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第31話 兄さまが奪われるのであれば

 




 グランツ兄さまが帰ってきた。

 王城の長い廊下を歩くたび、磨かれた大理石が小さく靴音を返し、その響きが胸の鼓動をさらに速くしていくのが自分でもわかった。


 兄さまは表立った戦に派遣されたわけではない。だから国中が沸き立つような凱旋パレードもない。

 けれど――陛下の御前で、帝国で起きたこと、見てきたこと、そして持ち帰った知識の全てを語るのだという。

 それは、わたしにとっては誇らしくて、そして震えるほど緊張する出来事だった。


 控室で、マーサにドレスの紐を締めてもらう。

 ぎゅっと締まるたびに、胸の奥のざわめきが形になっていくようだった。


 ――今日のドレスは、溶けた春のような澄んだ青が足元へ向かってゆっくり群青へ沈む、静かな湖そのものの色。

 柔らかい布が一歩ごとに揺れ、水面に光が反射するみたいに淡くきらめく。そのたびに、張り詰めた心が少しだけ落ち着いていく。


 やがて謁見の間の扉が見えてくる。

 その先には天井を誇示するように伸びる白い柱。壁には歴代の王の肖像画が静かに並び、色彩よりも“重さ”で語りかけてくる。

 この国の歴史、責務、視線――そのすべてが、今日の場が特別だと告げていた。


 ふと視線を感じると、マリアージュがいた。

 柔らかく微笑んで、わたしに気づくと軽く手を振り、こちらに来るようにと前方を示す。


「いいのですか? 子爵家のわたしなどが……」


 足がすくむような思いでそう問うと、マリアージュは小鳥の羽ばたきみたいに涼やかに笑った。


「ブナッティー家は聖人グランツ様に大変よくしていただいておりますの。それに……わたくしたち、友達でしょう?」


「マリアージュさま……」


 胸に、ふっと灯りがともるように温かさが広がる。

 彼女はすでに婚約して入婿を迎え、新しい生活を始めている。それでも変わらずこうして手を伸ばしてくれる――それが、たまらなく嬉しかった。


 そのときだ。

 重たい扉が静かに開く音が、空気を揺らした。


 グランツ兄さまが入ってきた。


 いつもより少し痩せたように見える。

 けれど背筋はまっすぐで、黒の治癒士の正装は光の角度で群青めいて見え、王城の荘厳な空気と溶け合って彼を“聖人”に仕立て上げていた。


 兄さまが、こちらを見る。

 わたしは胸の奥の高揚をどうにか押し込めて、控えめに手を振った。


 ――ほんの一瞬。

 兄さまは、わたしだけに向けるあの優しい笑顔を浮かべてくれた。


 けれど次の瞬間、きりりと表情を引き締め、王の前へと歩み出る。


「グランツ・ワイズ、ただいまニーア帝国より帰還いたしました」


 低く、落ち着いた声が謁見の間を満たす。

 広い空間全体が、兄さまの言葉を吸い込み、噛みしめるかのように静まり返る。

 誇りと緊張が空気に満ち、わたしは無意識に息を整えた。


 謁見は粛々と進む。

 帝国の気候、兵の練度、治癒魔法に関する新たな知識――。

 兄さまが話すたび、貴族たちは目を見開き、感心したように何度もうなずいていた。


 わたしもその一つひとつを心の奥に刻みつけようとする。

 今日の兄さまの姿を、言葉を、全部、覚えていたかった。


 ――だが。


「最後にだが、帝国を短期で勝利に導いた英雄──聖人グランツよ。お前には王命にて、婚約を言い渡す」


 ……は?


 世界が、刹那で凍りついた。


 耳の奥が高く鳴り、その音にほかのすべてが押しつぶされていく。

 手足の感覚が薄れ、視界の端が白く滲んだ。


 貴族たちは「おぉ」とざわめいた。

 だがその声は、水の底から聞くみたいに遠かった。


 パトリシアが俯き、頬を染め、恥じらいに揺れる指先を胸元で結んでいる。


 兄さまは……どんな表情を?


 せめて顔が見えればいいのに。

 わたしたちには、後ろ姿しか見えないのがもどかしい。


(な、んで……?)


 胸の奥で、何かが鈍く痛んだ。


 なぜ。


 わたしの兄さまなのに。

 わたしが――兄さまの隣に立つためにどれだけ努力してきたと思っているの。


 ずっと一緒にいるって、信じていたのに。


 ――ぽっと出の王女なんかに。


「……婚約を、お受けいたします」


 兄さまのその言葉が落ちた瞬間、肺から空気が全部こぼれ落ちた。


(なんで……? 私のことは……?)


