表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第二話 役所とカツ丼

昼だった。


 ハルトは布団の中で目を開けて、まず思った。


(……寝足りない)


 次に思った。


(……腹が減った)


 昨夜は火災報知器が鳴って、廊下に灰獣が出て、白い灰が残って——最後に“何かに見られた”。

 思い出すと、喉の奥に焦げた空気が貼りつく。


(……考えるな。飯)


 冷蔵庫は空だった。


「……コンビニだな」


 ジャージのまま外へ出る。灰空市は今日も普通の顔をしていた。

 人がいて、車が走って、犬が吠えている。


 ただ、風が時々、火事じゃない焦げ臭さを運んでくる。

 世界が燃えた匂いに似ていて、嫌になる。



 コンビニの看板が見えた瞬間——背後から声がした。


「……いました」


 振り返ると篠宮ユイ。今日は寝巻きじゃない。役所の顔だ。

 眠そうなのに目が逃げない。


「……おはようございます」

「もう昼だろ」

「徹夜なので、私の気分は朝です」


「どこ行くんですか」

「飯」

「ですよね。来てください」

「どこに」

「役所に」

「やだ」


 篠宮は一瞬だけ目を細め、それから息を整えた。


「命令じゃなくてお願いです。昨夜の件、正式に手続きが必要で」

「手続きって、俺に何させる」

「状況確認とか、説明とか」


 篠宮の言い方は丁寧だ。押しつけがましくない。

 それが余計に断りづらい。


「……飯」

「役所で食べられます」

「役所で?」

「食堂があります」

「あるんだ」


 そう言って篠宮は先に歩いた。

 掴まない。追い立てない。ただ“付いてくる前提”で進む。


 ハルトはため息を吐き、付いていった。



 灰空市役所は普通の建物だった。

 番号札、受付、書類、生活の匂い。


 エレベーターに乗り込むと、篠宮がぼそっと言う。


「昨夜は階段が安全でしたけど……今日は、たぶん大丈夫です」

「たぶんって言うな」

「……すみません」


 四階。廊下に出た瞬間、空気が乾く。

 焦げ臭さが薄く混じる。


 ハルトは足を止めた。


「……ここ、嫌な匂いする」

「え?今ですか?」

「薄いけどな」


 篠宮の表情がわずかに硬くなる。


「まだ報告は上がってないんですけど……後で確認します。まずはこちらへ」


 【異常対策課】のプレート。

 その下に小さく(後処理)と書かれている。


 胸の奥が、反射的に歪む。


 後処理。

 終末の後に残る、いちばん現実的で、いちばん嫌な仕事。


 篠宮がノックして中へ入った。


「失礼します、篠宮です」


「お、戻ったっすね。……例の人?」


 机の向こうから立ち上がったのは、眠そうな男。

 だるそうなのに目だけ鋭い。


 異常対策課係長、朝比奈。


「こちらです。……ハルトさん」

「……ども」


 朝比奈はハルトを一度眺めて、軽く笑った。


「へえ。君が昨夜のやつ片付けたって話っすか」

「知らない」

「知らないで灰獣ぶん殴れるなら才能の塊っすよ」


 篠宮がすぐ止める。


「係長、煽らないでください」

「いや、普通は逃げるっす。逃げないの、変っすよ」


 軽いのに、踏み込みすぎない。

 距離を置いたまま観察してくる。


 篠宮が資料を机に広げた。


「簡単に説明します。今後のためにも」


 地図と赤丸、その上に書かれた言葉。


【灰孔】


灰孔かいこう。灰空市のどこかに開く裂け目みたいなものです」

「見えない穴?」

「そうです。見えません。でも“影響”は出ます」


 篠宮は淡々と、でも人の温度で言う。


「最初は異臭や、音が変とか、電気が変とか。そういうレベルでした」

「嫌だな」

「嫌です、すごく」


 篠宮が苦笑する。疲れてるのに笑えるのが偉い。


「近年は“形”が出ます。灰獣。昨夜出たやつです」

「犬っぽいやつ」

「ええ。犬っぽいです。可愛くないですけど」


 朝比奈が真顔で頷いた。


「可愛くないっすね。まじで」

「同意しないでください」

「いや、同意は必要っす。現場の心が折れる」


 篠宮が資料をめくる。


「灰孔が深くなると、灰獣が増えます。形がはっきりします」

「深いと何が出る」

「もっと嫌なのが出るっす」

 軽い声で朝比奈が言った。


 篠宮が続けた。


「人型の存在が関わる可能性もあります」


 朝比奈は肩をすくめる。


「可能性っす。確定って言うと怒られるんで」

「怒られるのは係長だけです」


