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第1章 1

 第1章


   1


 洗車をしなければならなくなった。思い返してみれば、この車を購入してから一年、俺は一度も洗車というものをしてこなかった。

 なぜか。

それは一言で表すと、めんどうくさかったからである。めんどうくさかったからであるし、またそんなに洗わなくてもいいだろうと思っていたのである。

 そんなに洗わなくてもいいと思っていたとはどういうことなのか。

 つまり車を買ってまだ一年であるし、汚れはあるにせよ、それはそこまでひどくない、洗車をするほどのものではないと思っていたのである。

 だがある日友達に指摘されて気がついた。「おい武彦、お前の車ひどいぞ。お前の車の上のところひどいぞ。よく見てみろ。ホコリが積もっている。こりゃホコリが積もっているぞ。洗車はしているのか。お前この車を買って何年になる。その間洗車はしたのか。この車を洗ったことがあるというのかな?」

 こういうようなことを言われたのである。

 正直ショックだった。

 こいつ友達のくせにどうしてそんなひどいことを言うのかな、俺がまるでまったく洗車というものをしない、汚れを気にしない不潔野郎だ、みたいなことを素直に言ってくるのかな、ありえない、みたいなことを思った。

 頭の中でその友達のことを数発殴った。

 友達はその場に倒れてほとんど動かなくなった。俺のパンチが強烈だったのか、それとも殴られた箇所があんまりにも悪かったのか。しかし友達の助言どおりに車の上の方を見てみると、確かにホコリがこれでもかと積もっていて、きっとその光景を見た誰の頭の中にも「洗車」という言葉が浮かんでくることだろう。

 俺の頭にも当然のように浮かんできた。

 それで洗車をしようというのである。

 武彦は、あるガソリンスタンドの前にやってきていた。今日はこのガソリンスタンドで、専用の機械を使って洗車をしてもらおうというのである。

 家でやるとでも思ったか! 

 洗車という言葉がきたからには、俺が仕事の休みの日に、家の前でホースとか車用の洗剤とかを使ってがんばって自分でするとでも思ったか! 

 しませんよ。

 そんなことはしませんとも。しないのだ! 俺は今ガソリンスタンドにやってきている。近所のガソリンスタンドにやってきているんだ。

 ここで何をするのかって? 

 こんなところで何をするつもりなのかって? 

 洗車ですよ。

 ええ。

 僕はこれからここで洗車をしようって腹積もりなんですよ。ほかに誰もいませんよ。俺のほかに、俺と同じようにここで今日洗車をしようと思っている奴はいなさそうですね。

 独占ですよ。

 俺はきっと今日ここのガソリンスタンドで洗車の機械を独り占めできることでしょうね。

 洗車します。

 俺は今からここのガソリンスタンドで洗車しますとも。見事に汚れを取ってみせますよ。汚れを取って、この車をもう一度ピカピカな状態にしてやりますとも。

 見ていなさいよ。

 もうすぐです。もうすぐこの俺の車は洗車を終えてまたピカピカな状態になることでしょうね。そうすると、きっと洗車のことを指摘してきてくれた友達だってビックリ仰天といった具合になることでしょうね。

「すごいな。これはすごいぞ。すごい効果を発揮しているじゃないか、洗車。こりゃお前車を洗ったんだろう。洗車したからこそのこの今のきれいな感じなんだな。きれな輝きを放っているというのだな。おめでとう。こいつはおめでとう。無事にお前は洗車を終えたということなんだ。どうだろう。洗車を終えた今となってお前の気分というものはどうなのだろう。どうだ。気持ちいいじゃないか。晴れやかなものじゃないか? 洗車って気分のいいものだろう。おすすめしますよ。車がちょっと汚れてきたな、と感じたときには洗車だ。そういうときにはすぐに洗車のしてみることをおすすめしますよ。俺はね、俺はそういうときは洗車をすべきだなって思うから、洗車のすることをおすすめしますよ」

 こんなことも俺にそっと言ってくれるかもしれない。


 近所のガソリンスタンドに到着したが、洗車をするためにはどういった手続きが必要だったのかがよくわからなかったので、とりあえずいつも通りにガソリンを入れる感じで車をガソリンスタンド内にとめた。

 すると、すぐに店員が駆け寄ってきた。

 武彦は車の窓を下げて店員とコミュニケーションをとることにした。窓を下げると、まず店員が言ってくる。

「今日はどうしましょう」

 武彦はそれを聞きながら、今日はどうしましょうじゃないんだよな、ガソリンを入れるわけじゃないんだよ、だからハイオクでもレギュラーでもないのさ、ハイオクでもレギュラーでもないんだってば! と思いながら「あの洗車をお願いしたいんですけれども」

「洗車ですって!」

 店員は武彦の発言にかなり驚いている様子だった。洗車ってそんなに驚かれなきゃならないことなのか。

 武彦は思った。

 え、そんなに驚くことが普通の対応だとでもいうのかな。ガソリンスタンドで洗車を頼む人って少数ですか。珍しい、もっといえば滅多にいない、出くわすことのない人ですか。

 そうですか。

 そうですか。

 言わせんぞ! 

