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第一話 寝たい夜に、獣が出る

ハルトは、眠い。


 眠い、という言葉が軽すぎるくらい眠い。

 今日の疲れは、ちゃんと今日のうちに終わらせたい。

 人間として正しい欲望だ。


 なのに、灰空市はいからしはたまに「終わらない夜」を寄こす。


 焦げ臭い。

 火事ではない。煙も見えない。

 ただ、空気が乾いていて、喉の奥に“終わりの匂い”が貼りつく。


「……今日は平和に寝かせろって」


 ハルトは布団の中で天井を見つめた。

 祈りというより、脅しに近い独り言だ。



 ——昔、一度だけ、世界を終わらせたことがある。


 それを自慢する気もない。

 むしろ、思い出したくない。


 終末の化身だとか、炎の巨人だとか、そういう名前で呼ばれていた。

 空が割れて、大地が燃えて、海が煮えて、全部が灰になった。

 そういう“規模の話”を覚えている。



 でも今の俺は、普通の青年。

 生活の悩みは、終末じゃなくて——この週末の疲れを取る睡眠だ。


 その証拠に、今日の夕飯はコンビニのカップ麺で、洗っていない食器がシンクに積まれている。


「……寝る。寝るぞ俺は」


 ハルトは目を閉じた。


 閉じたのに。


 ——ピッ。


 短い電子音が、部屋の外から響いた。


「……?」


 ——ピッ、ピッ、ピッ。


 規則正しい警告音。

 火災報知器だ。


「……うそだろ」


 ハルトは上体を起こした。

 焦げ臭さが強い。喉がひりつく。空気が乾燥している。


 次の瞬間、廊下で扉が開く音が連鎖した。

 誰かの焦った声が響く。


「火事!?」

「どこの部屋!?」

「煙、出てない!」


 アパートの現代的な空気が、妙に軽いパニックを生む。

 そして、その軽さの下に——重いものがいる。


 ハルトは、嫌な確信をしていた。


 この匂いは、火事じゃない。

 もっと古い。もっと嫌な種類の焦げだ。

 “終わりの手触り”が混じっている。


「……寝るために起きるなよ、俺」


 ハルトはジャージのまま玄関を開けた。


 冷たい廊下。

 非常灯がぼんやり点き、住民が数人、寝間着のまま顔を出している。


 向かいの部屋がガチャ、と開く。


 もこもこの寝巻き姿の女が出てきた。

 髪は少し乱れているのに、目だけは完全に起きている。


 篠宮ユイ。

 隣人。


 ——正確には、「隣人っぽい存在」だ。


 引っ越してきてから何度かすれ違った。

 廊下でゴミ袋を持っているところ、夜遅く帰ってくるところ、スマホを見ながら早歩きで出ていくところ。


 会釈はした。言葉は交わしていない。

 でも、なんとなく分かる。


 この女は、この街の“面倒”の側にいる。


「……こんばんは」


 篠宮が小さく言った。

 形式だけの挨拶なのに、声がちゃんと人間の温度を持っている。


「……どうも」


 ハルトも返した。

 初対面ではない。

 でも初めて喋った。


 篠宮は廊下の空気を嗅いで、眉を寄せた。


「焦げ臭いですね。火事じゃない……」

「俺もそう思う」


 篠宮は一瞬だけ目を伏せて、住民の様子を見た。

 不安そうな人たち。眠そうな子ども。

 それを見てから、少しだけ柔らかい声になる。


「……みんな、外出たほうがいいかもしれません。転ばないように」


 クールすぎない。

 冷静だけど、人に目が向いてる。


 篠宮はスマホを見た。画面に役所の連絡が光っている。


【異常対策課:現場確認】

【場所:灰空市 みどりアパート】

【報知器作動/焦げ臭】


「……ごめんなさい。私、こういうの放っておけなくて」

「役所?」

「はい。異常対策課です。……通称、後処理」


 申し訳なさそうに言うのが逆に怖い部署名だった。


 ——非常灯がひとつ、ふっと消えた。


 廊下の奥。階段の踊り場。

 あり得ない濃さの暗がりが生まれる。


 住民が誰かの名前を呼ぶ。

 「大丈夫?」という声。

 「警察呼んだ?」という声。



 その中で暗がりが、ゆっくり“形”を持つ。


 それは、犬に似た輪郭。

 でも毛がない。目がない。

 影の塊なのに、床に影を落とさない。


 ——灰獣かいじゅう


 誰かが悲鳴を上げた。


 次の瞬間、灰獣が動いた。


 速い。

 というより、距離が消える。


 廊下の端から、いきなり目の前まで“いる”。

 影の口みたいなものが開き、住民の足元へ噛みつこうとする。


「ひっ!」

「やばい!なにこれ!」

「助けて!」


 篠宮が声を張った。


「みんな下がって!エレベーター使わないで、階段で避難!」

 そしてすぐ、震える女性に向かって言い添える。

「大丈夫、手、貸します」


 その手を取って、後ろへ押しやる。


 篠宮は現場慣れしていた。

 そして、現場の人間みたいに優しい。

 だが事態は急を争う。


 阿鼻叫喚の現場の中、ハルトは舌打ちした。


「……寝たいんだけど」


 誰も聞いていない。

 聞く余裕もない。


 ハルトはポケットに手を入れた。

 出てくるのは、安物のライター。


 煙草は吸わない。

 火を起こす用でもない。


 ただ、これだけは持っている。


 ……終わらせるために。



 カチ。


 火が点いた。


 ——その瞬間。火が伸びた。


 刃みたいに、真っ直ぐに。

 揺れない。音がしない。

 赤くない。白っぽい。

 熱というより、空気が乾いていく。


 篠宮が息を呑む。


「……それ……普通の火じゃない」


「普通の火で終わるなら楽なんだけどな」


 灰獣がハルトを見た。

 目がないのに、視線だけが刺さる。


 次の瞬間、灰獣が跳んだ。


 ハルトは一歩踏み込み、拳を“置いた”。


 ドン——!