 そして篠宮が、本題に入った。


「今後、案件が増える可能性が高いです。ですが後処理が追いついていません」


 朝比奈が腕を組む。


「だから君に——協力してほしいっす」


 その瞬間。


 ハルトの顔が、一瞬だけ変わった。


 拒否反応。

 言葉に触れた瞬間の、反射。


「……やだ」


 短い。即答。理由は言わない。


 篠宮が慌てる。


「違うんです!無償で働けとか、そういう意味じゃなくて」

「そういう意味に聞こえる」

「聞こえません!」

「聞こえる」


 朝比奈が両手を上げる。


「いや、聞こえるっすよ、それは」

「係長!」

「現実は現実っす。言葉って刺さるっすよ、篠宮ちゃん」


 朝比奈は笑いながら、すぐ引いた。


「……まあ踏み込まないっす。嫌なもんは嫌っす」

「……助かります」


 朝比奈は空気を変えるみたいに言った。


「じゃ取引っす。食堂で飯、奢るっす。カツ丼あるっすよ」

「あるんだ」

「食うっすよね?」

「食う」

「協力は?」

「食う」


 朝比奈が吹き出した。


「最高っす。篠宮ちゃん、とりあえず連れてって。話は腹満たしてからっす」



 食堂のカツ丼は普通に美味かった。


 ハルトは無言で食う。

 篠宮は半分放心しながら食う。


 味噌汁が沁みる、と小さく言った篠宮が、少しだけ人間に戻った顔をした。


 食べ終えた頃。


 篠宮のスマホが震えた。


【朝比奈(異常対策課)】


「はい、篠宮です」

『お、今どこっす?』


 声は軽い。でも速い。


「食堂です」

『うん、じゃあそのまま動かないでほしいっす』


 篠宮の眉が上がる。


「どうしました」

『今、庁舎の外。正面のロータリーっす』


「外?」

『……出たっす。灰獣。いや、“灰獣”って言っていいのか微妙っすけど』


 篠宮の喉が鳴った。


「規模は」

『でかいっす。昨夜の比じゃないっす。たぶん“深い”やつっす』


 食堂のざわめきが遠くなった。


 ハルトは立ち上がる。


 篠宮が息を吸う。


「係長、今行きます」

『頼むっす。あと——』


 朝比奈が、いつもの軽さをギリギリ保ったまま言った。


『……街が無茶苦茶になるかもしれないっす』


 通話が切れる。


 篠宮の手が震えた。

 顔色が一気に落ちる。


「……ハルトさん」

「行くぞ」

「え?」


 篠宮の目が見開く。


 ハルトはもう食堂を出ていた。

 眠そうなまま、でも足取りは迷ってない。


 役所の正面に出た瞬間、風が変わる。

 焦げ臭さが濃い。空気が重い。


 そしてロータリーの中心に——


 いた。


 灰の塊。

 獣の形をしているのに、骨格が“建物”みたいに大きい。

 四足。だが足の数が合っていない。

 影が垂れて、地面を舐める。


 昨夜の灰獣が“犬”なら、これは——


 篠宮の背筋が凍った。


「……嘘」


 朝比奈が少し離れた位置で、乾いた笑いを漏らした。


「やだなぁ……これ、だるいやつっすね」


その瞬間、駅前方面の信号が一斉に瞬いた。

車のクラクションが重なり、遠くで誰かが叫ぶ。


そして——


“案内放送”が、街に響いた。


『ただいま灰空市全域で安全確認のため、全線運転を見合わせています』


篠宮が息を呑む。


「電車が……止まった……?」


朝比奈が肩をすくめる。


「止まったっすね。影が線路の方まで伸びてるっぽいっす」


ハルトは、その言葉で一気に顔が変わった。


眠そうだった目が、心底面倒くさそうになる。


「……最悪」


篠宮がハルトを見る。


「え……?最悪って……」


ハルトはロータリーを見て、ぼそっと言った。


「帰れない」

「……」

「寝られない」


篠宮は言葉を失った。

この状況で、そんな理由が出てくる人間を初めて見た。


でも——その“利己”が、妙に信用できた。

少なくとも、嘘じゃない。


朝比奈が苦笑する。


「動機が強いっすね」

「当然だろ」

「市民の安全とかじゃないんすね」

「知らない」


巨大な灰獣が、ゆっくりと顔を上げる。

影が地面の白線を飲んだ。


ハルトはポケットの中で、ライターを指先で確かめる。


「……さっさと終わらせる」


篠宮の背筋がまた凍る。

今の言葉は、口調の軽さに反して“重かった”。


それは「片付ける」じゃない。

もっと別の——終わらせ方を知っている者の言い方だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