第五話 選ぶもの、選ばされるもの
道は増えていた。
増えた、という言い方が正しいのか分からない。
最初からそこにあったと言われたら、たぶん誰でも納得してしまうくらい自然に、そこに“ある”。
篠宮ユイは、息を吸うたびに肺の内側が冷えるのを感じていた。
アパートの角を曲がったはずなのに、匂いが違う。
朝の洗剤でも、排気ガスでもない。
濡れた石と、古い紙と、少しの灰。
「……ここ、どこですか」
自分の声が、少し遅れて返ってきた気がした。
反響ではない。
言葉の“形”だけが、道に馴染むまで時間がかかっている。
ハルトは篠宮の少し前を歩いている。
眠そうな目は相変わらず半分しか開いていないのに、足取りだけは妙に迷いがない。
「道」
「それは分かります」
「増路だ」
「それも分かってます」
篠宮は言い返してから、少しだけ落ち着く。
こういう時でも、会話ができる。
会話ができると、人間は“まだ終わってない”と思える。
振り返る。
入口は見えない。
さっきまで見えていたはずのアパートの壁も、もうない。
代わりに、同じような壁がいくつも続いている。
同じ材質、同じ高さ、同じ汚れ。
ただ、微妙に角度だけが違う。
——見覚えがあるのに、確信が持てない。
篠宮の背中がぞわりとした。
「……これ、戻れないやつですか」
「戻れないって思ったら戻れない」
「嫌な言い方ですね」
「嫌なのは、この道だ」
ハルトの言葉は投げやりなのに、どこか慎重だった。
慎重、というより——警戒。
篠宮はその横顔を盗み見た。
ハルトが警戒する。
昨日の灰獣の時も、確かに警戒はしていた。
でもそれは“面倒”の延長だった。
今は違う。
ハルトの目が、わずかに醒めている。
「……ハルトさん、ここ、知ってるんですか」
ハルトはすぐに答えない。
答えないまま、足を止めて、道の先を見た。
薄暗い通路が、三つに分かれている。
右、左、正面。
どれも同じ幅。
どれも同じ暗さ。
どれも同じ“普通”。
普通すぎて、選べない。
篠宮の喉が鳴った。
「……選ばされてる」
口に出して、ようやく気づく。
ここは“迷路”ではない。
迷うのは自分のせいじゃない。
選ばされるように作られている。
それが、妙に腹立たしい。
「ねえ」篠宮は言った。「これ、誰が作ってるんですか」
ハルトは小さく鼻で笑った。
「誰でもない」
「え?」
「道が勝手にやってる」
篠宮は反射的に言い返しそうになって、やめた。
この男が“勝手に”と言う時、それは説明を放棄しているのではなく、説明が無意味だと判断している時だ。
ハルトは三つの分岐の前で、しゃがみこんだ。
手を伸ばし、地面に指先を置く。
篠宮はその仕草に、奇妙な違和感を覚えた。
まるで、地面が“肌”であるかのように触れている。
「……何してるんですか」
「聞いてる」
「地面に?」
「道に」
篠宮は言葉を失う。
でも——道は確かに、何かを“返してくる”場所だ。
足音が、コツ、と鳴った。
二人のものではない。
遠い。
けれど確実に、こちらへ近づいている。
篠宮は肩が強張った。
「……誰か、いる」
「いる」
「人ですか」
「知らない」
ハルトは立ち上がり、分岐の正面を見た。
その奥に、何かがあるわけではない。
ただ、空気の濃さが違う。
まるで——昔の水のように、重い。
足音が増える。
コツ。
コツ。
コツ。
さっきまで一つだったのが、二つ、三つ。
でも恐怖は薄い。
殺意がない。
敵意もない。
ただ、“誰かが通った”気配だけがある。
篠宮は思った。
これが無害なら、なおさら不気味だ。
無害なものが、無言で人間の道を変える。
ハルトが、ぼそっと言った。
「……懐かしい」
篠宮は思わず振り向いた。
「え?」
「こういうの、あった」
言葉がそれ以上続かない。
続けない。
でも篠宮は、いま確かに聞いた。
ハルトが“過去”を現在に漏らした。
篠宮は息を整えながら、ゆっくりと言った。
「……じゃあ、ハルトさんは、抜け方を知ってるんですか」
ハルトは一瞬だけ黙り、短く答えた。
「知ってるのは……道の癖」
「癖」
「抜け方は、選び方だ」
篠宮は眉をひそめる。
「選び方って」
「もう分かったろ」
「……は?」
ハルトは篠宮を見た。
その目が、いつもよりほんの少しだけ真面目だった。
「だから、向こうが選ばせに来る」
「……だから、選ばされてるって」
「そう」
足音が、また増えた。
声も混じる。
人の声に似ている。
でも言葉にならない。
子守唄の断片みたいに、旋律だけが漂っている。
篠宮の胸がきゅっと縮む。
懐かしいわけじゃないのに、懐かしさに似た感覚が刺さる。
「……なんですか、これ」
「残り滓」
「かす?」
「終わったやつの」
ハルトはそれだけ言い、分岐の左へ歩き出した。
「待ってください」
「止まるな」
「なんで!」
「止まると、選ばれる」
篠宮は走って追いつく。