 殴ったというより、現実を押し込んだ衝撃。

 灰獣の輪郭がぐにゃりと歪み、廊下の壁にぶつかった。


 黒い粒が散る。

 焦げ臭さが爆発する。


 住民の声が揺れる。

 恐怖の揺れが、理解不能へ変わる。


 灰獣は呻かない。

 でも効いている気配はある。


 灰獣が体勢を立て直し、床を這って影を伸ばす。

 ハルトの足首へ絡む。冷たい。


「……やめろ」


 ハルトは白い火を床へ滑らせた。

 床は燃えない。焦げもしない。

 ただ、影の輪郭をなぞった部分だけが抜け落ちる。

 

 存在が欠ける。


 灰獣が後退した。

 影が薄くなる。


 ハルトは分かった。完全には消えない。

 “引く”だけだ。穴が近い。


「……篠宮、だったか?」

 ハルトが言った。

「人、外出せ」


 名前を呼んだのは、前にポストに貼ってあった表札を覚えていたからだ。

 篠宮は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐ頷く。


「はい!みんな、外に!寒いけど我慢して!」


 住民が階段へ流れる。

 泣く子どもを抱えた母親に、篠宮が声をかける。


「大丈夫。外で待ってて。必ず落ち着かせるから」


 その言葉は、仕事じゃなくて人の言葉だった。


 廊下に残ったのは、ハルトと篠宮と、灰獣だけ。


 灰獣が再び距離を消して近づく。


 ハルトは火を消した。

 カチ。


 白い刃火が消えると、空気が少し重くなる。

 灰獣は止まらない。


 ハルトは拳で迎えた。


 ドン。

 ドン。

 ドン。


 三発。

 音が少ない。動きも少ない。

 でも灰獣の形が歪む。


 最後に、ハルトはライターを再点火した。


 白い刃火。

 今度は灰獣の“中心”へ当てた。


 燃えない。

 焼けない。

 ただ、終わらせる。


 灰獣の輪郭がスッと薄くなり、床に落ちるみたいに崩れた。


 残ったのは、白い灰だけ。


 篠宮が小さく息を吐いた。


「……終わった?」

「終わってない」


 ハルトは即答した。眠そうな声なのに断定が重い。


「こういうのは、また来る」


 篠宮は頷いた。


「最近、増えてます。灰孔が深くなってる」

「灰孔って、要は穴だろ」

「見えない裂け目です。街に開く、変な穴」


 篠宮は白い灰を見て、少しだけ眉を下げた。


「……ごめんなさい。巻き込んじゃった」

「どうでもいい」

「ですよね。でも、助かりました」



 ハルトはライターをポケットにしまった。

 眠気がどっと戻ってくる。

 能力を使うと眠くなる。最悪だ。


「……寝たい」

「寝れませんよ」


 篠宮は苦笑に近い顔をした。

 クールじゃなく、ちゃんと人間だった。


「救急と警察が来ます。説明が必要です」

「めんどくさい」

「ごめんなさい。ほんとに」


 ハルトはふっと鼻で笑った。


「似てるな」


「え?」


「前も一回、世界終わらせたんだけどさ……正直、後処理が大変で」



 篠宮が目を瞬いた。

 冗談かどうか測りかねている顔。


「……それ、どういう冗談ですか?」

「寝れなくなったついで」

「……はい?」


 ピンと来てない。

 “この街の変人がまた変なこと言ってる”くらいの受け取り方だ。



 ——そのとき。


 廊下の奥、非常階段の踊り場。


 そこに“気配”が立った。


 灰獣とは違う。

 獣の気配じゃない。

 もっと静かで、もっと人間に近くて、もっと——嫌なもの。


 篠宮が気づいて振り返る。


 さっきまで住民に声をかけていた表情が、一瞬で変わった。

 優しさが消えたのではない。

 優しさの裏にある“恐怖”が剥き出しになった。


「……っ」


 息が詰まる音がした。


 篠宮は、ハルトの腕を掴んだ。

 無意識に。

 冷たい指が、ジャージ越しに震えている。


「……ハルトさん」

「なに」


 篠宮は言葉にならないまま、もう一度踊り場を見つめた。


 そこにいるのは——人型の何か。


 暗がりに溶けているのに、立っていると分かる。

 輪郭が“人間の立ち方”をしている。


 こちらを見ている。


 見ているだけで、空気が死ぬ。


 灰獣のときはまだ、騒音だった。

 これは違う。


 音が消えるタイプの恐怖だ。


 ハルトは振り向かない。

 見なくても分かる。


 あれは“昔を知っている側”だ。



 ハルトは眠そうな声のまま言った。


「……久しぶり」


 返事はない。


 でも、笑った気配がした。


 そして、


 ——まだその火を持ってるのか。


 なにかは脳に直接響いてくるような声でそう言い、

 忽然と消え失せた。

 


 篠宮の指が、もう一度ハルトを掴む。



「……あれ……何ですか」

「面倒なやつ」


 ハルトの答えは雑だった。


 サイレンが近づいてくる。

 赤色灯が窓ガラスに反射する。


 

 篠宮は声を絞り出した。


「……明日、役所に来てください」

「やだ」

「……お願いです」


 “命令”じゃなかった。

 心からのお願いだった。


 ハルトは、ため息を吐いた。


「最悪」

「……同意です」



 眠りたいだけの男は、眠れない夜を片付けてしまった。


 灰空市の後処理は、終わらない。

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