第3章 1
第3章
1
「洗車したんだって?」
ある朝、オフィスについてすぐに事務の竹島さんという女性からこう声をかけられた。
洗車したんだって。
武彦はなぜ彼女が自分の洗車の事情を知っているのか、そしてそのことを話題にしていった移動しようと企んでいるのか一瞬では見抜けなかったが、しかし考えてみてそんなことは別に見抜けなくてもいいのかと思った。
別に企みが見抜けなかったからといって、本当に何かしらの企み自体があるのかどうかもわからないし、またあったところでそれは洗車についてなのだ。洗車についての企みなどたかが知れていることだろう。そこまで気にすることじゃない。
それにしてもどうして彼女が俺の洗車を知っているのだろう。
俺が最近自分の車を洗車したってなぜ知っているのだろう。
この会社には車で通勤しているわけではないのである。いや厳密には通勤しているかもしれないけれども、それは通勤の一部として使っているということなのであって、つまり最寄の駅までは車で行って、それで駅からこの会社までは電車できているという具合なのである。
本当になぜ彼女が洗車の話題を知っているのか。
まさか洗車のしているところを目撃でもされたか?
武彦は言った。「おはようございます」
「おはよう。三井君洗車したんだって?」
「洗車ですか?」
武彦はやはりまだ竹島さんは俺の洗車のことを話題にしてくるんだな、と思った。気を取り直してあいさつをしてみたのだが、彼女はやはりすぐに話題を洗車のことに戻してくるのだ。
よっぽど洗車の話がしたいんだな。
いいだろう。
それならそれで洗車の話をしてやろうじゃないか!
武彦は言った。「洗車はしましたね。しましたけれどもそれがどうかしたんですか」
「いやそういう話をみんなから聞いたからね、それで」
「え、みんなからきいたんですか?」
衝撃的な発言だ。
俺の洗車の話をみんなからきいただって? みんなが俺の洗車の話を? 一体なぜそんな噂が広まってしまっているのだろう。っていうかマジでみんなそんな俺の洗車の話をしているって言うのか。にわかには信じられん。ちょっとなかなか信じられない出来事だぞ。だって俺の洗車の話なんて普通で何もおもしろいところなんてないだろう。
何もおもしろいところがないはずなのにどうしてその話が広まるんだ。何か裏があるに違いない。きっとこの話には何か裏があるに違いないんだぞ。
竹島さんが言う。「みんな三井君が最近洗車をしたって話は知っているわよ」
「どうしてみんな知っているんですかね」
「そりゃあなたがこの会社の誰かに喋ったからよ」
「喋った記憶はないんですがね」
「本当に?」
そういわれて思い返してみる。いや喋った記憶は確かにない。誰かに自分の洗車の話をした記憶はないんだがな。洗車の話をしたといえば、そもそもの洗車を俺にすすめてきた友達の正樹くらいしか思い当たらない。
「友達の上本君くらいには話したんじゃないの?」
「友達の上本?」
「そうよ。あなたたち友達じゃないの? いつもよくお昼を食べに行っているじゃないの」
「あああの友達の上本ですか」
「そうよ正樹君よ」
「正樹ですね!」
武彦は理解した。そうだ、そういえば俺と正樹は職場が同じで、上本というのはその正樹の苗字なのだった。したがってその正樹に話したということはつまり、会社の同僚に話をしたということにほかならないのだ。なるほどなるほど。
武彦は合点して言った。「そういえば僕は正樹に話しましたよ」
「そうでしょう?」
「ええまったくその通りです。僕は正樹に洗車の話をしたんですよ。で、この会社にもその正樹ずてで洗車の話が広まったってわけなんですね」
「ことの真相はわからないけれども、だいたいそんなところじゃないかしら」
