第1章 2
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しばらくぼうっと車の中で考え事をしていると、事務所の方からさっきの若い店員と一緒にもう一人若い店員が歩いてやってきた。武彦は、しまった、店員が先輩を呼びに行っている間にそっとこの店を後にするというアイデアがこれで消滅してしまった、と思った。さっきの若い店員も、何も生真面目にちゃんと先輩を呼んでこなくたっていいのに。あれだけ先輩を呼んでこいといわれたら、そりゃ誰でも先輩をすぐに呼んでくるか。
事務所から出てきた店員に声をかけられる。「大変お待たせしました」
「ああすみません」
武彦が答える。「あの洗車をお願いしたいんですがね」
「洗車ですか」
「洗車です。何かダメなことでもあるんでしょうか」武彦が下手に出る。すると先輩店員はにこっと笑って「初めまして私が彼の先輩の荒木です」
「荒木さん」
「はい荒木です」
突如謎の自己紹介を展開された。荒木さん。荒木さんねえ! なるほど、あんたが荒木さんだということはよくわかったが、それで肝心の洗車は? 肝心の洗車はどうなったんですかね。
「洗車の件なんですが、もう少々お待ちいただけますでしょうか」荒木が言う。
「もう少々お待ちいただけますでしょうとは?」
武彦は尋ねた。
もう少々お待ちいただけますでしょうかだって? ということは、まだ洗車の本番までには時間がかかるってことなのか。機械を作動させるためにある程度の準備が必要だってことなのか?
それともこの先輩店員までも洗車のやり方を知らないというのか。この先輩店員までも洗車のやり方をしらないとでもいうのかな!
荒木が答える。「安心はして欲しいと思っております」
「安心はして欲しい?」
「ええ。お客様に対して、我々は安心はして欲しいと思っているんですよ」
「そうなんですか」
「ええまったくその通りなんです」
「へえ」
「ですから安心はしてくださって結構です。どうぞ自由に安心してくださいね」
武彦は荒木店員にそういわれて、いやそんなにやみくもに安心してくださいねと言われたって、何か安心する材料がなければ安心なんてできるわけないじゃないか、この店員もやっぱりどこかおかしいのか、やっぱりこの店員もどこか普通じゃないというのかな、と思った。
武彦は言った。「そりゃ安心しろといわれたら安心したいところですがね」
「どうかされましたか?」
「何もないままに安心しろと言われたってそりゃ無理な話でしょう!」
武彦は声を荒げた。ええいもうどうなってもしらん。しかしここらへんで一発がつんと言ってやらないと、このガソリンスタンドの店員たちはみんなダメな奴ららしいから何も物事が改善していかないに違いない。つまり洗車にはありつけない。洗車にありつけないのはこっちとしても困るんだ。
「どうなさったんですかお客様」荒木が丁寧に対応してくる。
「だからどうしてもこうしたもないんだってば!」
「どうしたもこうしたもあるからそんなに興奮なさっているんじゃありませんか?」
「お前たちがすべて悪いんだろう!」
「私たちがすべて悪いですって?」荒木が驚いたように答える。武彦は思った。こいつ、目に見えて白々しい演技をしやがって。見れば見るほど薄気味悪い野郎だ。
武彦は言った。「ああそうさ。今回の洗車の件に関してはすべてお前たちが悪いね。悪いのはお前たちしかいないはずだ」
「そんなことはありませんとも」
「いやあるはずだ。絶対にあるはずだ。悪いのはお前たちで、お前たちだけが悪いのだ」
「どうしてそんなことをおっしゃるんです?」
「洗車にありつけないからだよ」
「洗車にありつけないからですって?」
「ああそうさ。まさか家を出たときにはこんなに洗車ができないものだとは思っても見なかった。洗車くらいものの数分で終わるものだとさえ思っていたよ」
「まだ洗車は始まってもいないのです」
「どうやらそのようだな!」武彦は答えた。「そりゃお前たちの手際があんまりにも悪いからだろう。お前たちの手際が悪すぎるから、だから俺はこうしていまだに洗車のサービスを受けられていないんだ。わかったか」
「しかし我々も努力しているのです」
「努力しているだって?」
武彦は荒木店員の発言を鼻で笑ってやりたい気分だった。何が努力しているなのか。そんなそぶりは微塵も感じられません!