 そうやって驚くことが普通の対応だとは言わせんぞ。

 少数なもんか、珍しい客なもんか! 

 普通にいるでしょう。

 ガソリンスタンドで洗車を頼む人なんて普通にたくさんいるんじゃないんですか。今日俺が初めての客だということはあってもね。

 つまり俺が今日というくくりの中では初めてでトップバッターであるということはあったとしてもね。

 だからといって、たとえばこのガソリンスタンドが出来てから俺がまさかの初めての洗車の客だとか、十年ぶりに現れた洗車を頼む客だとか、そういうことは許さんぞ。俺をそういう風に扱うことは許さんぞ。

 なぜならそんなものは嘘だからな。

 嘘に違いないだからだ。だってありえないだろ。ガソリンスタンドで洗車を頼む客が俺一人しかいないだって? 本当にたとえば今日というくくりの中で、もしかしたら洗車を頼む客というのは俺しかいなかったということはあるかもしれないけれども、俺がこのガソリンスタンドの歴史上で初めての客だとか、数十年ぶりに現れた伝説の洗車を頼む客とかそんなわけはないでしょう。

 そんなに驚くことはないですよ。

 理解できませんよ。

 やっぱり理解できませんとも。どうしてそんなに驚くんですか。

 え? 

 どうしてそんなに今この店員の人は驚いて見せたというのですかな。もっと違うところに驚いていたのかもしれない? たとえば俺が発言した洗車というセリフに驚いて見せてくれたのではなくて、もっとほかの、俺の外見とか、俺の車とかに驚いてみせたということなんですかね? 

 事実はそういうことだとでもいうんですか。

 そうかもしれませんね! 

 実のところをいうとそうかもしれませんよ。今このガソリンスタンドの店員は、俺が「洗車」といったことに驚いたのではなくて、もっと別の、もっとほかの理由で驚きおののいているのかもしれませんよ。

 でもだとするとそれって一体どんな理由なのでしょう。

 どんな理由が考えられうというのでしょう。

 裸じゃないですよ。

 僕は今裸というわけじゃないんですよ。下半身を欲望のままに露出してしまっているとかそういうわけでもないんです。ですから僕は裸じゃないんですよ!

 僕が裸ではないということは信じてください。

 裸ではないということだけは信じてください。

 また、僕が裸だから今このガソリンスタンドの店員は驚いている、という事実もないんだということも信じてください。このことも僕が裸ではないということとあわせて信じてくださいね。

「じゃあ一体何の理由で店員は今驚きおののいているのか!」

 武彦は自分でそう思うと「もうわけがわからん」と思った。

 やはり違うんじゃないだろうか。

 違うんじゃないだろうかといって、やはりこのガソリンスタンドの店員は、普通に考えて俺の「洗車」という発言に驚いているだけなのであって、もっと別のほかのことに驚いているという事実などないのではないだろうか。

 そんな第三の理由なんてもはないんだ。

 そんなものはないんだろう。

 もしかしたらガソリンスタンドの店員の今の態度は、彼を知らない人から見れば驚いていると受け取られてしかるべきものだが、本人にしてみれば至って普通の、特に驚きという感情をともなったリアクションでもなんでもないのかもしれない。

 いや考えろ。

 考えるんだ武彦。

 もし事実がそんなことになってしまったら、そんな話はもうややこしくてややこしくて仕方のないことだろう。やめるんだ。そんなわけのわからない空想に取り付かれて時間だけを無駄に消費することだけはやめるんだ。

 そんなことをしたって何にもならない。

 何にもなっていかないんだぞ。

 そんなわけのわからないことにチャレンジするくらいだったら、本でも読めばいい。どこかの誰かが書いた本でも読んだらいいじゃないか。マンガでもいい。本でもマンガでも、そういうものを読んだ方がいくらか有意義に時間を過ごせることだろう。

 やっぱり彼は驚いているんだ!

 武彦はとりあえずこういう風に結論付けることにした。今このガソリンスタンドの店員は、俺が「洗車」と口走ったことに何らかの理由で衝撃を受けて驚きおののいてしまっている。こんな店員のもとで果たしてうまく洗車が行えるのだろうか。

 行いたい。

 俺は洗車を行うと決めたんだ。今日行う。

 武彦は言った。「え、洗車ですけどダメなんですか」

「ダメじゃないですけれども」店員が答える。「本当に洗車なさるんですか」

「何かまずいことでも」

「いえまずいことなどないんです」店員は言う。「まずいことなど何一つないんですよ。まずいことなんてちっともないんです。ただちょっと気がかりなことがございましてね。ただこの気がかりなことというのも、それが原因で洗車が行えないなどという結果はまず引き起こさないことでしょうね。それが原因で洗車が出来なくなるといった事態には陥らないと思います。大丈夫ですよ。心配しないでください。心配する必要など微塵もございませんとも!」

「そうなんですか」

 武彦は店員の言うことをさらりと聞き流しながらも、しかし心の中では絶対にさらりとなんか聞き流せないだろうみたいなことも思っていた。

 絶対に聞き流せない!

