第6話 第二王子の悲劇、または書類の山との再会
騎士団寮における俺の生活は、ある意味で究極の「庇護下」にあった。
三食昼寝付き、おやつ付き。外に出ようとすれば即座にカトリーヌに抱き上げられ、豊かな胸の谷間に顔を埋められながら「危ないからお部屋にいましょうね」と甘やかされる。
かつて最強の騎士団長として戦場を駆け抜け、血と汗と泥に塗れていた三十路の男にとって、それはまさに思い描いていた夢のニート生活……の、はずだった。
「アルくん、あーん」
「……あーん」
カトリーヌが銀の匙で、最高級の果実を裏ごしした甘いペーストを俺の口に運んでくる。
美味しい。確かに美味しいのだが、俺の尊厳は今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
(違う。俺が求めていた休日はこういうのじゃない。一人で温泉に行ったり、昼間から酒場でエールを飲んでくだを巻いたりする、大人の自由な休日だ……!)
だが、俺が少しでも部屋の外に出ようものなら、カトリーヌの目にハイライトが消え、「悪い虫がつく」と監禁モードが発動してしまう。
先日の訓練場での一件(バルトロ水桶ダイブ事件)以来、彼女の俺に対する『天使認定』は完全に神格化の域に達しており、もはや教祖と狂信者のような関係性になりつつあった。
「カトリーヌ、いるか?」
そんな息苦しい愛の牢獄に、救いの声が響いた。
扉を開けて入ってきたのは、第二王子ルーカスだ。俺の親友であり、この若返り偽装死事件の共犯者である。
「殿下。何か御用でしょうか? 今はアルくんのおやつの時間なのですが」
「……お前、ここ数日、副団長の仕事を完全にサボってる自覚はあるか?」
「アルくんを立派に育てることこそ、亡き団長から託された私の最大の使命ですから。書類など後回しで結構です」
「託してねぇよ……いや、まあいい。後で泣きを見るのはお前だぞ」
ルーカスは深く暗い、まるで徹夜明けの社畜のような目の隈を擦りながら、一つ咳払いをした。
「実は、この子――アルの『後見人』として、いくつか確認しなければならない法的手続きがあってな。少しの間、彼を王宮の執務室に連れて行きたい」
「ッ! ダメです! 王宮にはエドワード殿下の息がかかった者たちが大勢います。この無垢な天使を、あんな魔窟に連れて行くなんて!」
「安心しろ。俺の近衛だけを配置した秘密の執務室だ。それに、この子の『今後の生活費』に関する重要な手続きなんだぞ。一生お前が養うつもりか?」
「はい! 私の給料と財産はすべてこの子に捧げます!」
「即答するな!重いんだよ! ……とにかく、一時間だ。一時間で必ずお前の元へ無事に返すから貸せ!」
ルーカスが必死に説得し、俺も「おねえちゃん、ボク、おはなしきいてくる!」と無垢な笑顔で援護射撃をした結果、カトリーヌは血の涙を流さんばかりの顔で俺を送り出してくれた。
ガチャリ、と王宮の奥深くにある隠し執務室の扉が閉まる。
その瞬間、俺は六歳児の皮を脱ぎ捨て、ドカッと最高級の革張りソファにふんぞり返った。
「ふぅーっ! 助かったぜルーカス! あのままじゃ俺、一生カトリーヌの抱き枕として生涯を終えるところだった! お前が神に見えるよ!」
「……お前なぁ。あいつをあそこまで重度のヤンデレに育て上げたのは、お前自身の自業自得だぞ」
ルーカスは呆れたように肩をすくめると、執務机の方へと歩いていった。
俺はソファの上で足をぶらぶらさせながら、ニヤリと笑う。
「で? わざわざあいつから引き剥がしてまで俺を呼んだってことは、例の『俺の個人資産』の回収の件だな? あの金が手に入れば、俺も晴れてこの息苦しい寮から脱出して、南の島で悠々自適なリゾート生活が……」
「ああ、その件だが。お前にやってもらいたいことがある」
ドサァァァァァァァァァンッ!!
