第四話 隣人、道に迷う
『可燃ごみは、午前八時までに所定の場所へ——』
アパートの廊下に、自治会のスピーカーの声が薄く流れていた。
やたら丁寧で、やたら他人事で、朝の空気にだけはよく馴染む。
ハルトはゴミ袋を片手に、玄関から一歩出たところで止まった。
眠気で目のピントが合っていないのに、廊下の空気だけがやけに冷たい。
——昨日のせいだ。
そう思う。
昨日のせいで、街の空気が一枚薄くなった気がする。
それを誰も気づかないふりをするのが、灰空市の一番の異常だ。
ガチャ、と隣の部屋の鍵が回った。
「おはようございます」
篠宮ユイが出てきた。
役所の制服ではない。寝巻きの上に薄手のカーディガン。
髪は適当にまとめただけで、目の下にうっすら影がある。
それが妙に“隣人”だった。
「……おはよう」
ハルトはゴミ袋を持ったまま、廊下の壁にもたれる。
「昨日、寝られました?」
「15時間」
「寝すぎじゃないですか」
「足りない」
篠宮は少しだけ口元をゆるめた。笑うというより、息を抜いた。
「電車、間に合ったんですよね?」
「間に合った」
「よかったです」
その“よかった”は、仕事の完了報告じゃない。
隣に住んでいる人間が、隣に住んでいる人間に言う声だった。
ハルトはその言い方が少しだけ苦手で、視線を窓の外へ逃がした。
駅の方角。
昨日、影が街を舐めた場所。
「……今日は、役所?」
「ええ。日曜ですがこれから、当分は休めないです」
「真面目だな」
「真面目じゃない人の尻拭いをしてるだけです」
篠宮はさらっと言う。
嫌味じゃないのが逆に刺さる。
ハルトは一拍置いて言った。
「お前さ、寝ろよ」
「寝たいですよ」
「寝ればいいだろ」
「寝られたら苦労しません」
篠宮はコンビニ袋を持ち上げた。
「昨日買っておきました。あと……これ」
小さな栄養ドリンクと、絆創膏。
ハルトは露骨に嫌そうな顔をした。
「……いらない」
「いります」
「寝れば治る」
「治りません。血、出てました」
篠宮は言い切ってから、少し声を落とした。
「……怖かったです、昨日」
ハルトは顔を向けた。
篠宮は目を逸らさない。
「怖かったけど、逃げたくなくて。逃げたら、何かが終わる気がして」
それは篠宮が“戦う側”じゃないことを証明する言葉だった。
彼女は守る側だ。住民を、日常を、規則を、線を引くことで守る側。
ハルトは短く息を吐いた。
「終わるのは、面倒だ」
「……そうですね」
篠宮はなぜか少しだけ安心したような顔をした。
「……ハルトさん」
「ん」
「ハルトさんは、"戦う側"なんですね」
ハルトは眉をわずかに動かした。
「戦ってない」
「戦ってましたよ」
「殴っただけだ」
「それを戦いって言うんです」
篠宮は笑いそうになって、こらえた。
「私たちは、殴れないです」
「殴るなよ」
「はい」
篠宮は頷いて、息を吸った。
「戦うのは……別の組織がいるんです」
ハルトが初めて、“興味がないふりをしている時の目”をした。
見ていないようで、ちゃんと拾っている目。
「……別?」
「私たちは初動です。現場の確保、避難誘導、交通規制、通報、連絡。あと……終わった後の後始末」
「後始末」
「瓦礫、苦情、手続き、報告書、説明。……燃えた後の灰の処理です」
“灰”と言った瞬間、篠宮の喉が少し詰まった。
「戦う人たちは、もっと専門で。来るのが遅い時もあるし……来たら来たで、やり方が荒い」
ハルトはゴミ袋の結び方を握り直す。
「そいつらのことはどう思うんだ?」
「……分かりません。でも“灰獣を止める”ことだけを見れば、正しいです」
「お前は嫌なんだろ」
「嫌です。だから、私たちはその前に街を守るんです」
篠宮は真面目な顔で言って、次に少しだけ困ったように眉を寄せた。
「でも、昨日みたいに突然大きいのが出ると……正直、間に合わない時もある」
その一言が、ハルトの中に小さな苛立ちを起こした。
善意でも使命でもなく、もっと単純な苛立ち。
——
「……お前、飯食った?」
「え?」
「その顔、食ってない顔」
「食べてないです。時間が——」
「食え」
「今そんな——」
「食わないと、死ぬぞ」
篠宮は一瞬固まってから、ふっと笑った。
「……優しいこと言いますね」
「違う」
「じゃあ、何ですか」
「隣の奴が死んだら面倒」
篠宮は小さく頷いた。
「……それでいいです」
廊下のスピーカーが、また丁寧な声を流す。
『分別ルールを守り——』
「分別ルールも守ってますよ、私は」篠宮が言った。
「偉い」
「褒められると腹立ちますね」
「じゃあ褒めない」
ハルトは歩き出した。