荒木が続ける。「そうです、我々も我々なりに努力はしているのです」
「その努力が実るもんかね!」武彦は言った。「実りはしないだろうな。お前たちの言っている努力なんてついぞ実りはしないだろうね」
「ぜひ実らせたいとは思っているのですよ」
「思っているだけじゃ話にならんでしょう」武彦は続けた。「洗車はもっともっと現実的な問題ですよ」
「我々もある種のもどかしさに苛まれているのです」
ある種のもどかしさに苛まれているのかどうかなんて知らんがな! 武彦は思った。そしてこの荒木とかいう店員ともまたこれ以上話をしていても何にもならないんじゃないかと思った。
これだったらもしやまだあの若い店員と話していた方がマシだったんじゃないか?
こんな場面になるくらいだったら、まだあの何にも知らない、無垢な、まだこの仕事を始めたばかりの、洗車のことがわからなくて当然の若い彼と話し込んでいたほうがよっぽど良かったんじゃないのかな!
武彦は急にさっきまで自分と話していたあの若い店員のことが気になってきた。
そういえば彼は何て名前なんだろう。
この荒木とかいう奴のことよりも、今はよっぽど彼のことの方が知りたいよ。
「とにかく安心してください。安心してくださって結構です」荒木が言う。「物事は常に解決の方向には進んでいるのです。その点に関してはどうかご安心してください。だって考えてみてくださいよ。さっきのアルバイトだって、ちゃんと先輩である私をここに呼び寄せたじゃないですか」
ついにぼろを出しやがったな。
武彦は、なぜか急にこういう風なことを思うと、心の中に怒りの感情がぐっと押し寄せてきてもう荒木との関係もこれで終わりだと思った。
ついにこいつは自分の口から「後輩店員から呼ばれて出てきたんですよ」というようなことを言いやがった。
それがどういうことか。
それが果たしてどういうことか! 少なくともお前自身の今回の洗車に対する誠実さみたいなものがちっとも感じられん!
将棋か。
できるならばずっと事務所の奥で詰め将棋の本を片手に時間を過ごしていたかったか。バカめ。この大バカ野郎め。暇なガソリンスタンドの事務所でそうやって時間を潰しているのがお似合いさ。お前にはそういう人生がお似合いなのさ。人の前に出てくるんじゃない!
すると先ほどの若い店員が前に出てきて言った。「先輩もう結構です」
「結構だと?」荒木が答える。
二人が視線を合わせる。荒木は突然の後輩店員の発言に驚いているようだったが、後輩店員の方はあきらかに何かしらの怒りに満ちていた。
後輩店員が続ける。「先輩もう結構なんです」
「結構とはどういうことなんだ」荒木が言う。
「先輩まだわからないんですか」
「わからないとはどういうことだ」
「先輩は失格ですね」
「失格だと?」
「ええ失格ですとも! あなたはこの洗車のお客様のお気持ちなんて微塵もわからないんでしょう」
「一体何が言いたいんだ」
「言いたいことはただ一つだけです。無理だということです」
「無理だと?」荒木は言った。いかにも、一体何が無理なんだ? というような表情で後輩店員に訴えかけている。
武彦も思った。
何なんだ。
一体この展開は何だというのだろう。わからない。後輩の店員がいきなりでてきたかと思ったら、先輩の方に苦言を呈しやがった。今後輩の店員はなぜか先輩の店員に対して苦言を呈している最中だってことなんだ!
