第12話 市場と、お買い物と、耳まで赤いニャン
朝、ニャリエナが目を覚ますと、アルファスが机に突っ伏していた。
目の下に濃いクマが浮かび、眼鏡が曲がっている。ローブがよれよれだ。
「……二度と……発情期には近づきませんから……あうぅ……」
何かをぶつぶつとつぶやいている。
ニャリエナは首を傾げた。昨夜、何かあっただろうか。よく思い出せない。
ぼんやりとした記憶を探ってみる。そういえば、勇者様の耳を噛んだ気がする。
顔が、少し熱くなった。
「勇者様、おなかすいたニャン」
ニャリエナはごまかすようにそう言った。
「……食料が切れています……えと……本日は市場で買い出しに行きましょう……」
アルファスがよろよろと立ち上がった。曲がった眼鏡を直して、買い物リストを取り出す。いつも通りだった。
ニャリエナはその背中を見ながら、昨夜の記憶をもう一度探った。
耳を噛んだ。それは確かだ。
それから、何か言った気がする。一生懸命思い出す。
(あれ……そういえばわたし……交尾するニャン、って……言ったニャン?)
顔が真っ赤に染まり、尻尾がぶわっと膨らんだ。
市場は朝から賑わっていた。
肉の焼ける匂い、野菜の青い匂い、香辛料の刺激的な匂い。色とりどりの屋台が並び、人々が行き交っている。
いつもなら真っ先に屋台に突進する所だ。でも今日は、なんとなく足が重かった。
隣でアルファスが歩いている。
いつもと同じ距離のはずなのに、妙に近く感じた。
(変ニャン……)
アルファスは気づいていない。手元の買い物リストを見ながら、ぶつぶつと独り言を言っている。
「……まず食材だね……芋は日持ちするするから……干し肉は割高ですが保存性が……ふむ……」
ニャリエナはその横顔をちらりと見た。いつもと同じ顔だ。
メガネが少し曲がったままだし、前髪が目にかかっている。
なのに、なんだか落ち着かない。
(何か変ニャン。いつもよりドキドキするニャン)
横目でアルファスをちらちらと見る。
アルファスは買い物リストに没頭している。
(勇者様はなんで平気ニャン……あんなこと言ったのに……)
肉屋の前に来た。
アルファスが値段表を確認しながらぶつぶつ言っている。
「……この部位は筋が多いけれど、煮込めば柔らかくなるんだよね……コスパが……うん……」
店主がにこやかに顔を出した。
「いらっしゃい。兄ちゃん、彼女さんかわいいな! 二人は恋人かい?」
「ち、違います!! 主人と奴隷です!!」
「がっはっは、わかってるさ。お前さんにはもったいもんなあ」
店主が豪快に笑う。
ニャリエナは耳をぴんと立てた。
恋人。
その言葉が、頭の中でゆっくりと広がった。
昨夜のことが、また蘇ってきた。耳を噛んだこと。「交尾するニャン」と言ったこと。
顔が熱くなった。
「ニャリエナ氏? 顔が赤いですが……もしかして……発情期の後遺症が……?」
「ち、違うニャン!! なんでもないニャン!!」
アルファスは首を傾げながら、店主に向き直った。
「こちらの肉は割高ですね……隣の店の方が……はい……」
アルファスは平常運転で買い物を続けている。
ニャリエナはその背中を見た。
(勇者様は、本当になんとも思ってないニャン……)
なぜか、それが少し悔しかった。
人混みの中を歩きながら、ニャリエナはまた、昨夜のことを考えていた。
記憶は断片的だが、確かに憶えている。勇者様の耳を噛んだこと。あんなことを言ったこと。
足が止まり、人波にそのまま飲み込まれた。
「ニャリエナ氏!?」
アルファスの手が、自然にニャリエナの手を掴んだ。
「危ないですよ」
ニャリエナが停止した。
手を掴まれている。アルファスの手だ。大きくはない。でも温かい。
顔が熱くなった。耳がぺたりと伏せられ、尻尾がぶわっと膨らんだ。
「ど、どうしたんですか?」
アルファスが覗き込んできた。顔が近い。
ニャリエナはその手を振り払おうとしたが、できなかった。
(……温かいニャン)
手は繋いだまま。
「顔が赤いですね……やはり後遺症が……」
「違うニャン!! 後遺症じゃないニャン!!」
「で、では何ですか?」
「……なんでもないニャン!!」
アルファスは首を傾げながら、また買い物リストに目を戻した。
手は繋いだままだった。本人は気づいていないらしい。
ニャリエナは繋がれた手をじっと見た。
(……なんで平気ニャン、この人……)
平常運転のアルファスを少し羨ましく思った。
服屋の前を通った時、アルファスが立ち止まった。
「そろそろ防寒具が必要な季節です……ふむ……こちらの方が丈夫で安いですね……」
棚を眺めながらぶつぶつ言っている。値段を比較して、素材を確認して、また値段を見る。
店員がニャリエナに話しかけてきた。
「ご主人、しっかりしてるねえ」
「そうニャン。頼りになるニャン。大好きニャン」
「お、二人は付き合ってるのかい?」
店員がニコニコしながら身を乗り出した。
「付き合うって何ニャン?」
「恋人かって事だよ」
恋人。
さっき聞いた言葉だ。
ニャリエナの耳が、じわじわと赤くなっていった。
(恋人……勇者様が……)
昨夜のことがまた蘇ってきた。何度目だろうか。
「ニャリエナ氏、顔が――」
「なんでもないニャン!!! ふぎー!」
威嚇の声を上げる。
アルファスが目を丸くした。
「わ、わかりました……あわわっ……」
ニャリエナはそっぽを向いた。耳まで赤かった。
夕方、荷物を抱えて帰り道を歩いた。
アルファスは満足そうだった。
「本日は安く買えて満足です……ふふっ……芋と干し肉と根菜があれば一週間は……」
ニャリエナはずっとアルファスを見ていた。横顔、歩き方、そして荷物を持つ手。
今日一日、何度も昨夜のことを思い出した。そのたびに顔が熱くなった
少しだけ、アルファスの袖を掴んだ。
アルファスが立ち止まった。
「……?」
夕暮れで、空が赤く染まる中、ニャリエナはアルファスを見下ろした。
「勇者様……今日も離れて寝るニャン?」
「と、当然です!!」
ニャリエナはちょっとだけ黙って、それから小さくつぶやいた。
「……ちょっと残念ニャン。たまには一緒がいいニャン」
「ふぁっ!?」
アルファスは鼻を押さえながら、早足で歩き出した。
ニャリエナはその後ろを、袖を掴んだまま、ついていった。
耳はまだ、少し赤かった。




