第5話 苦しい今と未来のこと
扉を開けた瞬間、胸の奥がざわめいた。
湯気の向こうで、レティシアが崩れ落ちていた。
肌は青ざめ、唇が震えている。肩が小刻みに上下し、喉の奥で途切れ途切れに息をしていた。
「レティシア!」
駆け寄る。
その細い体を抱き起こした瞬間、ガタガタと震える腕が服を掴んだ。
「やめて……いや、っ……ぐるじ、っ……う゛っ」
うわ言のように繰り返し、目は焦点を結んでいない。
過呼吸――。学院で習った症状が、脳裏によぎる。
「レティシア、聞こえるか?」
できるだけ穏やかに、声を落とす。
怯えた動物をあやすように、レティシアの顔の前に自分の顔を寄せ、視線を合わせた。
恐怖を打ち消すには、恐怖よりも強い安心がいる。
グランツは微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫だよ。吸って……そう、吐いて。そうそう、上手だ」
抱きしめながら、背中を優しくぽんぽんと叩く。
乱れた呼吸のリズムを、自分の呼吸に合わせるように導く。
何度も何度も、息を合わせた。
やがて、荒れていた呼吸が少しずつ整い、体の震えも弱まっていく。
レティシアの睫毛がわずかに揺れ、かすれた声が漏れた。
「……ごめんなさい……また、こわくて……」
「謝らなくていい」
グランツは首を横に振り、彼女の額にかかる髪をそっと払った。
「怖かったな。でも、もう大丈夫だ。ここに怖いものはない」
涙で濡れた頬を、湯気が優しく包む。
彼女はようやく、浅い呼吸を整えながら、グランツの胸に顔を埋めた。
その小さな背を、ぽんぽんと叩きながら、グランツは心の奥でそっと息を吐く。
――この子は、本当に戦っている。
過去という名の怪物と、いまもなお。
しばらくして、マーサが駆けつけ、レティシアを丁寧に寝室へ運んでいった。
湯気がまだ宙を漂い、浴室の石畳には、レティシアの足跡が淡く残っていた。
その小さな形を見つめたまま、グランツは拳を強く握った。
――また、あの顔をさせてしまった。
震える肩、途切れる声、喉を押さえながらうめく姿。
頭の奥で、その映像が何度も反芻される。
自分の腕の中にいたというのに、あの子はひどく遠かった。
まるで、誰にも届かない深い場所に閉じ込められているようで――。
胸の奥が焼けるように痛んだ。
「この家の中だけは、二度と誰にもレティシアを傷つけさせない」
声に出すと、それは誓いのように響いた。
けれど、誓いだけで守れるほど、この世界は優しくない。
人の悪意は、言葉にならないまま忍び寄る。
――だから、自分が立たなければ。
グランツは目を閉じ、静かに息を吐いた。
やがて、マーサが報告に来た。
「お嬢様は落ち着かれました。少しお休みになれば大丈夫でしょう」
その声に、ようやく張り詰めていた胸の糸がわずかに緩む。
マーサの目元には、涙の跡があった。
「……お嬢様の過去を思うと、胸が締めつけられます。
どうかご安心ください。レティシアお嬢様のお世話は、わたくしにお任せください。
信頼を得られるよう、努力いたします」
グランツはうなずき、短く息を吸った。
「ありがとう、マーサ。本当に助かる。君がいてくれて良かった」
マーサが静かに去ると、書斎に一人きりの静寂が戻る。
蝋燭の火がかすかに揺れ、机の上で長い影を作っていた。
窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと薄れ、遠くでカラスが鳴いている。
――学院のことを考えなければ。
ペンを取りかけて、手が止まる。
インク壺の黒が、夜の底のように見えた。
13歳になった貴族の子息・令嬢は、皆、国立の学院へ通う。
だが、レティシアはその道を踏み外されてしまった。
教育を受けるどころか、彼女は金儲けの「モノ」として扱われていた。
それでも、彼女の瞳には、僅かな光が残っている。
守られてばかりではいけない。
その光を、未来へ繋いでいかなければならない。
レティシアは虐待を受けていた上、身体も未発達だ。
国に申請して、今年度から行くはずだった中等部からではなく、高等部に編入することになっている。
「二年あれば……」
口の中で呟いて、すぐにやめた。
本当は、時間がいくらあっても足りない気がした。
あの子を失うことが、今、何よりも怖い。
グランツ自身が通学していた頃、いじめという行為があった。
あの細い肩が、また誰かの手で押さえつけられるかもしれない――
そう思うだけで、全身の血が凍る。
「……絶対に守る」
小さな声で誓い直した。
それは、誰に聞かせるでもない声だった。
グランツは立ち上がり、書棚から古びた教本を取り出した。
革表紙は日焼けて、端がほつれている。
けれどその中には、幼い頃の記憶――母の笑い声、暖炉の匂い、学ぶことの楽しさ――が詰まっていた。
それをレティシアに伝えたいと思った。
学ぶということは、支配ではなく、自由を手に入れることなのだと。
「まずはここからだ」
机に本を開くと、ページの間から古い紙の香りがふわりと立ち上った。
インクを吸い込む羽根ペンの音が、静かな部屋に小さく響く。
――あの子が、もう一度笑える日が来るまで。
グランツは灯りを少し明るくし、椅子に腰を下ろした。
まるで、これから始まる長い冬を前に、静かに薪を積み上げるように。
その夜、彼は遅くまで机に向かい続けた。
新しい明日のために。
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