まったくわけのわかっていなさそうな先輩店員を尻目に、後輩店員がため息混じりに答えた。「まったく先輩はどこまでいってもきっと人の気持ちなんてわからないんでしょう。少なくとも今のこのお客さんの気持ちはわからないことでしょうね」
「俺が何かしたっていうのか」
「いいえ何も! したかしていないかでいえば何もしていないことでしょうね!」
「こんなところで公開説教はやめていただけるかね」
「やめません!」後輩店員が力強く宣言した。「先輩に頼ろうとする私がやはり浅はかでした」
「何だと?」
「もう事務所へ引っ込んでいなさい!」後輩店員が急に強い命令口調で喋りだす。「もうあなたは引っ込んでいなさいよ。引っ込んでいるべきなのです。先輩、荒木先輩! 申し訳ないですが、あなたはもう元の事務所へ引っ込んでしまうべきですよ」
「お前が呼んだんじゃないか!」荒木店員が言う。「お前が俺をここまで呼んだくせに何を言っているんだ? まったく急に何を言い出しているというのか。信じられんな。私はお前という人間がまったく信じられんよ」
「信じてもらわなくても結構ですとも。結構です!」
「結構なのか!」
「ええ結構ですよ。あなたの信頼など私はいらない」
「本当に自分が呼んだくせにな!」荒木店員が言った。「本当にお前こそが俺をここに呼び出したというのに、こうしてわけのわからないうちに元の場所へ引っ込めというのか。そりゃあんまりにも理不尽すぎるだろう。そりゃあんまりにも理不尽すぎるとは思わんかね」
「何かわけがあるんじゃないでしょうか」武彦は言った。
二人の視線が武彦に注がれる。
武彦は続けた。「突然の発言をお許しください。ですが私も思ったのですがね、今こうして後輩店員の方が急にあなたに奥に引っ込めと言い出したのには何か理由があるんじゃないでしょうか。何か理由があるからこそ、彼だって急にあなたに置くに引っ込めといったんじゃないですか」
武彦が後輩店員の話もちゃんと聞きましょうと提案した。
「じゃあその理由を聞かせてもらおうか」荒木が言った。意外と素直な奴め。これで荒木と武彦の二人が、後輩の店員からどうして急に奥に引っ込めなどと言い出したのかという理由を聞く手はずが整った。あとは後輩店員の発言を待つばかりである。
後輩の店員が言った。「そりゃ先輩があんまりにもお客様の気持ちを考えていないからです」
「お客様の気持ちを考えていないからだって?」武彦が言う。きっと荒木も彼と同じことを思ったことだろう。とりあえず武彦が先立って話を誘導していく。
「その通りです」後輩店員が言う。
「その通りとはどういうことなんだ?」武彦が言う。
「いえ言葉の通りなんです。私は先輩のやり口が気に食わないんですよ」
「先輩のやり口が気に食わないとは?」
「私は先輩の魂胆がわかってしまったんです」
この発言を聞いて、一瞬荒木がむっとした顔をする。魂胆とは何なんだ落胆とは! ということなんだろう。いちいち反応してむっとした顔なんかしなくてもいいのにな!
武彦が言う。「それで先輩の魂胆とは?」
「彼はあなたを安心させようとばかりする」
「その通りだね」
武彦の相槌に後輩店員がさらに続ける。「初めまして。私の名前は山田です。このアルバイトをまだ始めたばかりなので、まだ業務でわからないところがたくさんあるんですよ」
「どうやらそのようだね。でも気にすることはないよ」武彦が答える。
「ありがとうございます」
「誰もが君のような新人期間を体験するものさ」
「でもそれにかまけてばかりもいられないとは最近思っているのです」
「いい心構えだ!」武彦は言った。「その心構えで今は十分といったところだろう。その心構えさえあれば君はこれからもっと成長していけることだろうね。ぜひがんばってくれたまえよ」
