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第8話 過去と今が重なって“レティシア”になる



 今日はグランツと二人で、街の外れの丘へ来ている。

 マーサは足が悪くて長い距離は歩けないらしく、「二人で楽しんで来てください」と笑って送り出してくれた。


 勉強は――ここ数日、していない。

 本当は少し不安になる。でも、グランツが何も言わないので、たぶんいいのだと思う。


 初夏の風が頬をくすぐり、空はどこまでも澄みきっている。

 丘の上の大きな木の下、広げられたシートの上に腰を下ろすと、手作りのお弁当の香りがふわりと漂った。

 彩りも綺麗で、どこかあたたかさを感じる。少ししか食べられないけれど――美味しい。そう思えた。


 「ふふ、ほっぺた、ソースついてる」

 そう言ってグランツが笑いながら、レティシアの頬をそっと拭った。

 その指先が自分の唇に触れたあと、グランツは何の気なしに、それを自分の口へ持っていった。


 ――その瞬間。


 胸の奥で、何かがばちん、と音を立てて弾けた。

 視界がぐにゃりと歪み、喉の奥に冷たいものが這い上がる。

 耳の奥で、誰かの声が囁いた。

 “舐めろ”。


 あの、笑いながら命じる声。

 指先の感触、嫌悪の混ざった吐息。

 冷たい指が、肌の上を這っていく。逃げたくても逃げられない。

 その記憶が、一瞬で現在に重なった。


 ――やめて。

 心の中で叫んでも、身体が凍りついたように動かない。

 空気が薄い。喉が閉まる。胃の底がひっくり返るような吐き気。

 けれど、今目の前にいるのは、あの人たちではない。


 震える視線を上げると、グランツの笑顔が見えた。

 そこには、欲も、命令も、支配もなかった。

 ただ、いつもの――あたたかい瞳。


 ……ああ、そうか。

 これが“普通”なんだ。

 これが、“家族”の触れ方。


 そう理解した瞬間、押し寄せる吐き気と涙をぐっと飲み込んだ。

 背中の奥がぞわりと震える。

 頭では違うとわかっているのに、身体が反応してしまう。

 自分でも、どうしようもないほど。


 こみ上げる気持ち悪さを、唇の端で押さえつけるように笑った。

 ――グランツが喜んでくれるように。

 そうすれば、この優しい時間は壊れない。

 壊れたら、自分の居場所がなくなる。


 けれど、胸の奥でざらつく音がやまない。

 自分の笑顔が、薄い膜のように張り付いているだけだと、どこかでわかっていた。

 “ちゃんと笑えているだろうか”。

 その不安が、心の底からじわりと滲み出してくる。


 その瞬間、どうしてか、無性に誰かにすがりたくなった。

 怖かった。ひとりになるのが。

 レティシアは衝動のように、グランツの胸に飛び込んだ。


 驚いたようにグランツの身体がびくんと跳ねる。

 けれど、すぐに彼の手が頭に添えられた。

 その掌のぬくもりが、凍りついていた心をじんわりと溶かしていく。

 それでも、胸の奥のざらつきは完全には消えなかった。

 ……それでも、レティシアは笑おうとした。

 そうしなければ、また何かが壊れてしまいそうで――。


 「……レティシア?」

 驚いたように声が揺れる。

 けれど次の瞬間、グランツの大きな手がそっとレティシアの頭を撫でた。


 その掌の温かさは、春の陽だまりのようだった。

 優しく、けれど確かに、心の表面をほぐしていく。

 その瞬間、胸の奥で固く刺さっていた小さな針が、一本ずつ静かに抜けていくようだった。

 今まで刺さったまま固まっていた痛みが、少しずつ溶けていく。


 グランツの指が髪をすくい、耳の後ろをそっと撫でた。

 そこは、かつて誰かに掴まれて痛かった場所。

 けれど今は、痛みではなく、やわらかな安堵だけが広がっていく。

 ――ああ、怖くない。

 身体が、初めてそう感じていた。


 レティシアは、薄く微笑んだ。

 これでいい。この関係を壊してはいけない。

 もしグランツに捨てられたら、もうレティシアの人生は終わる。

 少し顔が整っているだけの、自分に価値などない。

 それをレティシア自身が、一番よく知っていた。


 それでも今は――。


 暴力も、毒も、命令もない世界の中で、静かに息をしている。

 風が木々を撫で、遠くで鳥が鳴く。

 こんな穏やかな時間が、世界に本当に存在したなんて、ずっと知らなかった。

 グランツは、なにも持たないレティシアに、惜しみなく優しさをくれる人。

 その優しさは、痛みを問わず、代償を求めず、ただそこに在るだけのものだった。


 掌が頭を撫でるたび、レティシアの胸の奥がじんと温かくなっていく。

 それは火のように熱くはない。

 けれど、凍えた指先を包み込むようなぬくもりだった。

 心の中に積もっていた雪が、ゆっくりと溶けて雫になっていく。


 ――生きていても、いいのかもしれない。


 そんな言葉が、ふと心の底に浮かんだ。

 それを口にしたら消えてしまいそうで、唇を結ぶ。

 代わりに、胸の中にそっとその思いを仕舞い込んだ。


 風が吹いて、木の葉がやわらかく揺れた。

 陽の光が木漏れ日になって、レティシアの頬を照らす。

 その温かさは、まるで“世界が触れてくれている”ようだった。


 レティシアは小さく息をついた。

 ――あたたかい。

 その言葉が心の奥から滲み出たとき、初めて生きているという感覚がした。

 痛みではなく、優しさに包まれた、生の実感。


 それがどれほど脆くても、どれほど儚くても、

 レティシアは今、確かにこの世界で息をしている。





いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




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