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第4話 燻る水の苦い記憶



 今日は、初めてお風呂に入る日だという。

 グランツがそう言ったとき、わたしは少し首を傾げた。


 「どうして、わたしは週に一度なのに、グランツは二日に一度入るんですか」


 問いかけると、グランツは少し困ったように笑い、

 「年齢を重ねると、一日に蓄積する汚れの量が増えるんだ」と言った。

 それから、ほんの一瞬だけ言葉を探すように目を伏せ、

 「それに、レティシアは体力がまだ少ないだろう? だから、最初は週に一度から慣れていけばいい」と続けた。


 優しい声だった。けれど、その奥にほんのかすかな逡巡が混ざっていた。

 疲れさせてはいけない、怖がらせたくない――そんな思いが透けて見えた。


 けれど次の瞬間、グランツの表情はぱっと明るくなった。

 「でもね、今日は特別なんだ。俺が赤ん坊のころお世話になった乳母のマーサを呼んである。

 とても優しい人で、君の侍女になってくれる。入浴の手伝いもしてくれるよ。

 もし気に入ったら、体力をつけて、少しずつ毎日入れるようにしよう」


 “お風呂”――その言葉を、わたしはまだうまく理解できていなかった。前まで身体を清めるという行為は、ボロ布と少量の水で行っていたから。

 けれど、グランツがあんなに嬉しそうに話すのだから、きっと良いものなのだと思った。


 脱衣所に案内されると、そこには一人の年配の女性が待っていた。

 灰を含んだ髪をひとつに束ね、瞳の奥に柔らかな光を宿している。

 その立ち姿には、不思議な安心感があった。

 彼女――マーサは、ゆっくりと微笑んでわたしに会釈した。


 「お待ちしておりました、お嬢様」


 声の調子は、木漏れ日のように穏やかで、空気を柔らかくする。

 手を差し出され、その温かさに触れた瞬間、緊張していた心が少しだけほどけた。


 けれど、服に手をかけられたとき、体が勝手に強張った。

 脱がされる――その言葉の響きだけで、

 古い記憶の残滓が脳裏をかすめた。

 鋭い爪の感触、冷たい笑い声、肌をなぞる視線。

 そのすべてが、今も皮膚の裏側に残っている。


 「……み、見苦しいものを……見せてしまって、ごめんなさい」


 震える声でそう言うと、マーサは一瞬だけ目を伏せ、すぐに穏やかに微笑んだ。


 「まあ……そんなことを気になさる必要はありませんよ、お嬢様。

 傷がしみたら痛いでしょう? 今日はお湯に慣れるところから、ゆっくりまいりましょうね」


 その言葉は、春先の風のように静かで、どこまでも優しかった。

 わたしの背中を包み込む手が、まるで壊れ物を扱うように慎重で、

 それがかえって、涙が出そうになるほど温かかった。


 ――ああ、この人は、怒らない。

 誰かの顔色を窺わなくても、叱られない。

 その当たり前のことが、信じられないほど嬉しかった。


 マーサの手に導かれて、浴室の扉を開く。

 その瞬間、白い湯気がふわりと頬を撫でた。

 淡い石鹸の香りが空気に溶け、光が湯気の粒を透かしてきらめく。

 それはまるで、別の世界の空気だった。

 ここには痛みも、罰も、命令もない――そう思うだけで、

 胸の奥が、静かにほどけていった。


 わたしはマーサの手に導かれ、浴室の扉を開けた。

 その瞬間、白い湯気がふわりと頬を撫でた。

 あたたかいはずなのに、胸の奥が冷たくなる。


 広い。

 天井は高く、青磁色のタイルが灯りを反射して微かに光る。

 部屋の中央には、丸い大理石の浴槽。

 獅子の彫刻の口から水が流れ落ち、柔らかい音を立てていた。

 その音は最初、優しく、まるで心臓の鼓動のように感じられた。


 ――きれい。


 そう思った一瞬のあと、胸の内側がざわめいた。

 獅子の口から落ちる水音が、次第に遠ざかる。

 代わりに、もっと冷たい音がよみがえる。


 ざぶん、と。


 桶の水が、頭の上から降ってくる。

 冬の空気が肌を刺す。

 指が髪をつかむ。爪が皮膚に食い込む。

 「お行儀の悪い子ね」――氷みたいな声。

 その声が響いた次の瞬間、頭が水の中に押し込まれる。

 耳の奥で、世界がひしゃげる。

 喉の奥が焼けつき、息が逃げ場を失う。

 あぁ、まただ。

 また、ここに閉じ込められる。


 ――やめて。やめてください。もう、いやです。


 声が出ない。

 唇が震えるのに、空気が肺に入らない。

 目の前の湯気が白く膨らみ、床がぐにゃりと歪む。

 頭の奥で、血の音がごうごうと鳴りはじめる。

 どこかで、誰かがわたしの名を呼んだ気がした。


 「お嬢様っ……!」


 マーサの声。

 背中に触れる掌が、信じられないほど温かい。

 けれど、それすら遠くに感じる。

 胸が痛い。息が吸えない。

 わたしは膝をつき、床の冷たさにすがるように手を伸ばした。

 どこかで、ベルの音が鳴る。

 乾いた音が、空気を切り裂く。

 その合図が誰かを呼ぶ――それだけは、わかる。


 けれど、世界はすでに霞んでいた。

 湯気が白い霧のように広がり、視界を覆う。

 わたしの呼吸が、そこに溶けていく。


 ――その霧の向こうで、誰かが扉を開けた。


 風が巻き込み、音が弾ける。

 グランツの声が聞こえた気がした。

 遠く、けれど確かに。

 わたしの名を、何度も、必死に呼んでいた

 けれど、それを確かめる前に、

 わたしの意識は、静かに途切れた。






いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




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