ルーカスが机の上に投げ出したのは、金貨の入った袋などではなかった。
それは、天井に届かんばかりに積み上げられた、羊皮紙の束。
一目見ただけで吐き気を催すような、膨大な『書類の山』だった。
「……は? なんだこれ」
「お前の財産の所有権を『遠縁の孤児(お前)』に移行するための、法的な申請書類の束だ。エドワード兄上が横槍を入れて複雑化させたせいで、気が遠くなるほどの分量になっている」
「お、おい待てよ。俺の字で書いたら一発でバレるだろ!?」
「だからお前には『代書人』として、左手で子供っぽい字を書きつつ、法的根拠と複雑な税金対策の計算を完璧にこなしてもらう。俺がやると兄上にバレるからな」
ルーカスは冷酷な笑みを浮かべた。
そして、さらに背後の棚から、もう三つほど書類のタワーを机に追加した。
ドサァッ!! バサァッ!!
「……おい。ちなみにこっちは?」
「お前が死んでから滞っていた、騎士団の予算申請書、装備の修繕決裁、貴族からの苦情対応、新兵の配属先リスト……等々だ」
「は? なんで第二王子のお前が、騎士団の事務処理なんかやってるんだよ!」
俺が当然の疑問を口にすると、ルーカスのこめかみに青筋がピキピキと浮かび上がった。
「誰のせいだと思ってる!? お前が死んだ(ことになっている)今、エドワード兄上は騎士団の予算と機密情報を完全に掌握しようと動いている! だから俺が陛下にお願いして『特命監査役』として、兄上からの理不尽な要求書類や予算の承認権限を無理やり引き受けて、防波堤になってやってるんだろうが!」
「お、おう。サンキューな。でも、それなら本来は副団長のカトリーヌが実務を……」
「そのカトリーヌが!! 『アル君のお世話がありますので』とかいうふざけた理由で完全な職務放棄(育児休暇)をキメてるから、俺が裏で全部処理して第一王子派の目を誤魔化してるんだろうがぁぁっ!!」
ルーカスは机をバンッと叩き、充血した目で俺をねめつけた。
「だいたいな! お前が先日、暗殺者ギルドを派手に吹っ飛ばしてくれたおかげで、焼け跡から兄上の致命的な『裏帳簿』が手に入ったんだよ! それを盾に兄上を脅しているからこそ、カトリーヌの職務放棄や数々の暴走も、ギリギリのところで揉み消せているんだぞ! アイツがクビにならないように、俺の睡眠時間は今、一日二時間だ!!」
「……あっ」
そうだった。俺がニート生活を守るために暗躍(?)した結果が、めぐりめぐって親友の政治的カードとなり、同時に親友を過労死寸前まで追い込んでいたのだ。
カトリーヌがどれだけ職務を放棄しようとも第一王子派が手出しできないのは、俺が拾った「裏帳簿」でルーカスが強烈な牽制をかけてくれているからだった。
「お前が勝手に死んだふりして休んでるからだろうが! いいからやれ! 今日中にこの山の半分を終わらせるまで、カトリーヌの元には帰さんからな!」
親友の目は、完全に社畜特有の暗い光を帯びていた。
冗談ではない。俺が不本意ながらも偽装死と若返りを何のために受け入れたか。
この『書類の山』という名の地獄から逃げ出し、平穏なニート生活を送るためだ!
俺はすっかり頭に血がのぼってしまった。
俺は自分の小さな両手を見つめた。
今の俺は、六歳児だ。
六歳児には、六歳児にしか使えない『最強の特権』があるではないか。
俺はスゥッと大きく息を吸い込むと、床に大の字になって転がった。
「いやだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「は?」
「おしごといやだ! じぃーっと座ってるのいやだ! お外で遊びたい! おうち帰るぅぅぅ!」
「お、おいアル。何やって……」
「わあああああん! ルーカスのおばかー! うんちー!」
俺は手足をバタバタと振り回し、床を転げ回って全力で叫び始めた。
そう、魔の二歳児ならぬ、最強の元騎士団長による『全力のイヤイヤ期』の発動である。
ただ泣き叫ぶだけではない。俺は手足をバタつかせるふりをして、指先から微弱な――しかし極限まで圧縮された『衝撃魔法』を四方八方に乱れ撃ちした。
バサバサバサバサッ!!