「はい。がんばりたいと思っています。それで申し訳ないですが、残念ながら今の私にはお客様のおっしゃる洗車のやり方がよくわからないのです。もちろん洗車という行為自体はわかりますし、お客様がお望みになっていることも十分に想像できます」
「よくあることさ」武彦は言った。「実に現実的な返答だね」
「そこで提案なんですが、私には先輩の店員というものがおります。今この先輩の店員をここに呼びつけますので、彼にそのあとの対応を代わってもらってもよろしいでしょうか」
「私の望みは洗車さ!」
「はい」
「その望みをかなえてくれるというのならば、私としてはそれが誰であってもかまわん。とにかく私の要求としては、洗車。まず第一に何よりも洗車なんだよ」
「では少々お待ちくださいませ」
「待つとも!」
「先輩はあなたを安心させようとばかりするのです。あなたを安心させさせればそれでいいと思っているんですよ。もしくは安心以外のほかの気持ちにね。安心以外のほかの気持ちにさせてやればいと思っているんです!」
「俺はそんなことはちっとも望んでいないが?」
「そうでしょう」
「俺は洗車を望んでいる。俺の望んでいることは洗車だ」
「そうでしょう? そしてそれは私もそうなのです。もはや私としても、お客様の洗車を望まないわけにはいかないのです」
「どうすればいいんだ?」
「先輩を排除しましょう」
「先輩を排除するだって?」武彦は言った。山田の発言にびくっとさえした。こいつ若いくせになかなかドキッとすることを言うもんだ。
それとも若いからこそなのか。
「そうです、排除してやるんです」山田が言う。「もう先輩は役立たずですよ。見当違いのことばかりを言っているただの馬鹿です。我々が望んでいるのは現実的な洗車なのに、それなのにこの先輩ときたら精神的な部分ばかりに言及してくるんですからね。私たちの望む先輩のあり方とは全然違うと思いませんか」
「そういわれるとそうかもしれない」
確かに我々の望んでいる先輩というのは、すぐに現場にやってきてくれて、かつすぐに洗車を開始してくれる者だ。ところがこの荒木とかいう店員は、すぐに現場にやってきたのはいいが、洗車にとりかかろうとしない。
こいつは洗車ができるのか?
それともこいつも洗車ができないのか? どちらにしろそこの部分をはっきりしてくれないと。そこの部分をすぐにでもはっきりしてくれないと、こちらとしてもずっとわけのわからない話が続いてしまうだけで問題の解決には至らないじゃないか。
それなのにこいつときたら!
この先輩店員ときたら、自分が洗車を承れるのかどうかということを明確にしないまま、とにかく安心してくださいねということばかりいう。
どういうつもりなんだろう。
一体どういうつもりでそんなことを言っているというのだろう。考えてみてわからない。洗車ができるかできないのかということになぜ言及しないのか。なぜ言及しないのかなんて考えてみてもそんなことはわからないのである。
とにかくできるのかできないのかだけでもはっきりして欲しいものである。
「排除の前に」武彦は言った。「今一度この先輩に猶予を与えようと思う」
「猶予ですって?」
「ああ猶予を与えるべきだと思う。排除をする前に、一度彼にずばり洗車ができるのかできないのかということを尋ねたほうがいいと思う。どうだろうか」
「それはいい考えかもしれませんね」山田が答える。
「そうだろう?」
「ええきっととってもいい考えですよ。私も本格的な排除を開始する前に、もう一度だけ先輩に尋ねなければならないなと思っていたんです」
「君も同じ考えを持っていたようだな」
「そうですね」
「では君の先輩に最後に一度尋ねてみることにしよう」
武彦はそういうと、すっかり黙り込んでしまっていた荒木に視線をやった。荒木は小さく後ろの方で縮こまっていて、もはやこのガソリンスタンドに自分の居場所はないと感じているようだった。
居場所がないだなんてとんでもない!