「きっとそんなところでしょうね」
「ところであなたが洗車をしたって話は本当なの?」竹島さんが尋ねてくる。
「ええ本当ですが」
「そりゃすごいじゃない」
「え、すごいですか?」
「すごいわよ。その歳で洗車を試みるなんてね。すごいとしかいいようがないわ」
「はあそうですか?」
武彦はちょっと理解できないな、と思った。洗車のことを言われるのは別にかまわないが、その言われ方として、すごい、というのはあまりよくわからない表現だと思った。一体何がすごいというのだろうか。
そんな洗車なんて普通だ。
洗車なんてすぐにできるし、どこのガソリンスタンドに行ってもたいていお願いすればすぐにやってくれる。竹島さんはどうかしているのか? 洗車をあえてものすごいことの一つのようにとらえてみせることによって、俺の世界観をゆがませてそのゆがみを楽しもうとでもしているのだろうか。
武彦は言った。「正樹がすすめてくれたんですよ」
「正樹がすすめてくれたですって?」
「ええ正樹がすすめてくれたんです。あいつが俺の車を見て汚れているから、もうそろそろ洗車に出してみたらどうなんだってね」
「それでそのアドバイスにあなたは従ったというわけなのね」
「はい。僕自身も、結構自分の車のことを汚れているなと思っていたんでね」
「それですぐに洗車をしにいったってわけなのね」
「そうです」
「それで洗車をしてみてどうだったの?」
「車はすごくきれいになりましたね」
「きれいになったのね!」
「なりました。ちょうどこの間正樹にも見せてやったんですよ、洗車した後の車を」
「彼何て言っていた?」
「最終的にはきれいだって言っていましたね」
「そう! 最終的にはきれいだって言っていたのね」
「はい、言っていました」
「言っていたということは、それは上本君の視点からでも車がきれいになったということなのね」
「きっとそういうことだと思います」
「すごいじゃない」また竹島さんが言う。
すごいとは何なのか。一体何がすごいのか。これが竹島さんの謎なのか。彼女が俺に押し付けてくるオリジナルの謎なのか。
「別にすごくはないですよ」武彦は言った。
「いやすごいわ」
「すごくないですよ」
「すごいわよ」
「そうですか?」
「そうよ、すごいわよ」
「すごいとは思わないですけれどもね」
「すごいわよ」
「すごいですか?」
「だって考えてみてごらんなさい」竹島さんが言う。「洗車をしてあなたは車をきれいにしたのよ、ということはつまり、あなたが洗車をしなければ、車はきれいにならなかった」
「ごもっともです」武彦は言った。「そりゃ確かにそうですが」
「それってすごいことだわ」
「すごいことですかね」
「すごいことですよ!」竹島さんが言う。「だって本当にあなたが洗車をしなければ車は今も汚いままだったのよ」
「その通りですが」
「逆に尋ねましょう」
「はい」
「あなたは洗車のどこがすごくないと思っているの?」
逆に洗車のどこがすごくないと思っているのかだって? 武彦は竹島さんにそう言われてなんと答えればいいのか迷ってしまった。
彼女は本当にさっきから何を言っているのだろう。
何を言いたいというのだろう。
さっぱりだ。それに考えてみて、そもそもどうして俺が自分の車を洗車したくらいで朝こうして声をかけてきたのか。俺はただおはようございます、みたいな感じであいさつだけしてさっさと仕事に取り掛かろうと思っていたのに、竹島さんは違った。彼女は違ったというわけなんだ。彼女は今朝俺よりも早くにこのオフィスにやってきて、そして俺に「洗車したんだって?」と声をかけてきたというわけなんだ。あいさつなんかよりもね! あいさつをするよりも早くに、彼女は俺と俺の車の洗車の話をしたかったってわけなんだ!
