」
「はい?」
「君こそ誰かと思ったら三井君じゃないか!」
急にどうしたというのだろう。係長こそ改めて武彦のことをさも今発見したという体で話し掛けていた。武彦は白々しいな、と思いながらも「そうやってまた改めて俺の名前を呼びたい気分なのかな?」と思って何も言わないでやることにした。しかし冷静に考えてみて、改めて人の名前を呼びなおしたい気分って何なのだろう。よくわからん。
武彦は言った。「私は三井ですよ。あなたの部下の三井武彦です」
「三井武彦君!」
「はい」
「私は君の上司の小山だ。小山係長だ」
「そうですとも!」武彦は言った。「あなたは小山係長です。私の上司の小山係長です」
「こんなところで何をしているんだ!」小山係長が急に声を荒げて言った。「こんなところで何をしているというのかな。こんなところで何をしているというのだろう! 私にはまったく理解できんよ。私には君の気持ちというものがまったく理解できないな。本当にどうして! 本当にどうして君はこんなところいるというのかな?」
「お昼ご飯ですけど」武彦は言った。「お昼ご飯を食べるためにここにやってきているんです」
「お昼ご飯だって!」
「ええ」
「お昼ご飯なのか」
「お昼ご飯です」
「お昼ご飯?」
「そうです、お昼ご飯です」
「うーん」
「どうされたんですか?」
「聞いたことがある、お昼ご飯」
聞いたことがある、お昼ご飯? 武彦は思わず小山係長の発言を頭の中で反芻した。お昼ご飯というものを聞いたことがあるだって? お昼ご飯というものを聞いたことがあるだと! そりゃ当たり前だろう。当たり前に決まっているじゃないか! みんな知っている。みんなお昼ご飯というものくらい知っているさ。いっつも食べているはずだ。
「係長どうされたんですか?」武彦は言った。
「いや考えてみてな」
「はい」
「俺もお昼ご飯を知っているんだ。俺もお昼ご飯というものを知っているんだよ」
「そうなんですか」
当たり前だろうと思いながらも武彦はあえて言った。これから小山係長がどんな発言をするのかということを注意深く観察してみよう。ここは彼のペースに合わせてみて、こちらからそれを崩すような真似はしまい。
「一体いつからなんだろう」小山係長が言う。
「何がです?」
「俺は一体いつからお昼ご飯というものを知っているのだろうか」
「知りません」
「お前最近車を洗車したらしいな!」
「はい」
「それもガソリンスタンドでやったらしいじゃないか。わざわざ近所のガソリンスタンドまで赴いて専用の機械でやったらしいじゃないか」
「そうですとも」
「それで車はお望みどおりにきれいになったのか」
「きれいになりました」
「そりゃ良かったじゃないか」
「でも一つ問題が発生したんです」
「問題が発生しただって?」
「はい」
「どんな問題だ」
「竹島さんです」
「竹島さん?」
「そうです。あの事務の竹島さんが大変なことをしてくれたんです」
「大変なことをしてくれただって? 一体どんなことをしでかしたというんだ」
「そんなに大変なことじゃないかもしれません」
「どうしたんだ」
「よく考えてみたら、そこまで大きな問題ではなかったかもしれません」
「そうなのか」
「そうです」
「どうする?」
「何がです?」
「その竹島さんの起こした問題とやらを今から俺に話すのか? 今からその問題のことについて俺に相談しようというのか?」