ここは君の勤務しているガソリンスタンドなんだよ。君がいつもほかのアルバイトの先輩として勤務している職場じゃないか。
居場所がないだなんてそんな話はありえないよ。武彦はそう思うと、彼に声をかけた。「荒木君とか言ったね? 荒木君大丈夫かい?」
「はい大丈夫です」荒木が大変弱弱しい様子で答える。
武彦がもう一度尋ねる。「本当に大丈夫なのかね?」
「大丈夫です、大丈夫ですとも」
「精神的にも大丈夫かね?」
「もちろん大丈夫です。どんなお叱りでも受ける所存です」
お叱りだなんてな……武彦はそう思うと、お叱りなんてするつもりはこっちとしては全然ないのに。こっちとしては君をしかるつもりなんて全然ないんだよ。
ただ君にあることをききたいだけさ。
君にある事柄について尋ねたいだけなんだよ。
武彦は荒木の発言からあまり間をおかずに言った。「ずばり聞こう。君は洗車ができるのかね、それとも出来ないのかね」
「洗車ですって?」荒木が答える。「お客様は洗車をしたいとおっしゃるのですか」
「ああその通りだが」武彦が言う。
「本当に洗車をお考えですか?」
「ああお考えだ。俺は今洗車をしてもらおうと考えているんだ」
「かつてお一人だけここで洗車をなさったお客様がいらっしゃいましたね」
「何だと!」
武彦は荒木の発言に驚愕した。そして信じられない気持ちだった。かつて一人だけいただと? かつて一人だけこのガソリンスタンドで洗車を行った人物がいるだと?
伝説かよ!
やはりこのガソリンスタンドで洗車をする奴はほとんど伝説的な人物なのかよ。俺はレジェンドかよ。そのレジェンドの後を継ぐ勇者みたいなものかよ。
勘弁してくれよ。
俺は勇者でもレジェンドでもなんでもないよ。ただの普通の客だよ。ただ普通にガソリンスタンドで洗車をして欲しいと望んでいるだけの客だよ。
そんな今までに洗車を頼んできた客が一人だけしかいなかったわけがないだろ。
嘘だろ。
どうせ嘘をついているんだろ? 嘘をついて、あんまりにも洗車が面倒くさいからそれで俺を追い返そうとでもしているんだろ?
ああそうか!
お前らは洗車が面倒くさいから、だから洗車を頼んできた俺を帰らせようとしているんだ。適当に嘘でもついて追っ払おうとでもいうんだな。だったらもっと上手な嘘をつきやがれ! だったらもっとまともでありえそうな嘘を上手につきやがれっていうんだ。
なんだって洗車の望む人を伝説の人物に仕立て上げたんだ。
なぜ歴史上に唯一輝く人物みたいに紹介してきたんだ。
お前らグルだったんだな。
お前らこそグルで、はじめから俺を騙そうとたくらんでいたんだろう。あんまりにも暇だから、今度洗車を頼んできた客を先輩と後輩という立ち回りでおちょくってやろうぜ、みたいな感じでな。そんなような感じでな! もうお前たちのことなどちっとも信じられん!
「もう結構ですよ」武彦は言った。「もう結構ですね、もう結構です。あなたたちの話をきくなんてもう私にはできませんよ。私にはできっこありませんね」
「できっこありませんか」荒木が言う。「本当にできっこないんですか」
「できっこないですよ!」武彦が答える。「本当にできっこなんてないんだ。あきらかにさっきのあなたの発言はおかしかったでしょう。あきらかにこの世の中ではありえないことだ。洗車を頼んできた人物が過去に一人だけいただなんてね。かつて一人だけいたんですよなんてね。嘘に決まっているでしょう。そんな話誰が信じられるというんですか!」
「でも本当のことだから仕方ないよねー」荒木が後輩の山田を見ながら言う。
何なんだその軽いノリは?
しかし荒木にそう言われた山田も「先輩のおっしゃるとおりです」みたいな感じでうなずいている。いやそんな硬派な感じでうなずいているのではない。
「もちのろんっすよ」
みたいな軽い感じで受け答えしている。そんなマジで軽い感じで受け答えしているんだ!