「何がお望みでもあるんですか」武彦は言った。
「お望み?」竹島さんが答える。
武彦は続けた。「そうですお望みです、お望みですとも。あなたはこうして僕をなんでもないことでほめ殺しにすることによって、きっと僕に何かをしてほしいとお望みなんじゃありませんか。僕に何かをして欲しいか、それか僕にねだりたい何かがあるんじゃないでしょうか」
「そんな卑劣な考えはもっていませんよ」竹島さんがきっぱり言う。「私はそんな邪悪な考えなどもっていません。そんな邪悪な考えからあなたの洗車を褒めているのではありませんよ。私があなたの洗車をすごいと思っているのは、それは単純にその行為がすごいと思ったからです」
「竹島さんは洗車をしたことがないんですか!」武彦は言った。「それじゃあお尋ねしましょう、竹島さん。竹島さんよ! あなたは今までご自身の手でご自身の車を洗車されたことはないってわけなんですかな?」
「洗車って自分でやったの? それとも近所のガソリンスタンドか何かで?」
「え? 今回の僕の洗車についてですか?」武彦は急な話題転換に戸惑って言った。
「もちろんそうよ」
「そうですか、今回の僕の洗車についてですか」
「ええ」
「今回の僕の洗車は、近所のガソリンスタンドで行いました」
「やはり」
「自分でするには道具も持っていませんでしたし、僕はアパートで暮らしているので、そんな洗車を自分で行えるようなスペースなどないんです」
「私は今まで自分の家のガレージで自分の車を洗車したことならあるよ」
「あるんじゃないですか!」武彦はすぐさま言った。
「だけど今回のあなたのように、近所のガソリンスタンドに車を持ち込んでそこで洗車をしてもらったことなどない」
「ガソリンスタンドで洗車をしてもらったことはないんですね」
「ええ、ないよ」
「ないんですね」
「ないのよ。一度もないわ。これまでに一度もない」
「考えたことはないんですか」
「ない」
「ないんですか?」
「ないね。だって私の家のガレージはそれなりだもん。それなりに大きいし、父親が今まで使っていた洗車の道具とかもそろっているしね。近所のガソリンスタンドに行って洗車をしてもらおうなどという考えを持ったことはこれまでに一度もないわ」
「ではガソリンスタンドで洗車ができるということはご存知でしたか」武彦は尋ねた。
「知っていたか知らなかったかね」
「ええそうです。そこのところはどうですか」
「知っていたわ」
「知っていたんですね!」武彦は言った。「知っていたんだ。あなたは知っていた。自分の家で洗車をする以外に、ガソリンスタンドにいけば洗車もしてもらえることをあなたは知っていたんだ」
「常識だもんね」
「常識?」
「ええ常識でしょ? ガソリンスタンドでお願いすれば洗車をしれもらえるなんて、そんなの誰でも知っているわよ。そんなことこの世の中に生きる人だったら誰でも知っていることなんだわ」
じゃあ何であんたはその常識とも評価するガソリンスタンドでの洗車をした俺のことを必要以上にすごいすごいなどと褒めまくるんだ!
武彦はそう思うと、ずばりそこのところをきいてやらんといかん、ぜひそこのところをきいてやらんといかんだろうな、と考えた。
武彦は言った。「あなたのおっしゃるとおりです」
「そうでしょう?」
「この世の中の常識ですよ。ガソリンスタンドに行けば洗車のサービスを受けることが出来るなんていうのはみんなが知っていて当たり前の事柄です」
「その通りよ」
「ではあなたはどうしてその行為をしてきた僕のことを必要以上に『すごいすごい』とおっしゃるんですかな、どうしてそんなにしつこく『すごいすごい』とまくしたててくるんですかな!」
武彦はそう言うと、ああとうとう言ってやった、とうとう俺は自分の言いたいことを言ってやったぞ、さてどう出てくるから、どう出てくるもんだろう、竹島さんはこの問いかけになんて答えてくるのかな、ちょっと楽しみだ、ちょっと楽しみな事柄だぜ、さあ耳を澄まそう、耳を澄ますんだ、耳を澄まして、竹島さんがこの問いかけになんて返答をしてくるのかしかと確かめようじゃないか、と思った。
竹島さんが言った。「いや普通に私だったら洗車とかは家で自分でするけど、三井君はわざわざガソリンスタンドで頼んで洗車をするなんてすごいな、と思ったのよ」
「すごいですか?」
「すごいわよ」
「そんなにですか?」
「そんなによ。そんなにすごいことなのよ」
武彦はもうダメだと思った。
ダメだ。
ダメだろう、もうダメだ。この竹島さんという人はさっきから何を言っているんだろう。さっきから何でそんなに俺のことを「すごいすごい」と言ってくるのだろう。
わけがわからない。
俺の一体どこがすごいのかまったく理解できないんだ。そんなわけのわからない話はさっさと聞き流せばいいじゃないかって?