篠宮も隣を歩く。
ゴミ捨て場へ向かう短い距離が、妙に“生活”だった。
ゴミを捨て、アパートの外に出る。
朝の空はきれいだった。
きれいすぎて、昨日の出来事が嘘みたいだ。
でも、灰空市は嘘を混ぜるのが上手い。
「コンビニ寄っていいですか」
「またか?」
「これはドリンクです。朝ごはんじゃない」
「面倒」
「面倒でも行きます。あと、ハルトさんの分」
ハルトは黙った。
受け取る気がない顔のまま、拒否もしない。
それがこの男の“受け入れ方”なのだと、篠宮は理解し始めていた。
アパートの角を曲がる。
そして——
篠宮は足を止めた。
「……あれ」
そこに、路地があった。
昨日まで、確かに壁だった場所。
コンクリートの継ぎ目まで覚えている。
ゴミ捨ての帰りに、いつも見ている。
なのに今、そこには自然に一本の道が口を開けている。
舗装も、電柱も、看板も、古い自販機も。
ずっと前から存在していたみたいに“馴染んでいる”。
馴染んでいることが、一番怖い。
ハルトは路地を見た。
眠そうな目が、少しだけ開く。
「……増路か」
篠宮が息を呑む。
「知ってるんですか」
「名前だけ」
「……記録にあります。『道が増える』異常」
篠宮はスマホを取り出しかけて、やめた。
記録より先に、やることがある。
「封鎖します。立入禁止。人が入ったら——」
「戻れなくなる」ハルトが言った。
「……はい」
路地の奥は暗い。
朝なのに、影が濃い。
湿った冷気が、肌に貼りつく。
篠宮の背中に、昨日とは別の種類の寒気が走った。
戦えば終わるもの、ではない。
これは、“終わり方”が分からない。
「係長に連絡を——」
篠宮がスマホを取り出した瞬間。
画面が、一瞬だけ黒くなった。
電源が落ちたわけではない。
黒い画面の向こうから、何かが覗いたような感覚。
篠宮は思わず手を引いた。
「……っ」
ハルトが一歩、路地に近づく。
その時、路地の奥で、コツ、と音がした。
足音。
誰かが歩いている。
「……誰かいます」
篠宮の声が、掠れた。
ハルトは路地の暗がりを見て、淡々と言った。
「出てこい」
返事はない。
でも、足音は止まる。
次の瞬間、路地の“暗さ”が動いた。
暗闇が、こちらへ一歩寄ったように見えた。
篠宮の呼吸が浅くなる。
走って逃げる、という選択肢が頭をよぎる。
でも足が動かない。
ハルトは、落ちていた小石を拾って路地へ放った。
コツ、と小石が地面に当たる音。
——その音が、二回鳴った。
同じ音が、少し遅れてもう一度。
まるで道が、音を“返した”みたいに。
篠宮は背筋がぞわりとした。
「面倒だな」
ハルトは小さく舌打ちした。
篠宮は絆創膏の箱を握りしめる。
こんなもの、何の役にも立たないのに。
「戻ります。係長に連絡して——」
「圏外だ」
ハルトが言った。
篠宮は画面を見る。
本当だった。電波が立っていない。
ここはアパートのすぐ横なのに。
篠宮は唾を飲み込んだ。
「……じゃあ、役所に——」
「道があるか?」
「え?」
ハルトは路地の入口を指した。
そこはさっきまで“路地”だった。
でも今、ほんの少しだけ角度が違う。
道の幅が広がったような気がする。
いや、違う。
入口が二つある。
同じ場所に、同じような入口が、並んでいる。
篠宮は喉が鳴った。
「……増えてる」
ハルトはため息を吐いた。
「走れ」
「え?」
「走って、曲がるな。真っ直ぐ」
「……分かりました」
篠宮は走り出した。
アパートへ戻る。戻れる。戻れるはず。
数歩で、篠宮は気づいた。
アパートが遠い。
距離がおかしい。
足は同じように動いているのに、建物が近づかない。
「……ハルトさん!」
振り返る。
ハルトがいる。
いるはずなのに——
その背後に、同じ路地がもう一本見えた。
路地が、折れて、増えて、重なっていく。
篠宮の目の前で、道が“選択肢”を増やす。
選ばせるために。
そして気づけば、篠宮の足元の舗装の模様が違った。
見覚えのないタイル。
見覚えのない自販機。
見覚えのない匂い。
——迷い込んだ。
篠宮の背筋が凍った。
ハルトがこちらを見る。
眠そうな目のまま、口だけが少し動いた。
「……ほらな」
篠宮は震える声で言った。
「……出られますよね?」
ハルトは答えない。
代わりに、路地の奥を見て、ぼそっと言った。
「……来る」
次の瞬間、暗闇の向こうで、複数の足音が鳴った。
コツ。コツ。コツ。
音が、増える。
道が、増える。
何かが、増える。
篠宮は息を止めた。
そして、ハルトが、薄く笑った。
「コンビニ、遠くなったな」
その軽さが、逆に怖かった。