 こりゃ絶対に聞き流すことはできんセリフだな。

 何だってそんなに幾重にもわたって「心配ないですよ、大丈夫ですよ」みたいなことを言うんだ。どうしてそんなセリフを何度も何度も言わなけりゃならないというのかな。

 心配になっちゃいますとも。

 そんなに何度も何度も心配するなといわれたら、逆に心配になってくるのが人間の心情といったものじゃないですか。

 心配か心配じゃないか。

 今洗車という行為に対して心配しているかしていないかを答えろといわれたら、そりゃ申し訳ないですがね。本当に申し訳ないですがね!

 心配していますよ。

 心配していますとも! っていうか心配せずにいられますかね。こんなに店員に急に「心配しないでください、大丈夫です」と繰り返されたら、心配しないでおこうと決めていたことでも、心配する心が復活してくるでしょう。心配しなくちゃならないんだという危機感が芽生えてくるんじゃないですかね。

 逆効果ですよね、こんなにまくし立てられると。

 こんなに早口で何度も同じ言葉を言われると、余計な心配をしてしまうようになってしまいますよね。それは僕がそういう人間だからということではなくて、人としてね。普通の人だったら、やっぱり今の店員の説明を聞いてしまったら、心配になって「やっぱり何かダメなんじゃないの?」などと問いただしてやりたくなってしまうことでしょう。

 納得できないですよね。

 納得できないのは仕方ないですよ。

 武彦は店員の顔を見ながら言った。このガソリンスタンドの店員、よく見ているとものすごく若い感じで(もともと若いと思ってはいたが)、まだ十代の、下手をすると高校にがんばって通っているくらいの少年に見えなくもなかった。でももしかすると全然違う年代の男性かもしれない。

「がんばっている最中なんですね」

「がんばっている最中?」

「あなたは今がんばっている最中なんでしょう」

「ええまあ」

「がんばっている最中かがんばっていない最中かでいえばがんばっている最中でしょう」

「まあがんばっている最中といえばがんばっている最中ですね」

「いい調子ですね」

「ありがとうございます」

「信じますよ」

「信じてもらえますか」

「もちろですとも!」武彦は力強く答えた。「あなたが洗車について心配しなくてもいいというのならね、私だってそれを信じますよ。それを信じて、やみくもに洗車について心配するのはやめようと思いますよ。少なくとも本当に無駄に洗車について心配するのはやめようと思いましたね!」

「それがいいですよ!」

 店員は武彦の発言に対してとてもうれしそうにすぐさま答えた。殺すぞ。お前調子のいいことばっかり言って殺すぞ。心配しなくても大丈夫ですよだって? 心配するに決まっているだろ。心配しないでくださいといわれて心配しない奴がどこにいるというのだ。 

 え?

 そんなバカな思考停止野郎がこの世の中のどこにいるというのかな。確かに俺は今心配していないといった。お前の発言を聞いて、心配するなというのならば心配しないことにしましょうかねといったさ!

 だが本当のところでは。

 だが本当のところでは、心配はしているというわけなのさ。相変わらず、君に心配するなといわれる前からずっと心配しているというわけなのさ。君が驚いたときからね。君が「え?」などと驚いて見せたときからね。

 俺はあのときからずっと「大丈夫なのかな、ここ」と心配しまくっているのさ。

 だから調子乗っていたら殺すぞ。

 殺しはしないけれども、でもむかつくぞ。おいお前。ガソリンスタンドの従業員の君よ、君には責任があるんだ。責任はないかもしれないけれども、しかしもしかすると責任というものがあるかもしれないのであって、それは俺の不安を拭い去ることだ。

 俺の不安を拭い去って、俺の心配をもとから取り除くんだ。

 いいか。

 俺の要件はこうだ。俺の要件はあくまでも洗車をしたいということなのであって、この願いさえかなえられることになれば俺はもうそれでいいのだ。

 それで大満足なのだ。

 で、君はそれを果たすんだ。

 ぜひ俺の車を洗ってやってくれ。そのガソリンスタンドの敷地内にある洗車専用の機械を使ってぜひ成し遂げてやってくれないか。

 俺は今それを君に頼んでいるんだ。

 ガソリンスタンドの従業員の君に! 君はこのガソリンスタンドの従業員なんだろ? だったらあの洗車専用の機械と実際の洗車についての関係を知っているはずだ。少なくとも誰かからはきいたことがあるはずさ。

 まさか君だってこのガソリンスタンドでたった一人で働いているというわけではあるまい。

 いきなり見ず知らずのところにポンと放り込まれて、それで今までずっと一人でこのガソリンスタンドを切りもしてきたというわけじゃないだろう。

 っていうか逆に?

 逆に一人でガソリンスタンドを切り盛りしてきたということならば、ますますあの洗車の機械のことについて詳しくなくちゃいけないわけか。まず「え?」などという簡単なリアクションの返ってくるわけなどないはずなのか。

 武彦は尋ねた。「それにしても気がかりなことって?」

 そう!