相談? 武彦は小山係長の発言に引っかかって考えた。相談。そうだ、俺は今から出来ればあなたに相談したいと思っているんだ。一体何のことについて相談するのかって? そりゃもちろん竹島さんのことさ。今朝の彼女とのやりとりのことさ。彼女とのやりとりの中で、彼女が異常に今回の俺の洗車のことについて「すごいすごい」と発言してきたことを相談したいと思っているんだ。
武彦は言った。「迷惑でしょうか」
「迷惑だって?」
「ええそうです、私が今係長に今朝の竹島さんとのことを相談したら迷惑でしょうか? 係長はそのことをどのようにお考えになるのでしょう」
「それを本人の私にきくのかね」
しまった! 武彦は小山係長のこの返答を聞いたときにとっさにそう思ったが、だが冷静になって考えてみよう。別にいいじゃないか。相談したらどう思われるかということを、そのことを当の本人にきいたって別にかまわないじゃないか。
「いけませんでしたかね?」武彦は言った。
「いやそんなことはないんだが」
「そんなことはないんですか」
「ない」
「ではご相談させてもらっても?」
「食事中なんだがね」小山係長が言う。「申し訳ないが、私は見ての通り食事中なのだがね? 食事中と言っているのにも関わらず、それでも君はまだ私に何か物事を相談しようとでもいうのかね。そういう考えの持ち主なのかね?」
「普通だと思いますが?」
「何だって!」
小山係長が「貴様、なんと言ったのだ今!」というような怒りの感情を伴っているような顔で目を見開いてくる。だから別にいいじゃないか。食事中に話の流れで相談したいことを相談させてもらうことの何が悪いっていうんだ。よくある話なんじゃないのか。食事をしながらいろいろな相談に乗ってもらうことって割と普通のことなんじゃないのか。
武彦は言った。「普通のことだと思いますよ。食事中に相談をして何が悪いって言うんですか。じゃあ逆にいつ私は係長に相談事を持ち込めばいいというんですか」
「確かにそういわれてみればそうだな」小山係長があっけらかんとした感じで言う。
「そうでしょう」
「そうだ」
「逆に仕事中とか完全にプライベートな時間とかに電話で部下から相談を受けても困るでしょう」
「困る」
「でしょう?」
「でも俺は今本当に食事がしたい気分なんだ。食事がしたい気分というか、とにかく朝起きてから今日は何も食べていないから、おなかが減っていて何かすぐにでも食べたい感じなんだよ」
「朝から何も食べていないですって!」
武彦は小山係長の発言を聞いてびっくりした。この人朝から何も食べていないんだってさ! この人朝から何も食べていないんだとよ! きっちり一日三食は食べない感じの人なんだ。そういう食生活を規則正しく維持していくことには割りとルーズな感性の持ち主なんだ。
武彦は尋ねた。「朝食べないことってよくあるんですか?」
「あああるとも」小山係長が答える。
「しょちゅうですか?」
「しょちゅうというわけではないんだが、とにかく今日は食べなかった」
「今日何かあったんですか」
「特にこれといってなかったんだが、急いでいたんでな」
「急いでいたんですか」
武彦は「寝坊かな?」と思った。
小山係長が言う。「最近嫁と子供がマンションから出て行ってな。それからというもの、仕事と家事を両立するのでいっぱいいっぱいだ。だから朝忙しい日もあるし、朝が忙しければ食事は後回しになってしまう」
「最近僕洗車したんですよね」武彦は言った。もうこれ以上小山係長とプライベートな話をするのは勘弁だった。仕事のときだけでもこっちがどれだけ気を使っていることか!