確かに。
確かに俺もそういわれればそうだなと思う。だが俺はわけを聞いたんだ。俺はもうすでに俺なりに彼女に対して、俺の一体どこがそんなにすごいと思うのか、ということを尋ねたんだ。そしたら彼女は家で洗車するパターンとガソリンスタンドなどで洗車するパターンがあるよねと言ってきた。
家での洗車とガソリンスタンドでの洗車があるよって話をしてきたんだ!
それで話を聞いているうちに、三井君は家での洗車じゃなくてガソリンスタンドでの洗車を選んだからすごい、家じゃなくてガソリンスタンドで洗車したからすごいと思ったんだ、みたいなことを言って来た。
わけがわからない!
そういわれても俺はまったく彼女の意見が理解できないって感じなんだ。一体どこがすごいっていうんだ? 一体何がすごいっていうんだろう。
家でする洗車とガソリンスタンドでする洗車は何が違うんだ? もちろん違いはあるんだろう。それぞれにそれなりの違いがあったとしてもだ、だがそれにしたって、どっちらを選んだからといってすごいという理屈にはならないだろう。
家での洗車よりガソリンスタンドで洗車の方が優れているとか、そんな価値観ってもともとあるのだろうか。
もともとあるのかどうかはわからないけれども、しかし少なくとも彼女にしてみれば家での洗車よりもガソリンスタンドでの洗車の方が優れていると感じているというわけなんだ。一体なぜなんだろう。なぜ彼女は洗車についてそんな風に感じているのだろう。
それをきいてみることにするか。
今度はそのことについて尋ねてみることにするかな。ということは、俺はまだもう少し彼女との会話を試みないといけないってわけなのか。彼女と洗車についての話をしなければならないというわけなんだな。やめてもいいけれども。そんなことって本当に嫌なら適当に彼女の話を受け入れてそれで自分のデスクに向かってしまっていいけれども。
どうする?
一体俺よどうする。俺はどうすればいいというのかな。この場面に置いて、俺はどのように振舞えばいいというのだろうか。
自分にきいてみるんだ!
そんなときは自分の胸に手を当てて、自分の考えを尋ねてやるんだ。そうすればきっと答えが出てくることだろう。そうすればきっと俺が次に何をなすべきかわかるはずさ。そして実際にそうやって冷静になってみたところで全然自分が何をなすべきかわからなかったとしても落ち込まないこと。めげずに前進することが大切なんだ!