 このスタンドの兄ちゃんは、心配しないでくださいね、ということをごり押ししてくる前に、しっかりと気がかりなことがそういえばあるといえばありますけれどもね、みたいなことをちらっと言ってきていたのである。

 それは何なのか。

 それってどういうことのか。っていうかそこの部分がこの話の中で一番大切なところなのではないだろうか。ちょっと気がかりなところがあるというのをうまく説明してくれていたら、俺だってここまでイラつくことはなかったんじゃないだろうか。

 もっと穏やかに時間を過ごせていたんじゃないだろうか。

 店員が言う。「洗車は初めてなんです」

「洗車は初めて!」武彦は思わず彼の発言を繰り返した。

 洗車は初めて!

 洗車は初めてときやがったよこの野郎。洗車は初めてときやがったか。ああなるほどね。ああなるほどねだよ。洗車は初めてですか。

 ああ。

 なるほどね。なるほど! 正直に申し上げましょう。だいたいそんなところではないかなと思っていたんですよ。

 こちらといたしましてもね、だいたいそんなところじゃないかと思っていたんです。

 従業員の彼が驚いて見せた理由。

 こちらが「洗車」というキーワードを使った途端に「え?」と驚いてみせる態度。

 これを見ましてね。

 だいたいそういうことじゃないかと思っていたんです。あまり得意としていない、もっといったらマジで初めてのオーダーが客から急に来てビックリしている最中なんじゃないのかなと直感で思ったくらいなんです。

 ええ。

 しかしそういうことでしたか。やはりそういうことだったんですね。

 この若い従業員にとって、洗車は初めてだった!

 初めてのお客からのオーダーだったというわけなんだ! 納得ですよ。ええ納得することがこれでちゃんとできますね。

 僕も鬼じゃないんですよ。

 僕も怖い怖い鬼というわけじゃないんでね。ええ、もちろんわかってあげられますとも。え? などと短く叫んでしまった彼の気持ちも、決してわからないものではないのです。

 むしろ痛いほどです。

 痛いほどわかるといっても過言ではないことでしょう。初めてする仕事以上に緊張することなどあるのだろうかとたまに思ってしまうくらいです。

 わかります。

 わかりますとも。この少年は緊張していたんでしょう。緊張していたというか、私の口から「洗車」と出た瞬間に、ピリッと全身に緊張が走ったんでしょうね。

 だから思わず「え?」と言ってしまった。

「え?」などと口走ってしまったのでしょう。

 わかる話じゃありませんか。

 こりゃ素直に誰でもわかってやれる話ですよ。そうかそうかなるほどね! 彼はここの従業員として洗車が初めてだったんだ。

 まだ洗車もやったことがない、経験の浅いアルバイトさんなんだ。

「どういうことなんですか?」武彦が言う。

「言った通りです」

「言った通りとは?」

「はい、私はまだここのガソリンスタンドの店員として洗車を承ったことがないんです」

「そうなんですか」

「ええそうなんですよ。ですからほとんど大丈夫なんですが、個人的にちょっと不安に思ってしまったことも確かなんです」

「乗り越えられますかな」

「乗り越えられますかなとは?」店員の彼が不思議そうに武彦の顔を見る。

 武彦は答えた。「ですから乗り越えられるんですかね」

「乗り越えるとは?」

「不安をですよ」

「不安を?」

「ええ不安を! あなたはそのご自身の初めての仕事に対する不安を上手に乗り越えられるという自信がおありなんですか」

「自信があるかないかといわれればそりゃ大有りですとも!」店員が答えた。「もしこの程度の不安を乗り越えられないようでは、とてもじゃないけれども僕はどんな仕事に就いたとしてもやっていけないだろうと思っています」

「その覚悟!」武彦は言った。「その覚悟は必要なものなのかどうかはわかりませんが、とにかくあなたが今回の不安に対して乗り越えていこうという意思の持っている方だということは十分によくわかりました」

「ありがとうございます」

「いえいいんですよ」

「覚悟はあるんです」

「どうやらそのようですね」

「覚悟はあるんですよ!」

「それはわかっていますとも」武彦が答える。

 すると店員は急に暗い表情になって「しかし実際にどうしていけばいいのかということはまったくなんです」

「まったくですって?」

「ええまったくなんですよ。まったくわからないといった具合なんです。不安を乗り越えていく覚悟は十分にあるつもりなんですが、実際に! 実際にどうやって不安を乗り越えていくのかという問題はいまだに私の心にすくっているんです」

「すくっているんですか」

「はいすくっているんです」

「どうすればいいんでしょうね?」

「わかりません」

「まったく?」武彦は尋ねた。「本当にまったくわからないんですか。あなたがあなたの不安を乗り越えていくために、あなたは本当にわけがわかっていないんですか」

「実を言いますと……」店員が語り始める。「ちょっとはあるんですよね」

「ちょっとはあるって?」

「ええ」

「え?」

「ちょっとはあるんですよね。少しくらいなら、まあ自分の不安を解決できるかもしれないという算段があるんです」

「あるんですか」

「ありますね」

「ならいいじゃないですか。それを試してみましょうよ」

「いいんですか」

「ええいいですともいいですとも! そりゃいいんじゃないですかね」武彦は明るく答えた。「いいんじゃないでしょうか? 本当にいいと思いますよ。ええ! 私は本当にとってもいいと思いますね

