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第6話 当たり前に守られる幸福の代償



 目を覚ますと、柔らかな陽がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 淡い金の光が、毛布の上で静かに揺れている。


 ベッドの傍らには、マーサがいた。

 皺を刻んだ頬が、朝の光を受けてほのかに透けるように明るい。

 その笑みは――まるで長い冬のあとに、窓辺でそっと咲いた小さな陽だまりのようだった。

 見た瞬間、胸の奥にあたたかい何かが灯った気がして、レティシアは思わず息を呑んだ。


 慌てて上体を起こし、かすれた声で言う。

 「昨日は……ごめんなさい。せっかくお風呂を……」

 謝罪の言葉を口にした瞬間、肩が強ばった。

 怒られる、という予感が、条件反射のように全身を走る。


 けれど、マーサは怒らなかった。

 ほんの一瞬だけ目を見開き、それから、春の風のようにやわらかく笑った。

 「謝ることなんてありませんよ。お嬢様のお身体が健やかであること――それが、いちばん大事なんです」


 その声が、驚くほど静かに、胸の奥へ染み込んでいった。

 レティシアは呆然とマーサを見つめた。

 心のどこかが、ゆっくりとほどけていく。

 怒鳴り声も、冷たい視線も、恐怖に慣れきった身体が、ようやく別の“音”を聴いた。

 優しさという音色を。


 マーサが差し出したティーカップから、湯気がゆらゆらと立ちのぼる。

 金色の液面に陽光が反射して、まるで朝露の宝石のようにきらめいた。

 そっと唇をつける。

 喉の奥を、甘くてやさしい温度がすべっていく。

 その瞬間、胸の奥がぎゅうっと詰まって、視界が滲んだ。


 「……おいしい」

 言葉と一緒に、涙がひとつ、こぼれ落ちた。


 マーサが静かに手を伸ばし、レティシアの髪を撫でた。

 その掌は驚くほどあたたかく、撫でられるたびに、冷え切った心が解けていく。

 ――ああ、こんな触れ方もあるんだ。

 痛くなくて、怖くなくて、ただ、やさしい。


 胸の奥で、ぽつりと何かが弾けた。

 涙があとからあとから溢れて、レティシアは堰を切ったように泣いた。

 マーサは何も言わず、ただそばで見守ってくれていた。


 暖炉の火がぱち、と鳴る。

 紅茶の香りと陽の光、優しい手のぬくもり――

 それらがゆっくりと混ざり合って、レティシアの世界に“安らぎ”という名の色を初めて描いた。


 ――わたしは、生きていていいのだろうか。

 そう思った。

 そして初めて、“そうであってほしい”と心から願った。





 食堂に入ると、甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。

 朝の光が大きな窓から差し込み、白いテーブルクロスの上にやわらかく反射している。


 その光の中で、グランツが立っていた。

 黒い髪が金の光を縁取って、静かに輝いている。

 いつもより少しラフなシャツの袖をまくり、エプロンの紐を結んだ姿は――まるで“伯爵家の御曹司”ではなく、“ひとりの青年”そのものだった。


 「おはよう、レティシア」

 穏やかな声。

 振り向いたグランツの笑みには、いつもより柔らかい空気があった。

 「今日は、フレンチトーストだ。蜂蜜は少し控えめにした。レティシアの喉がまだ本調子じゃないからな」


 皿の上には、小ぶりなパンがいくつも並んでいる。

 こんがりと焼けた表面から、ほのかに甘い香りが立ちのぼる。

 ナイフを入れると、ふわりと湯気が立ち、まるで朝の空気まで温まるようだった。


 「……ありがとう、ございます」

 レティシアが小さく頭を下げると、グランツは軽く手を振った。

 「礼なんて要らないさ。朝はちゃんと食べて、体を温めるのが大事だ」

 そう言いながら、彼はそっと椅子を引いてくれた。

 その一連の仕草に、思いやりの影が溶け込んでいる。

 まるで、当たり前のように守られている――そんな感覚が胸の奥に広がった。


 朝食のあいだ、グランツは学院の話をしてくれた。

 「学院はね、幼等部から大学院まで、ひとつの敷地にある。森の中の町みたいなんだ。小さい子どもたちは花壇で絵を描き、上の学年になると研究棟で魔導式の理論を学ぶ。学ぶことが生活そのものになっていく、そんな場所だ」