武彦は言った。「ということはあれですね」
「あれとは?」
「竹島さんの中では、洗車は洗車でも、その方法によって優劣があるってわけだ」
「一体どういうこと?」竹島さんが真面目な顔をして尋ねてくる。真剣に武彦の発言に対して不思議がってるらしい。
武彦は答えた。「え、どういうことって言われても」
「わからないの?」
「いやわからないわけじゃないんですが」
「じゃあどういうことなの?」
「えーと、それはですね」
「どうしたの!」
「どうもしていませんとも!」武彦は言った。「どうもしていませんよ。僕は今どうもしていませんとも! 何なんですか、一体竹島さんは何なんですか、さっきから僕に突っかかってきて。どうもしていませんよ。僕は本当にどうもしていないんですから心配しないでください」
すると竹島さんはふっと笑って「どうもしていないというのならばそれでいいのよ」
「いいですか」
「いいのよ。それでいいの。どうもしていないというのならば本当にそれでいいのよ。ただちょっと気になってしまってね。ただちょっとあなたがどうかしてしまったんじゃないかと思って気になっただけということなのよ」
「そうなんですか」武彦は言った。「だけど大丈夫です。本当に僕は大丈夫なんですよ。どうもしていません。僕は全然どうもしていませんよ」
「話を続けて」竹島さんが言う。
「はい――それで問題は、洗車の方法に優劣はあるのかということなんです」
「どうしてそれが問題なの?」
「それは竹島さんが先ほど、洗車の方法について僕に尋ねてきて、それで私だったら家で洗車をするという話をなさったからですよ」
「確かにした」
「でしょう?」
「確かにそんな話はしたわね」
「だから僕もそのことについてこうして言及しているんですよ」
「わからないわ」
「一体何がです?」
「やはりわからない」竹島さんは言った。「確かに洗車の方法のことについて私は何かを語ったかもしれないけれども、それがどうして今何かしらの問題として取り上げられなければならないの? そもそも問題って何なのかしら。あなたは今何のことを気にしてそうしてその場に立っているというわけなの?」
「それはあなたがあんまりにも僕の洗車のことを『すごいすごい』とおっしゃるからですよ!」
武彦は言った。
彼としては、別に怒っているわけではないと自らの気持ちを認識していたが、しかし声のあらぶり方からすると、相手に対しては、つまり竹島さんからしてみれば、多少は怒りの感情がそこに混じっているととられてもおかしくはないかな、と思った。だが今回のこの発言に怒りの感情を汲み取られようが汲み取られまいが、そんなことはどうでもいいしどちらでもいいと思った。
武彦としては伝われと思っていた。
伝われ。
いいから伝われ。さっきから俺はほとんど同じようなことしか言っていないんだ。同じようなことを繰り返しているばかりなんだ。さっきからそんな時間しか過ごせていない。ちっとも前に進めていないような感覚ばかりがある。
だから伝われ。
どういうような伝わり方でもいいから、とにかく今の俺の気持ちというものが伝われ。彼女の方に伝われ。そして彼女も答えろ。竹島さんも、どうして自分が今日これほどまでに洗車のことについてすごいすごいと連呼するのか向き合って欲しい。
彼女にもこの問題を共有してほしい。
そしてできれば二人で何とか解決していきたい。二人で何かしらの答えに辿り着いておきたい。本当ならばもう俺はデスクについている時間なのだ。オフィスに出社して、しかしデスクに着くまでに誰かとこんなに話をしたのは初めてだ。竹島さんだけじゃなくて、ほかの誰とでも出社してからすぐにこんなに話をしなければならなくなったのは初めての経験だ。
そろそろ終わりにしましょうや。
もう不毛ですよ。これ以上二人で何か言葉を交わしたって、何も新しいことなど発見できないことでしょう。新発見などないに決まっていますよ。
さあ伝わるんです。
俺の気持ちが今あなたに伝わって、そしてあなたも自分の発言の原因というものがわからないかもしれないが、それにしたって向き合うんです。
どうして自分がそんな発言をするのか。
どうしてそんな発言ばかりを繰り返してしまうのさ。さあ向き合うんです。そろそろ向き合う時間なんですよ。終わりにしましょう。二人でこの話を終わりにして、お互いにもう仕事を始めることにしましょうや。
竹島さんが言う。「あなたの言いたいことはわかったわ」
「わかってくれましたか」
「ええわかったわ。つまりあなたは、私があんまりもすごいすごいと洗車のことを褒めるもんだから、それでちょっとビックリしてしまっているというわけなのね」
「だいたいそうです」
「ビックリしてしまっているというか、自分はそんなに褒められる筋合いはないと思っているのよ」