。ぜひ試せることがあるのならばすぐにでも試してみるべきでしょう」

「自信がないんですよ!」店員が叫んだ。「そんなね、不安の解決する術を簡単な気持ちで試してしまって、それでもしそれが失敗したらどうするというんですか。それが失敗してしまったら一体私はそのあとどうやって生きていけばいいというんですかね」

「何をおっしゃっているんですか?」武彦は正直きょとんとした。

「おわかりいただけませんか」

「おわかり……うーん」

「わかっていただけないんですか?」

 武彦は答えた。「いやまったくあなたの気持ちがわからないかといったらそういうわけではないんですけれども、しかしぜひ試してみて欲しいですね。何か解決方法が少しでもあるというのならば、それを試してみない手はないと思うんですが」

「どうやら話が通じないようですね」店員がどこか落胆した、失望したようなテンションで言った。

「話が通じないとは?」

「言葉通りの意味ですよ。あなたにはどうやら話が通じないらしい。私の言っていることがうまくご理解いただけていないようですね」

「理解はしているつもりですがね」

「理解はしているつもりですって? 全然ですよ。あなたは全然私の気持ちなんて理解していませんよ」

「していないですかね?」

「していないですとも! していたならば、まさか私の今の話をきいて、それでも『試してみれば』なんて声のかけるつもりなんてあるはずがありません」

「あるはずがありませんか」

「ええ、あるはずなんてありませんね。あなたはきっと心のどこかで私のことを憎んでいるんでしょう」

「憎んでいるだって?」

「そうですとも!」店員が言う。「ええ、あなたは私のことを憎んでしますよ。私のことを、どこかで、しかし確実に憎んでいることでしょうね。憎んでいるんだ。あなたは私のことをどこかで確実に憎んでいらっしゃる」

「そんなことはありませんよ!」武彦は言った。「そんなつもりは! 私としては、あなたを憎んでいるつもりなんてちっともありませんがね」

「私が憎んでいるといったら憎んでいるのです」

「何ですかその理屈は」

「うるさい! 私が憎まれていると感じているんですから、それはもうそれとして早めにあきらめてくれませんかね」

「早めにあきらめてくれ?」

「ですから、早くあきらめてくださいよ。私は自分が不安を乗り越えられると自信に満ちているわけですが、それは実際のところ自信だけがある状態であって、具体的に何をしていけばいいのかということになるとてんでわからない。しかしてんでわからない中にも、もしかするとこういうことをしていけばいいんじゃないのかな、と思うところはあって、だがそれも実際の行動に移してしまうと、もうアイデアがない。その方法で不安を解消できればいいが、もし解消できなければ、私はもう本当に首も回らない、何をしていいのかちっともわからない、真の迷子になってしまうというわけなんですよ。真の迷子になってしまうんですよね、このガソリンスタンドの中でね!」

 もう勝手にしろよ!

 武彦は思った。ええい、ええいこの若造め、このガソリンスタンドの店員め。勝手にしろ。そこまで自分が何もしたくないというのならば本当に何もしなければいい。こっちだってお前にこれ以上かまってやる義理はないんだ。

 そうだ。

 そういえば俺だってお前とこれ以上話してやる必要はないんだぞ。俺だってなぜ今日ここへやってきたか。俺だってなぜここへやってきたかというとだな、それは洗車をするためさ。

 ただ洗車をしたいがためにこのガソリンスタンドにやってきたというわけなんだ。

 だからどうしてもここのガソリンスタンドじゃないといけないというわけなど全然ない。

 このガソリンスタンドじゃなきゃいけないというわけなどマジで全然ないんだ!

 したがって少年よ。

 あえて少年と呼ぼう、少年よ!

 俺はもう帰るよ。このガソリンスタンドから立ち去って、申し訳ないけれどもほかのガソリンスタンドに行くことにしよう。

 ほかのガソリンスタンドへ行って、そこで洗車をしてもらうことにするよ。

 考えてみてガソリンスタンドならどこでも洗車ができるんだ。

 どうしてもここじゃないといけないという理由なんてないんだ。たとえば地元でここだけしか洗車の機械が置いていないとかね。地元でここだけしか洗車の機械が置いていないとかそんなわけはないんだ!

 さあ君との会話もここまでだ。

 ここまでにしようじゃないか少年よ。俺はもう行く。もう出かけることにするよ。本当に申し訳ないがもうすぐ窓のドアを閉めて車を発進させることにする。

 車を発進させることにするからな!

 そうするとどうなるだろう。

 そうすると君とこのガソリンスタンドからおさらばすることになるでしょうね。君とこのガソリンスタンドから離れることになるでしょう。

 それでいい。

 いいのさ。

 ああ現実はもうそれで十分だね! 君のよくわからない話をこれ以上きかされるよりはかなりマシな選択と行動といえるでしょうね! さよなら!