武彦は言った。「お前ら最初からグルだったんだろう」
「最初からグルですって?」荒木が答える。
「そうさ」
「そうさとはどういうことなんですか?」
「いやだからそうなんだろう。お前たちはグルだったんだ。どうせこのガソリンスタンドが暇すぎるから、それで暇つぶしに適当に今度来た客をおちょくってやろうぜ、みたいなことを話し合っていたんじゃないのか」
「そんなことは話し合っていませんよ」荒木を差し置いて山田が言う。「どうしていきなりそんなことをおっしゃるんです? 悲しいですよ。正直お客様がいきなりそんなことをおっしゃるなんて私は悲しいですね」
「お前の悲しみなど関係あるものか!」武田は言った。「とにかくもう私はお前たちのいうことなど信じられないんだ。お前たちのいうことなんて一つも信じられないんだからな」
「一体どうしてしまったというんですか」山田が言う。
「どうしたもこうしたもない」
「どうしたもこうしたもないですって?」
「もうたくさんだ! もう私はお前たちの話には耳を貸さないことにしたんだ」
「どうして急にそんな態度を変えてしまわれるんですか」
「そりゃお前たちが不誠実だからだろう」
「我々が不誠実だからですって?」
「そうとも」
「そうともですって?」
「君たちこそ本当にさっきから何を言っているんだ。さっきから本当に何を言っているというのだろうか。もう私にはさっぱりなんだよ」
「一体何がさっぱりだというんです?」
「グルなんだろう!」武彦は言った。「お前たちは最初からグルだったんだ。グルで、あんまりにもこのガソリンスタンドの業務が暇だから、それで今度きた客にちょっといたずらでも仕掛けてやろうという魂胆で今回のことを企んだに違いない」
「企んだとはどういうことなんですか」
「そんなこともわからないのか!」
「わかりませんよ。一体我々が何を企んでいたというのです? グルってどうして我々がグルにならなきゃならないんですか」
「暇だったからだろう!」
「暇だったから?」
「そうさ。お前たちはあんまりにもこのガソリンスタンドの業務が暇だったから、それで客を騙して遊んでやろうとでも思い立ったんじゃないのか」
「ということはあなたは、今こうして洗車がうまく行っていないのも、我々がわざとやっているというのですか」
「そうとも!」
「そうやって我々がわざと洗車をさせないことによって、ある種の楽しみを教授しているんじゃないかと疑っているというわけなんですね?」
「その通りさ!」
「まったくばかげた話です!」山田が言った。「ばかげた話ですね。それはまったくばかげた話ですよ。まったくばかげた話としかいいようがありませんね」
武彦は不快な気持ちになった。「一体どこがばかげた話だというのかね。もちろんこんな行為で楽しもうとしている君たちはばかげた従業員たちだと思うがね」
「そういうことではないですよ」山田が言う。
「では君は、私の今回の君たちに対する推測・憶測こそがばかげているとでもいうのかね」
「ええそうです」
「そうなんだ」
「そうですよ」
「どうして?」
「だって冷静になって考えてみてくださいよ」
「冷静なつもりだが?」
「いやあなたは今全然冷静なんかじゃありませんよ。冷静なんかじゃありませんね。私にはわかるんですよ。あなたは、さっき先輩店員から『かつて一人だけ……』なんていわれたことがショックでショックでもう仕方がないんだ。ショックでショックで仕方がなくって感情が高ぶってしまったから、だからそうやって謎の推理を私たちに押し付けてくるんですよ」
「そんなつもりはないがな」
「ご自身ではそうおっしゃるでしょうね」
「何だと?」
「だが私から言わせてもらえば、あなたは今確実に自らの怒りの感情のままに存在してしまっていますよ。今この現実に存在してしまっていますね」
「そんなつもりは本当にないのだがね」
「ですから冷静になって考えてみてくださいよ」
「一体何を考えればいいというんだね!」
「お客様からの洗車を遅らせ続けて一体何が楽しいというんですか?」
「何だって?」
「お客様からの洗車を拒否し続けて、それの一体どこに楽しみを見出したらいいというのでしょうかね!」
「確かに!」武彦は言った。「確かにそんなことをして一体何がおもしろいんだろうね。客の申し出を拒み続けて、それで客の怒る姿がおもしろいのかな? それともそうやって店員として理不尽な対応をし続けてやることそのものがおもしろいというのかな?」