「まったくその通りです」
「でも相手は褒めてくる」
「ええ」
「あなたが折れるべきね」
「僕がですって!」
武彦はビックリして声が大きくなった。俺が折れろだと? 俺の方こそ折れるべきだって? 一体どういうことなんだ。なぜ俺の方が折れなきゃならないんだ。折れるとか折れないとかそんな問題じゃないし。
そんな問題じゃなくて、俺は純粋になぜあなたがこんなにも洗車のことを褒めてくるのかという理由を知りたいだけだし。
武彦は言った。「俺の方が折れろとはどういうことなんですか」
「そのままよ」
「そのままですって?」
竹島さんが涼しい顔をして答える。「ええそのままよ。意味はそのままよ。今回のことについてはあなたの方が折れるべきなんだわ。あなたの方が折れて、私が異常に褒めてくるという現象を受け流すべきなのよ。受け止めろとまではいわないわ、でも黙って受け流すべきね。これ以上ぺちゃくちゃしゃべってくるというのなら、あなたの上司に報告するわよ!」
「僕の上司に報告するですって?」
とすると一番それに該当するのは、小山係長かな――などと武彦は冷静に自分の間近の上司が誰に当たるのかということを思い浮かべながらも、しかしなんでやねん、という気持ちだった。
なんでやねん。
なんで俺が今回のあなたとのやり取りのことを上司に報告されなあかんねん。上司に報告されて、しかも俺が悪いみたいな。なんか俺が前面的に悪いみたいな感じに甘んじなあかんというねん。さすがにそれはわけわからなさすぎでしょ!
武彦は反論した。「今回のことを上司に報告してどうなるっていうんですか」
「上司の方からあなたのその態度を注意してもらうのよ」
「僕の態度を?」
「ええそうよ。あなたのその何にでも突っかかってくるような態度をあなたの上司に改善してもらうのよ。どうやら自分ではまだ気がついていないようね。あなたはクソガキだわ、生意気で、何でも自分の考えが正しいと思っているような世間知らずのぼっちゃんなのよ」
「なんであなたにそこまで言われなくちゃならないんだ」
武彦は竹島さんに不意に暴言をはかれて、ほとんど頭の中では洗車のことなど忘れかけてしまっていた。どうしてなんだろう。どうして急に竹島さんはこんなにも強硬な態度をとるようになってしまったのだろう。あれだけさっきまで手放しで洗車のことを褒めてくれていたって言うのに、どうしてそんなに褒めてくれるんですか、と質問したら、手の平を返したように僕のことを攻撃してきやがった。
まったくわけがわからない。これが竹島さんという人なのか? 確かに僕は竹島さんとはこれまで一緒にずっと働いてきたけれども、プライベートで話したことなどほとんどないし、飲み会とかでもそりゃたまに一緒になったりすることもあったけれども、でも別にそのときだって何か話をしたという覚えもない。
竹島さんがもともとどういう人であるのかなんてことは僕にはわからないんだ。それを考えてみると今日いきなり洗車のことについて話し掛けてきたというのもビックリなことだ。正樹から俺の洗車のことを聞いたとしても、どうしてそのことを俺に話してくるのだろう。あんたこそその正樹の話を受け流しておけばよかったんじゃないのか。どうしてその話を今日俺にしてきたんだ。何かあなた最近疲れているんですか。何か私生活の中でよくないことでもあったんですか。もうすぐ仕事をやめるとかそんな感じですか。
あんたの方こそ突っかかってくるんじゃない。お互い平和にやっていたじゃありませんか。またこれからも平和にやっていきましょう。どうやら僕たちは、会話をすればするほどお互いが不幸になっていく運命にあるようです。お互いが会話を切り上げるのがどうやら下手らしいんでね。
「一度ご自身の方で考えてみてもらいたいんです」武彦は言った。
「何を?」竹島さんがすぐに反応してくる。
武彦は続けた。「考えてみて欲しいんですよ。僕は本当にあなたに考えてもらいたい」
「だから一体何を?」
「自分がどうしてそこまで僕の洗車のことを褒めるのかですよ」
「それは十分に考えているわ」竹島さんが答える。「私があなたの洗車を褒めるのは、単純にそれがすごい行為だと思うからよ。心から尊敬するわ。本当に洗車をするなんてすごい」
「もうやめてくれませんかね!」武彦は言った。
「やめるって何を?」
「もういい加減にしてくださいよ。僕はもううんざりなんですよ。何がすごいんですか。洗車をすることの一体何がすごいことだというんですか。そんなわけないでしょう! 洗車なんて誰だって出来ることなんですよ。誰だって、いつだってやろうと思えば簡単にできることなんです」
「でもそれを実際にやったあなたはすごいわ」
まだ言うか!