 武彦は言った。「まあ落ち着きなさいよ少年」

「落ち着きなさいよ少年ですって!」店員が驚いたような声を出す。

「ああ落ち着くんだ。いいから落ち着くんだ」武彦は続けた。

「そんな落ち着けといわれたって無理ですよ」

「無理じゃない」

「無理ですよ。今僕は自分が何をすればいいのかまったくわからないんですから」

「それでも落ち着くんだ」武彦は言った。「落ち着くことはとても大切なんだぞ」

「落ち着くことがとても大切なことですって?」

「ああそうだ。落ち着くことはとても大切なことなんだ」

「落ち着くことはとても大切なことなんですか」

「とても大切なことなんだ」

「どれくらい大切なことなんですか」店員が急に質問してきた。

「どれくらい大切なことなのかって?」

「そうですよ。落ち着くことが大切だってことはよくわかりました。だけどその落ち着くことだって実際にはどれくらい大切なことなんですか。どれくらいに大切なことだというんですかね」

「そりゃものすごくさ」

「ものすごくなんですか」

「どれだけ大切かとかそんなことは関係ない! だが今の君にはどう考えても落ち着くことが必要なんだ。さあ少年よ落ち着きたまえ」

「落ち着けといわれてもね!」

 店員はまだ落ち着くことについて反発するらしかった。武彦は言った。「落ち着けといったら落ち着くんだ! 聞き分けのない子供め! お前みたいなものは聞き分けのない子供なんだ」

「急に落ち着けといわれたって無理ですよ。そんな急に言われて落ち着くことができたら誰も苦労なんてしません。みんなずっと落ち着いていられることでしょうね」

「そりゃそうだ」武彦は同意した。「だが落ち着くんだ。いいか落ち着くんだ。少年よ落ち着くんだ。もう君には落ち着く以外にすべきことが残されていないんだ」

「すべきことが残されていないんですか」

「いいから本当に落ち着きやがれこの子供め!」

「落ち着いたら一体どんないいことがあるというんですか」

「いいことだって?」

「ええ、いいことです」店員が真面目な顔をして言う。「それで一体どんないいことがあるというんですか? そりゃいいことがあるんでしょうね。落ち着いたら、そりゃさぞかしいいことがあるに違いないんでしょう」

「あるよ」武彦は答えた。「今君は落ち着いて何かいいことがあるのか、そしてあるとしたらそれは一体どんなことなのかと尋ねたね。尋ねたね? あるよ。その答えはあるよ、だ」

「あるんですか!」店員が言う。

「あああるとも。落ち着いていいことなんてそりゃごまんとあるさ」

「たとえばどんなことです?」

「いいから落ち着きたまえ少年。落ち着きたまえよ少年よ。そんなに興奮したって何もいいことなんてないんだぞ」

「いいことなんてないんですか」

「ああいいことなんて一つもない。悪いことはたくさんあっても、いいことなんてそりゃ一つもないことだろうな」

「一つも?」

「ああ一つもないことだろう」

 俺は洗車がしたいんだ! 武彦は唐突に思った。俺は本当にマジで洗車がしたいんだ。洗車をしたいというだけなんだ。

 それなのに今俺は何の話をしている。

 この店員と何の話をしているというのかな。落ち着けとか落ち着きたくないとかそんなわけのわからないことばかり! もうこんなことばかりしか話せないようだったら、こういうのはどうだろう。こういうのはどうかな。

 急発進させてしまうんだ。

 車を急発進させてしまって、それでこのガソリンスタンドとはおさらば。このガソリンスタンドとはおさらばしてまた別のガソリンスタンドを目指すのはどうだろう。

 我ながらいいアイデアだと思うのだが!

「何もいいことなんてないんですね」店員がしょぼんとした調子で言った。

 武彦は言った。「洗車を承るのが初めてだというのなら、誰かに聞いてきたらどうかな?」

「誰かに聞いてきたらってどういうことですか?」店員が素朴な少年のような顔をする。

 おお。

 そんな素直な顔も出来るんじゃないか。武彦は続けた。「君がまだこのガソリンスタンドのアルバイトを始めたばかりの、まだまだ新人の店員だということはよくわかったよ」

「わかってくれましたか」

「ああわかったよ。よく見てみたら本当に君はまだ少年みたいじゃないか」

「大学生なんです」

「大学生なんだ」

「そうなんです」

 まあそれはいいけど。武彦はそう思いながら「まあそれはいいけど、とにかく君がこのアルバイトを始めてまだ間もないということはわかったんだ。それはよくわかったんだよ」

「ええ、実はその通りなんです」

「やっぱり」

「まだ一週間も経っていないほどかもしれません」

「まだ一週間も経っていないだって!」武彦は驚いた。「まだ初めて間もないのだろうなと思ったのは思ったのだけれども、まさか一週間も経たないほどだったとは! まだ一週間も経っていないくらいだったとはね」