「おもしろくないでしょう」山田が言う。「想像してみてください。本当にそんなことをしておもしろいと思いますか? それも暇だからといって、あえてそんなことをする必要がどこにあるでしょうか。それに私は言ったはずですよ。言ったはずなんです。確かに暇だといいましたが、それだって将棋をしていると言ったでしょう! 暇つぶしとしては、もう我々は手段を持っているんです。暇を解消するための手段を、もう我々は我々なりに獲得しているんですよ」
「将棋ってわけか」武彦は言った。「そういえば暇なときは二人で将棋を楽しんでいるとか何とか言っていたね」
「言いましたでしょう?」
「言ったね」
「じゃあ違うんじゃないですか? 我々がグルになって下手な芝居を打ち、延々と洗車の受けられないあなたを影で笑い飛ばすなんて、そんなこと最初から計画なんてされていないんじゃないでしょうか」
「そう言われるとそうかもしれん」
「そうでしょう!」
「じゃあ君の言っていることが本当のことだというのかね?」
「バイトの終わる時間になったんで帰ります」
「何だって!」
武彦は突然の山田の発言にびっくりして言った。こいつバイトの終わる時間って、これでまさか今日の仕事を終わりにしようっていうんじゃないだろうな。だがしばらくあっけに取られて黙っていると、山田はすたすたとマジでその場を去っていくようだった。
バイトの時間。
そう、彼はバイトの終わる時間がやってきたから、それで客とのやりとりもそのままに職場をあとにしようというのである。
あんまりにもむちゃくちゃじゃないか?
武彦は「やっぱり信じられん。このガソリンスタンドの従業員たちは気が狂っているんだ。頭がおかしい。常識が通じない。どうしてかな。どうして俺はこの山田とかいう店員が先輩を呼びに事務所に戻っているときにさっさとアクセルを踏んで車を発進させなかったんだろう。いや一番初めに、従業員に洗車のことを告げたときに必要以上に驚かれたときからこのガソリンスタンド全体のことをいぶかしがって場所を変えればよかったんだ。今となってはもう遅い。今となっては、もう何を思っても仕方のないことなのだ」などと思った。
山田がすっかり立ち去った後、先輩店員の荒木が言った。「それでは洗車のご案内をいたしますので、車の方を洗車機の前まで移動させてもらってよろしいでしょうか」
「え?」武彦はびっくりして言った。
「洗車ですよね」荒木が改めて問いただしてくる。
そうだが。
確かに俺は洗車をお願いするために今日このガソリンスタンドにやってきたのだが。
「そうです、洗車です」武彦は言った。
「では洗車機はあちらになりますので、あそこまで車を移動してもらってよろしいですか?」
「はい」
「あちらです」
武彦は言われたとおりに車をゆっくりと移動させながらも「わけがわからん」と思った。
わからん。
もうこれはマジでわけがわからん。一体何が起こったのだ。誰がこんな展開にまともな精神でついていけるというのか。だが考えてみて、何が起こったのかということに答えるのは簡単だ。これから彼が洗車の手続きというか準備をしてくれるというのである。これは、俺がそうして欲しいと自分から頼んだからだ。
だからそこまで変なことが起こっているというわけではない。むしろ客としては歓迎すべき事態が起きているのである。ついに洗車が始まろうとしているのだ。
では今までのやりとりは何だったのか。
洗車をしてくれるのはかまわないが、ではそうするとそれはそれで、じゃあ一体今までのやりとりというか時間はなんだったのかという気持ちになってくる。
あれだけ拒まれていたのに。
あれだけわけのわからないことばかり言われて、こちらとしてはもうどうしようもないくらいに実際の洗車には届かないんじゃないかと予感さえさせられていたのに……この急な変わり身というか展開はどういうことなのだろう。
この展開から俺は一体どういったことを学び感じ取っていったらいいのだろう。
知らんがな。
もう俺もそんなんわけわからんがな。知らん。どうにでもなれ。ええいもうこんなわけのわからない現実などどうにでもなってしまえばいいんだ!
その後、荒木の誘導に従って二三の作業をこなすと、車がいよいよ洗車機の中に突入していった。
洗車である。