 話を聞くうちに、レティシアの胸の奥で、知らない世界が静かに広がっていく。

 それは遠い夢のようでもあり、どこか怖くもあった。


 「……私にも、できるでしょうか」

 思わずこぼれた声は、囁きのように小さかった。

 スプーンを置いたグランツが、ゆっくりとこちらを見た。

 その瞳は、驚くほど優しかった。

 「できるさ。二年あれば、充分だ」

 彼の言葉は、励ましというより“信頼”の音をしていた。


 レティシアが何かを言おうとした時、彼は微笑んで続けた。

 「勉強は、誰かに追われてするものじゃない。世界を知るための扉なんだ。

 お前に外の世界を見てほしい。……この家の外にも、きっと、お前を温かく迎える光がある」


 レティシアは、言葉を失った。

 その声には、期待よりも、祈りに似た響きがあったから。

 彼が自分の“未来”を信じてくれている――そのことが、胸を熱くした。


 窓の外では、小鳥が鳴いていた。

 陽だまりのような声と、甘いパンの香り。

 それは、レティシアが初めて「幸福」という名を知った朝だった。





 昼下がり、陽だまりの差す書斎に、鉛筆の音が静かに響いていた。

 窓辺のカーテンがそよぎ、甘い紅茶の香りが部屋を満たしている。


 数字の並んだ紙を見つめながら、レティシアはそっと息を吐いた。

 思ったよりも、手が動く。

 ――昔、あの屋敷で、お客のひとりが読み書きを教えてくれたことがあった。

 優しくもなかったけれど、それでも、その時間だけは少しだけ“人間らしい”気がして。

 けれど、そんな記憶を思い出すたびに、胸の奥がきゅっと痛む。


 「根が素直だからだろうな」

 不意に、グランツの低い声が降ってきた。

 視線を上げると、彼が優しく笑っていた。

 「知ろうとする気持ちは、それだけで宝だ。レティシア、お前はよくやっている」


 その言葉に、胸の奥がじんと温かくなった。

 頬に落ちた大きな手が、そっと髪を撫でる。

 重ねられた掌のぬくもりが、冬の毛布のように心の冷たさを溶かしていく。


 ――もっと頑張りたい。もっと、この人に褒められたい。

 その思いが、小さく息をして膨らんだ。


 勉強を終えたあと、レティシアはもらった教本を膝に広げた。

 ページの端には、かつてのグランツの落書きがたくさん残っている。

 ちいさな剣、変な顔、歪んだ字。

 「こんな子どもだったんだ……」

 思わず笑みがこぼれた。





 夜更け。

 ページをめくる指が止まる。

 頭が、ずきん、と痛んだ。

 最初は気のせいだと思った。けれど、痛みはすぐに波のように押し寄せてきた。

 「……大丈夫、これくらい」

 声に出しても、誰もいない部屋の中で音は吸い込まれていく。

 目を閉じ、眠りに落ちた。





 翌朝、マーサに肩を揺すられ、まどろみの底から浮かび上がった。

 「お嬢様……顔色が、悪いですわ。本日はお休みになられたほうが……」

 その声の端に、微かな緊張が混じっていた。

 レティシアは笑ってみせる。

 「大丈夫です。少し、今日が楽しみすぎて」

 唇は笑ったのに、頭の奥では脈が鈍く響いている。


 いつもの紅茶を頼んだ。

 カップの縁から立ちのぼる香りが、かすかに胸を撫でる。

 飲み込むたびに、張りつめた心がほんの少しだけやわらぐ。


 「今日は僕が一日中ついている」

 グランツの声は、穏やかな朝の光のようだった。

 「昨日は小等部の範囲だったから、今日は中等部に挑戦してみよう」

 「はい」

 頭を撫でる手のぬくもり。

 その瞬間だけは、痛みが遠のいた気がした。


 けれど――。


 二時間後、ノートの上の文字がかすみはじめた。

 数字が水の底で揺らめくみたいに、形を保てない。

 考えようとしても、思考の糸がほどけていく。

 焦りが喉を締めつける。心臓がうるさい。

 呼吸が浅くなり、鉛筆を持つ指先に汗が滲んだ。


 ――どうして、できないの。

 ――昨日は、できたのに。


 胸の奥がざらざらと逆撫でされる。

 「レティシア、大丈夫か」

 優しい声がする。

 けれど、それは遠くで鳴る鐘の音のようにしか届かなかった。


 “できない”――その言葉が、過去の闇を引きずり出す。

 机を叩く音。叱責。冷たい床。

 ――また、失望される。

 ――また、怒られる。


 息が乱れる。視界が歪む。

 「わ、わたし……」

 声が出ない。喉がつまる。

 涙が溢れて止まらなかった。


 鉛筆が転がる音が、妙に鮮明に響く。

 世界の輪郭がゆっくりと溶けていく。


 ――あぁ、やっぱりわたしなんて。


 そう思った瞬間、光の粒が散るように、意識が静かに崩れていった。





いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




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