「どうやらそうらしいな」小山係長が答える。「それできれいになったのか?」
「もちろんきれいになりましたよ」
「そんなにきれいになったのか」
「小山係長も当然お車は持っておられますよね?」
「もちろんだとも」
「係長のお持ちになっている車だと、洗車にもさぞかし手間がかかるんでしょうね。きっと私の持っているような車とはサイズもクラスも違うと思いますから」
「そんなことはないぞ」小山係長が言う。「別にそんなことないんじゃないかな? そんな車とかは俺結構普通だけれどもな。特に凝った趣味があるというわけでもないし」
「そうなんですか」
「そうだよ」
「でも今朝竹島さんに呼び止められて、洗車のことをなじられたんです」
「なじられただって?」小山係長が心配そうな顔で武彦の方を見る。何か職場でよくない人間関係が形成されつつある事案には敏感に振舞うらしい。別にそんなたいしたことでもないけど。
武彦は言った。「彼女は私の洗車のことを知っていて、私の同僚の上本から噂できいたっていうんです。それで私の洗車のことをやたらと『すごいすごい』と褒めまくるんです」
「何かの宗教かな?」小山係長が答える。
「え?」
「何かの宗教の教えなのかな? たとえば彼女が今はまっている宗教の教えが、別にすごくないことに対してもとにかく『すごいすごい』と褒めて、そうして褒めたことによってそこからポジティブなエネルギーを受け取っていこう、みたいなそういう考えのもとの発言なのかな?」
「考えすぎじゃありませんかね」武彦は言った。
「そうかな?」
「ええそりゃちょっと考えすぎだと思いますよ。それにしてもまさかいきなり彼女の宗教の問題にされるとは思っていませんでしたよ。係長はいつもそのようなお考えなのですか?」
「そのようなお考えって?」
「つまり自分の理解できないような行動を相手がとると、それはずばり相手の宗教のせいだと」
「だいたいそうじゃないのか」
「そうじゃないですよ!」武彦は勢いよく言った。「だいたいそうであるわけがないでしょう。みんなどれだけ変わった宗教に入りまくらなきゃならないんですか」
「そうかな?」
「そうですよ。係長の考えはいきすぎていると思います。もっと竹島さんの発言には違った理由があったんじゃないかと思います」
「たとえば?」
「たとえばですか?」
「そうだ。お前がそこまでいうなら、じゃあたとえばだ。たとえば彼女は宗教以外の理由で、一体なぜ君の洗車のことをそれだけ『すごいすごい』と褒め称えたのかな?」
それがわかればこっちだってあんたになんか相談してないよ! 武彦は頭の中でそう思ったが、口に出すことはなかった。理由は彼女にきいたのだ。どうしてそんなに褒めまくるのかと彼女に直接尋ねたのだが、彼女の答えは『すごいと思ったから』みたいなとても単純なものだった。だがそんなシンプルな答えではこっちが納得しかねるのだ。どうすればいい?
「何か彼女はほかに君に尋ねていなかったのか?」小山係長が言う。
「ほかにですか?」
「ああほかにだ。洗車のこと意外でもいいし、または洗車の方法とか時期とかを詳しく尋ねるようなことはなかったのかね」
「それが一体何につながるっていうんですか?」武彦はこの発言のことをを自分でも「生意気だな」と思いながらも、しかし内にとどめておくことは出来なかった。
「何につながるかだと?」当然小山係長が少しむっとした感じで答えてくる。
武彦は言った。「はい。そんなことを私にきいて、それが一体今後のどのようなことにつながっていくというのでしょうか。思い出せません」
「思い出せないだと?」
「はい。思い出せないんです。彼女が私に洗車の以外のことや、または洗車のことについて詳しくたずねてきたのかどうかなんてそんなこと思い出せないんです!」
「記憶障害かよ!」小山係長が言う。「そんな今朝のことだろう! そんな今朝のやりとりのことなのにもう何を言ったのか言われたのか忘れてしまっただなんてな! お前の脳みそはどうなっているんだ」
「記憶障害なんですかね」武彦は言った。
「は?」
「ですから私は記憶障害なんですかね」
「知らんがな」
「知らんがな?」
「ああ知らんがな、知らないよ! お前が記憶障害なのかどうかなんて俺は知らないよ。お前に対してそんなに興味ないよ」