「申し訳ございません」

「いや謝ることはないんだよ。誰だって何にだって初めての時期というものはあるものさ」

「ご理解ありがとうございます」

「うん」

「それでお客様の洗車という言葉にも必要以上にこわばってしまってうまく対応できなかったという具合なんです」店員が言う。

「気にしちゃいないさ」武彦が答える。

「気にしちゃいないですか」

「ああ気にしちゃないとも。あるよ。そういうびくびくしてうまく立ち回れないときってたまにはあるもんさ」

「だけど気にしなくていいですか」

「そうとも。気にする必要なんて全然ないよ。むしろ気にするほうがどうかしているのさ。気にするほうがのちのちに悪いことが起きる」

「悪いことが起きるんですか」

「起きるね。一番やっちゃいけないのは、そうやってびくびくしてしまったからといって、今後もずっとびくびくし続けることだ」

「そりゃそうかもしれませんね」

「そうだろう? そう言われてみればそんな気がしてくるだろう? もうこの話はこれで結構だ。もうこの話はこれくらいで終わりにしようじゃないか。先輩はどうした」

「先輩ですか」

 店員が暗い顔で答える。「先輩は勘弁していただけませんかね」

「どうした」武彦がすぐに言う。「何かあったのか。先輩に対して何か嫌な思い出でもあるのか」

「思い出?」

「そうさ。先輩というキーワードを出したとたんにそんなに暗い表情をするだなんてな。そんなに暗い顔をするだなんて、そりゃ何かあったんだろう」

「嫌な思い出は特にないです」

「ないだって!」武彦が言う。「ないと言うのか。君は、先輩に対して嫌な思い出など特にないというのかな」

「言います」店員が答える。「私は言いますよ。私はいますね。今一度言いましょう。ないです。先輩に対して何か嫌な思い出はないです。そんなものはありません!」

「じゃあどうしてそんなに暗い顔をするんだ!」武彦は言った。

「それはもっと違う理由があるからです」

「違う理由があるからだと?」武彦は思った。何なんだ。それって一体どんな理由なんだ。わからん。俺にはその理由などちっともわからんぞ。嫌な先輩じゃないのならすぐに助けを呼んで今の状況を解決してもらえばいいじゃないか。

 店員が答える。「先輩も解決できなかったらどうするんですか」

「先輩も解決できなかったらどうするんですかだって?」

 武彦は店員にそういわれて「うん?」と悩んだ。

 先輩も解決できなかったらどうするかだと?

 先輩も解決できなかったらどうするかだって?

 一体どういうことなんだ。

 それって一体どういうことなんだろう。もしかしてこういうことなのかな? もしかしてこの店員はこういうことをいいたいのだろうか――つまり、助けを求めるために先輩を呼んだところで、その先輩も洗車のことを良く知らなかったらどうするのか。その先輩も、自分と同じように洗車に対しては素人並みの知識しかなかったらどうするのか。

「そんなことってあるのかな!」武彦は思った。

 そんなことってあるのだろうか。

 ありえるのかな。

 いやありえないだろう。普通に考えたらありえないはずだ。ありえてはいけない。

 そう。

 ありえてはいけないことなんだ。

 だって本当に普通に考えてみて欲しい。まだこのアルバイト暦の浅い店員君が洗車のやり方を知らないっていうのはわかるんだ。

 それは普通にありえることだろう。

 しかも彼はまだこのアルバイトを始めて一週間も経っていないという。一週間も経っていないんだぜ! そりゃいきなり洗車といわれても対応できないことだろう。

 だが先輩は違う。 

 彼の先輩は違うはずなんだ。このアルバイト君の先輩は彼とは違うはずなのであって、先輩のアルバイト君ならば必ず洗車を知っているはずなんだ。

 洗車のことは知っているはずだろう。

 もし知らなかったとしよう!

 もし知らなかったとしたらどうなることかな。伝説かよ! このガソリンスタンドで洗車を頼む奴ってもはや伝説かよ! 先輩のアルバイト店員でも知らない、一度も承ったことがないくらいにこのガソリンスタンドで洗車を頼む奴ってレアなのかよ。滅多にいない奴なのかよ。

 嫌だよ。

 普通だろう。よく考えてくれマジで。ガソリンスタンドで洗車を頼むなんて普通のことなんじゃないのか。じゃああの機械は一体何のためにあるっていうんだ。洗車のためにあるんじゃないのか。洗車のためだけに存在しているんじゃないのかね。

 何かのアンティークだとでもいうのか。

 アンティークか。

 あれは前時代を象徴する、このガソリンスタンドの象徴だとでもいうのか。つまりあれはただの飾りってか!

 武彦は言った。「そんなことは心配しなくて大丈夫でしょう」

「そんなこと?」店員がすぐに聞き返してくる。

「ああそんなことさ。そんな先輩の店員まで洗車のやり方を知らないんじゃないのかって、そんなことまで君が心配する必要はないさ。そんなことまで君が心配してみせる必要なんてないんだよ」

「けど実際にそうだったらどうするんですか」店員が言う。「先輩も洗車のことをあまりよく知らなかったら一体僕たちはどうしていけばいいというんでしょうか」

「そのときはそのときさ!」武彦は言った。「どうにかなる。そのときはそのときできっとどうにかなるようになる。なるようにならなきゃなるようにならない」

「何をおっしゃっているんですか?」店員が厳しい口調で言う。「さっきからあなたは何をおっしゃっているんですか? 今は洗車の話しをしているんでしょう? ふざけているんですか」

「ふざけていないとも!」

 武彦は思った。

 は?