武彦はそう思いながらも、必死に我慢して続ける。「だから言っているでしょう。洗車なんて誰でもいつだって出来る行為なんですよ。実際にやったからすごいとか、誰でも出来ることをいとも簡単にやり遂げてしまうことこそ、実は本当に尊くてすばらしいことなのよ、とかそんなことはもういいんです。そんなことはもうききたくない。あなたも一度ご自身で考えてみてもらいたいんです」
「いつだって考えているわよ?」竹島さんが平気な顔をして言う。
この腐れババアめ。
だからもっと自分の発言をもっともっとこれまで以上に考えてみろとこっちは言っているんだ。今までの考察じゃ全然足りていないからもっとやれといっているんだこのクソミソ野郎が!
武彦は言った。「告白しましょう」
「ええ何ですか」
「あなたの『すごいすごい』という言葉の響きに、私はものすごく不安定な、不安な、非常に何かがよどんでいるような印象を受け取っているのです」
「え、何それ? 急にどうしたの?」竹島さんが言う。
武彦は戸惑った。
え。
俺何か変なことを言ってしまっただろうか。調子に乗ってちょっとわけのわからない、自分の世界観丸出しのような恥ずかしい発言をしてしまっただろうか。何だかしてしまったような気がする。何だかちょっと気づかないうちに調子に乗って恥ずかしい発言をしてしまったような気がするな。
武彦が少しの間言葉を失っていると、そそくさと竹島さんが続ける。「え、三井君マジでどうしたの? 急に不安だとか非常に何かがよどんでいるような印象ですって? 一体何の話をしているのかしら? あなたは一体今何のお話をされているのでしょう」
「そろそろ始業の時間なんで」
武彦はそう言ってこの場から逃れようとした。もういい。もう嫌だ。俺はもう誰とも洗車のことについてなんか喋りたくない。
竹島さんがなおも問いかけてくる。「ねえ本当に何の話をしているの? あなたったら急に私に対して何の話をしよとしているのよ」
「何でもありませんよ!」
武彦はそう言うと、立っていた場所からようやく自分のデスクへと歩き始めた。何でもない。本当に何でもないんだ。ただ俺は何を考えていたんだろう。さっきまで俺という人間は何を考えていたというのかな? 今となっては藪の中だ。もう自分では探り出すことはできない。ただ確かに竹島さんの恐ろしい「すごいすごい」という発言の連呼の中に、何か得体の知れない不気味な感覚を発見したんだ。いや発見しかけたんだ。
結局それが何なのかわからない。竹島さんだって自分の発言の恐ろしさというところには自らの感性をあてがっていない。だから彼女もわけのわからないままただ言葉を連呼してくる。救い? 俺は洗車をしたのか? 俺は本当に洗車をしたのだろうか?
した。
俺はあの日確かに洗車をしたんだ。洗車をして、そして正樹にも近所のファミレスで洗車したあとの車を見てもらった。正樹にも最終的に洗車のことを褒めてもらった。
しかし心の中に何か残っている。
何か釈然としない、何か大きなミスを見逃しているようで気がきでならない。とりあえず今日はもうそろそろ仕事をマジで開始して、一旦車のことを忘れなければ。
武彦は自分にそう言い聞かすと、竹島さんの座っていた場所を追い越して自分のデスクのある位置へと向かって行った。