「私に興味がないですって!」武彦は言った。「それは一体どういうことなんですか。どういう意味だというんですかね。あれだけ私に洗車のことをたずねてきたくせに」
「お前とはそれくらいしか話すことがないんでね!」小山係長がカミングアウトしてきた。「お前とはそれくらいしか話すことがないと思ったんだよ。ほかに接点はなさそうだしな。それにお前は無愛想だ。普段から無愛想な人間だから、こちらとしても気軽に話しかけることができん」
「そうだったんですか」
「いや考えたら別にそうでもないかも」
何なんだ! どっちなんだ! 今までのこのちょっとしたやりとりは何なんだ! 武彦はそう思うと、もう何も話が解決していないような気もするし、マジで今回の係長とのやりとり意味わからんなと感じながらも、そろそろ食堂をあとにしようと思った。
そうだ。
今武彦たちは社内の食堂でお昼を食べている最中だったのであり、ずっとここにいていいわけではない。ずっとここにいていいわけではなくて、ある程度の時間がやってきたらその場をあとにしなければならない。昼休憩の終了だ。昼休憩が終了の時刻になれば、問答無用でこの食堂からさって行かなければならないのである。
武彦は言った。「話をまとめましょう」
「話をまとめましょうだって?」
「そうです。話をまとめるんです」
「話をまとめてどうする?」
「話をまとめて終わりにするんですよ」
「話をまとめて終わりにするだって?」
「係長だって話をそろそろ終わりにしたいと思っているでしょう」
「私は別にそんなこと考えていないが」
「そうですか」
「そうだとも」
「ではこのような会話がずっと続いてもかまわないとおっしゃるんですね?」
「今までそうだった」
「何ですって?」
「思い返してみて、今まで他人としてきた会話というものは、意味のない、取りまとめようのないものばかりだったような気がする。君もそう思わんかね」
「そう言われると」
「そうだろう! 他人との会話なんて意味があってないようなものなんだ。だからそこまで気を張ることもない」
「ええ」
「だから話をまとめるなんてことはそんなに大切なことじゃないんだ」
「どうしたんですか係長」
「何がだ」
「急に何かいい感じのことを言っている風ですが」
「風じゃないだろう。実際に言っているつもりだが?」
「ああ言っているつもりだったんですね」
「そうだよ」
「で、どうするんですか」
「どうするとは?」
「係長――あなたはまだお昼ご飯を食べている最中だと思いますので、そのままお食べになるのがよろしいと思いますが、ですが私はこのように食べ終わっております」
「確かに食べ終わっておる!」
「食堂をあとにしてもよろしいでしょうか」
「食堂をあとにしてもよろしいかだって?」
「ええそのとおりです。これは今まで私たちが話していた内容とはまるきり関係のない、別のものになるのですが、食堂をあとにしてよろしいでしょうか。この食堂から立ち去っていってもよろしいでしょうかね」
「なんで?」小山係長がたずねてくる。「どうしてなんだ。どうして君は急にこの食堂から出て行こうとするのだね」
「食べ終わっているからですよ」
「食べ終わっている?」
「ええ、私は係長と違って、もうすでに食事を終えているのです。お昼ご飯をもう十分に食したあとなんですよ」
「これがその証拠ってわけか」小山係長はそう言うと、武彦の食べ終わった空の食器を指差してから覗き込んだ。
「その通りです」武彦が答える。
「もとはあったんだな」
「あった?」
「この空の食器の中には、もとは何かしらの食材が盛り付けられていたんだ」
「ええ」
「それをお前が食った!」
「食べました」
「食べたんだ! お前がこの食器の中に盛り付けられていたものを食べてしまったから、今その盛り付けられていたものがない!」
「係長、それが食事というものです」
「食事というものだって!」小山係長が声を荒げる。「お前はそれが食事だというのか」
「ええ言います」
「言うのか」
「言います。我々はずっと食事をしてきたはずです。係長だって知っているはずです。そしてこれからも食事はしていかなければなりません。今日のような日をこれからも何度も何度も繰り返していかなければならないんですよ」
「何度もか」
「そうです。我々は食事をする毎日を繰り返していかなければならないのです」
武彦はそう言うと、空になった食器の並んでいるトレイを手にとって席から立ち上がった。