足元の舗装が変わる。タイルの模様が変わる。
気づけば、自販機のメーカーも知らないものになっている。
世界が、勝手に過去へ寄っていく。
声が近い。
言葉にならない声が、耳元をかすめる。
篠宮は思わず口を押さえた。
怖い。
でもそれ以上に、腹が立つ。
自分の意思が、誰かの都合で曲げられていく。
仕事でも、人間関係でもない。
もっと根っこの部分が。
「……ふざけないで」
篠宮は小さく言った。
その瞬間、道がぐらりと揺れた。
揺れたのは地面じゃない。
“選択肢”の方だ。
右への分岐が、薄くなる。
左への分岐が、濃くなる。
正面の道が、気づけば二本になっている。
篠宮は息を呑んだ。
「……怒ると、反応する」
「え?」
「お前、いま主張した」
「主張って……」
「選ばされたくない、って」
ハルトの口調は淡々としている。
でも、どこか納得している。
篠宮は、喉の奥が熱くなった。
「当たり前じゃないですか」
「当たり前を言うな」
「言わないと、持っていかれるからです!」
言った瞬間、道がまた揺れた。
今度は、“濃い”方が薄くなる。
ハルトがちらりと篠宮を見た。
「……お前、向いてるな」
「何にですか」
「"増路"に」
篠宮は返したかった。
何言ってるんですか、と。
でもその余裕はなかった。
足音がすぐ後ろまで来ている。
コツ、コツ、コツ——
数が増えている。
増え続けている。
篠宮の背中が冷え切った。
「……来てる」
「来てる」
「追ってきてます?」
「追ってない。道が寄せてる」
ハルトは立ち止まり、分岐の前で目を細めた。
今度は四つ。
どれも同じ暗さ。
どれも同じ匂い。
篠宮は思う。
これを“選べ”と言うのは暴力だ。
「……ハルトさん」
「黙れ」
「え」
「音を聞け」
篠宮は口を閉じた。
耳を澄ます。
声。
足音。
それ以外に——
遠くで、微かに、アナウンスが聞こえた。
『可燃ごみは、午前八時までに——』
篠宮の目が見開かれる。
「……アパートの」
「そう」
「嘘でしょ」
「嘘じゃない。あれが今の世界だ」
ハルトは言った。
「この道は、懐かしい方へ引っ張る。終わった方へ」
「……終わった方」
「だから、音を選べ」
篠宮は唇を噛む。
道を選ぶんじゃない。
“世界の音”を選ぶ。
篠宮は目を閉じ、耳を澄ました。
足音が迫る。
声が絡む。
でもその向こうで、かすかに生活の音がする。
子どもの泣き声。
自転車のブレーキ。
ゴミ収集車のバック音。
——生きてる音。
篠宮は目を開け、四つの道のうち、一つを指した。
「あっち」
「理由は?」
「分かりません。でも、あっちは……生きてる」
ハルトは一瞬だけ口元を歪めた。
笑ったようにも見えた。
「それでいい」
二人は走った。
道が追ってくる。
足音が増える。
声が耳を撫でる。
でも篠宮は、指差した方向から目を逸らさなかった。
途中で道が増える。
横に滑り込む路地が口を開ける。
選べ、と迫る。
篠宮は唇を噛んで、言う。
「選ばない!」
「いいじゃん」ハルトが言った。
「うるさい!」
「今のいい」
道がまた揺れた。
増えた道が、ふっと薄くなる。
まるで“意思の強い方”だけを残すみたいに。
最後の分岐。
篠宮は迷わず、生活の音がする方へ飛び込んだ。
次の瞬間。
世界が、ぱちんと“戻った”。
アパートの壁。
いつもの自販機。
いつもの匂い。
朝の光が、痛いくらい明るい。
篠宮は膝に手をついて、息を吐いた。
「……出た」
「出たな」
ハルトは平然としている。
でも、篠宮の視界の端で、少し寂しそうに目を伏せた。
篠宮はそれに気づいて、気づかなかったふりをした。
「……どうして、出られたんですか」
「お前が、選ばれなかった」
「私が?」
「道に従う顔してない」
篠宮は思わず笑った。
「褒めてます?」
「褒めてない」
「じゃあ、何ですか」
「事実」
篠宮は息を整えながら、隣の壁を見た。
そこにはもう路地はない。
ただの壁。
でも——壁の継ぎ目が、少しだけ違う。
昨日までの継ぎ目と、ほんの少しだけ。
篠宮は喉が鳴った。
「……ねえ、ハルトさん」
「ん」
「さっき言ってましたよね。『懐かしい』って」
ハルトは答えない。
答えないまま、空を見た。
朝の空。
燃えていない空。
「……これ、また起きますよね」
「起きる」
「止められますか」
「さあな」
「え?」
「止めても、別の形で出る」
篠宮は理解できないのに、なぜか納得しそうになる。
ハルトは最後に、ぼそっと言った。
「……選ばせるやつは、増える」
篠宮はその言葉を覚えておくことにした。
意味は分からない。
でも、胸の奥がざわつくような言葉だった。
そしてハルトは、さっきから変わらない顔で言った。
「コンビニ、行くぞ」
「あんなことがあった後で行くんですか」
「腹減った」
「……そうですね」
二人は並んで歩き出した。
日常へ戻るように。
戻れたことを、確かめるように。