 さっきからずっとふざけているのはお前の方だろ? そろそろマジで車のアクセルを踏んでこのガソリンスタンドから脱出してやろうか。

 店員が言う。「私の案はね、唯一私にあるアイデアは、先輩を呼んでくるというものだったんですよ。私だって先輩さえ呼んでくれば、何とかなるんじゃないかと思っていたんです」

「なりゃそうすればいいじゃないか」

「ところが話はそんなに簡単ではないのです」

「簡単ではないだって?」

「はい」

「そうなのか?」

「そうなんです。話は申し訳ありませんがまったく簡単ではないですよ」

「簡単ではないのか」

「簡単ではないんです!」

「どういうところが簡単ではないと言うんです?」武彦は尋ねた。

「わかりました」店員が言う。「ではご説明差し上げましょう」

「ぜひよろしくお願いしますよ」

「先輩を呼んでくるというのはね、私もずっと思っていたのです。先輩さえ呼んでくればね、何とかなるんじゃないかと思っていたんです」

「そうでしょうね」

「しかしよく考えてみて欲しいのです」

「どうしましたか」

「もしその先輩も洗車のやり方を知らなかったらどうしよう」

「それが不安だったというわけなんですね」

「まあそういうわけなんですが」

「それだったら何も心配いらないといったじゃないですか。たとえ先輩が知らなくても、そのときはそのときでまた何か別のアイデアを考えたらいいし、もしかしたら先輩がほかの店のスタッフとかにやり方を聞いてくれるかもしれませんよ」

「そうか、その手がありましたね」

「あるでしょう。そりゃ手ぐらいいくらだってあるんですよ」

「だが私はこういう風に考えたんですよ」

「どういう風に?」武彦が尋ねてやる。

「先輩を呼んでくるというアイデアは出来るだけ最後までとっておいて、そのアイデアがあるうちに何かほかのアイデアを考え付いて、まずそれから実践しよう、なるべくこの先輩を呼んでくるというアイデアは自分の最後の切り札としてとっておくんだ、とね」

「どうしてそんなことをしなくちゃならないんですか」

「もし先輩を呼んでくるというアイデアがダメになってしまったら、それでもう僕はおしまいだからですよ」

「おしまいなんですか」

「おしまいですよ! 僕はいよいよ絶望のふちに追い込まれてそこから抜け出せなくなってしまうことでしょうね」

「なるほどね」

「わかってくれましたか」

 武彦は渋りながら「いや全面的にわかったというわけではないのですが、あなたの言っていることも何となくわからないでもないなと思いましてね」

「そうでしょう?」

「確かに今手持ちのカードを全部切ってしまったら、それであとは不安になるしかないという気持ちはわかりますよ。できるだけ確実なアイデアはあとに取っておきたい、最後の望みとしてそれをすっと持ち続けたいという保守的な気持ちはわかります」

「ありがとうございます」

「だがそんなことじゃいつまでたっても困難は解決できませんぞ!」

「そりゃそうです。そりゃそうですとも」店員が言う。「本当に困難を解決しようと思ったら自分のことばかり考えてちゃダメでしょう。自分の気持ちばかりを考えていてはダメなんです」

「そのとおりです!」武彦が続ける。「ですから早く先輩を呼んできてください。わけがわかったのなら、早くあなたの先輩を呼んできてくださいよ」

「先輩を呼んできましょう」

 店員がついに言った。

 結局呼んでくることになるならさっさと呼んでくれりゃ良かったのに。まったく無駄な時間を過ごしてしまったもんだ。

「それで先輩はどこにいるんです?」武彦が尋ねる。

「多分事務所でしょう」

「事務所の中にいるんですね?」

「ええ。先輩はすぐに僕にばかり仕事に行かせて、自分は事務所の奥で雑誌とかテレビとかを見ているんですよ」

「嫌な先輩ですね」

「そうでもないですよ!」

「そうなんですか?」

「ええ。基本的にここのガソリンスタンドは暇ですからね、僕も暇なときは、先輩と一緒に将棋を指したりしているんです」

「将棋ですか」

「興味ありますか?」店員が気さくに尋ねてくる。

 武彦は答えた。「いや全然。さあ早く先輩を呼んできてもらおうか!」

「じゃあ僕が先輩を呼んでくる間待ってもらえますか?」

「待ちますとも!」武彦は答えた。「待ちますよ。待ってあなたの先輩がきてくれるというのなら私はいくらでも待ちますよ。あんまり長かったら帰りますけれどもね。あんまり長かったらそりゃそっと帰りますよ!」

「一旦お別れですね」

「お別れ?」

「一旦失礼しますね」

「はいよ」

 店員が一旦事務所のほうに洗車の件について先輩に相談しに行った。武彦は事務所へと向かっていく若いアルバイト店員の後姿を見ながら「もうこれ以上このガソリンスタンドにいてやることはない、もうここはそっと帰ってやるのが一番いいんじゃないだろうか、確かにあの若い店員は初めて見た、ここのガソリンスタンドを利用するのは今回が初めてというわけではないのだけれども、あの店員は新顔だ、というと彼の先輩というと、いつもこのガソリンスタンドでガソリンを入れてくれる兄ちゃんなのかな、だが顔は覚えていない、その先輩もどんな感じの人だったのかなんてこっちは全然覚えていないぞ」

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