「うわっ!? し、書類が! 貴様!?やってくれたな」
俺の放った見えない衝撃波が、机の上に積まれた書類の山に直撃する。
何千枚という羊皮紙が、吹雪のように執務室の中を舞い踊った。
「やめろぉぉ! 順番に並べてたのにぃぃ! 予算案と苦情処理が混ざるぅぅ!」
「いやだいやだいやだ! お絵かきするー!」
俺は泣き叫びながら、机の上にあったインク壺を「偶然」手で払いのけた。
バシャッ!
真っ黒なインクが見事な放物線を描き、ルーカスの顔面と、彼の着ていた最高級の絹の服を真っ黒に染め上げる。
「あぁぁぁぁ! 俺の勝負服がぁぁ! お前、中身三十歳のくせにプライドってものはないのか!」
「えーん! こわいよー! ルーカスがいじめるよー!」
俺はさらに大声で泣き叫んだ。
魔力で肺活量を底上げした、六歳児の鼓膜を破るような大音量のギャン泣き。
さらに俺の首には、カトリーヌ特製の『魔力追跡機能付き銀の鈴』がかかっている。俺が意図的に魔力を放出したことで、鈴はけたたましい警戒音を鳴らし始めていた。
――ズガァァァァンッ!!
その時、執務室の頑丈な樫の扉が、爆発したかのように吹き飛んだ。
「……私の天使に、何をしているのかしら?」
粉塵の中から現れたのは、銀髪を逆立て、手にした大剣から恐ろしい殺気を放つカトリーヌだった。
彼女の目には、完全に理性の光がない。
俺の魔力異常を感知し、さらに泣き声を聞きつけた彼女が、王宮の近衛騎士たちを排除して強行突破してきたのだ。
「カ、カトリーヌ!? 違う、これはだな……!」
「おねえちゃぁぁぁん! ルーカスがね、むずかしい紙いっぱぁいかかせるのぉ! ボク、手がいたいのぉ!」
俺はインクで汚れた手を差し出しながら、涙と鼻水まみれの顔でカトリーヌに抱きついた。
カトリーヌは俺を優しく抱きとめると、そのインク汚れを見て、ゴゴゴゴと地鳴りのような怒気を発した。
「……第二王子殿下。いくらあなたでも、許されることと許されないことがあります。この小さな手に、前時代的な書類仕事を押し付けただと? 児童虐待で今すぐその首を刎ね飛ばしてもよろしくてよ?」
「ひぃっ!? 待て、違う、誤解だ! お前が仕事をサボってるから、こいつの中身が……っ!」
「言い訳は地獄で聞きなさい!!」
カトリーヌの大剣が、執務室の机を真っ二つに両断する。
宙を舞う書類。飛び散る木屑。顔面インクまみれで悲鳴を上げて逃げ惑う第二王子。
「助けてくれぇぇ! アル、お前絶対許さんからな! その書類は俺が全部やるから、あいつを止めてくれぇぇ!」
「あはははは! これたーのしー!」
俺は無邪気に笑いながら、宙を舞う『俺の財産移譲書類』をビリビリに破き捨てた。
自分の財産は惜しいが、あんな書類の山と再び格闘するくらいなら一文無しの方がマシだ。
カトリーヌも『全財産を捧げる』と言ってくれていたし、足りなければ暗殺者ギルドを潰した『特別報酬(退職金)』として、後でルーカスに堂々と請求書を回してやればいい。
かくして、第二王子ルーカスは書類の山とヤンデレ副団長の殺意という二つの地獄を同時に味わう悲劇に見舞われた。
俺はカトリーヌの腕の中で、密かに勝利のガッツポーズを決めた。
六歳の特権、最高。
俺のニート生活は、こうして盤石なものとなっていくのである。
(※ただし、カトリーヌの監獄からは逃れられないものとする)