 パトリシアの方が好きなの?


 わたしより――ずっと?


 胸の奥の何かが黒く渦を巻き、煮えたぎっていく。


 久しぶりに思い出した。


 この世界には、なにも持たないはずの“わたし”が、にやりと笑う瞬間があることを。


 ――壊してしまえばいい。


 その考えが、雪解け水のように静かに、けれど確実にわたしの中へ根を張っていった。




 ◆




 数日後。


 わたしは、王城の回廊でパトリシアと向き合っていた。

 陽光を反射する白い壁、赤い絨毯の柔らかな感触、すれ違う侍女たちのひそやかな足音――すべてが王族の暮らす場所らしく、きれいで、整っていて、そしてどこか薄っぺらい。


 どうしてもパトリシアの生まれ育ったところを見たいとおねだりしたら、彼女はぱっと花が綻ぶみたいに笑って、「じゃあレティシアのお家も見せてね」と嬉しそうに言ってくれた。


 無邪気で、甘くて、歯が浮くみたいな善人。

 ほんと、馬鹿で、世間知らずな王女様。


 この王城で過ごす時間は、ぜんぶ彼女のための飾りみたいだ。

 わたしたちはお茶会をし、庭園を散策し、パトリシアはあちこちを案内してくれた。


「ここはわたくしが育てていて」「この東屋は、その……父上が母上のために」


 パトリシアが指差すたび、白い花が揺れ、風に乗って甘い香りが漂う。

 けれど、その言葉はわたしにとってどうでもいい話にすぎない。

 笑顔で相槌を打つたび、頬の筋肉が固まっていくようだった。


 わたしの狙いは、この美しい王城そのものではない。

 もっと近くにある、もっと脆くて、もっと大切なもの――“人”だ。


「……あ、ごめんなさいレティシア。母上が呼んでいるみたいだわ。すぐ帰ってくるから、待っていてね」


「はい。お気をつけて」


 にこやかに微笑み、淑女の礼を添えて見送る。


 パトリシアの金の糸のような髪がふわりと揺れ、角を曲がって視界から消えた瞬間、わたしの表情から笑みが静かに落ちた。


 ――そして。

 残っていた護衛の騎士に、わたしは歩み寄る。


「……あら、もしかしてあなた、春頃階段から落ちそうになったのを助けてくださった騎士様ではありませんか?」


 茶色の髪、堅苦しいほど真面目そうな顔立ち。

 丁寧に刈り揃えた髪と鎧の輝きだけ見れば“誠実な騎士”という印象を与えるのだろう。

 だが――わたしは知っている。


 あの日。

 階段から落ちかけたわたしを抱きとめた瞬間から、彼が向けてきた、あのねっとりと熱い視線を。


 濃く、湿った劣情を隠しきれない、いやらしい目。

 わたしの身体だけを欲しがっている目。


 そんな男が、パトリシアの護衛?

 わたしという“主人の友人”を守る?


 ふざけないでほしい。


 でも――だからこそ、使える。


「覚えていてくださっていたとは光栄です」


「もちろんですわ、命の恩人ですもの。……でも、前までは、パトリシアさまがいらっしゃったので」


 わざと少し頬を染めて、恥じらう令嬢らしく見せる。

 まるで以前から騎士に興味があったけれど、親友の前では言えなかった――そんな雰囲気を匂わせる。


「……あの、これから文通をしてもいいですか? 心が通ったらその時は、場を整えてお会いしたく存じます」


 文通。

 ――貴族社会で、それは控えめな求愛の暗喩。


 そして「場を整えて」は、婚約の申し込みさえ連想させる言葉。


 これだけ言えば、この騎士はわたしが恋をしていると信じ込むだろう。

 浅ましい人間ほど、都合よく解釈する。


「し、しかしっ……自分は、パトリシア様の……」


「お仕事がお忙しいのは重々理解しています。でも……あなたの勇ましく太い腕が、今でも忘れられないのです」


 潤ませた瞳で見上げると、男の喉がひくりと動いた。

 その瞬間、あの視線がまたわたしを舐め回すように降り注ぐ。


(やっぱり。あなたも所詮、その程度の人間)


 胸の奥で薄笑いが広がる。

 わたしの身体を欲しがるくせに、王女の護衛という立場だけで正義面をしている男。

 そんな矛盾を抱えた存在ほど、扱いやすいものはない。


「……はい。承知いたしました」


「ふふ、お気持ちが伝わってよかったです」


 にこっと笑い、告白が成功して嬉しい小娘のように演じる。

 頬を染めて、視線を揺らし、わざとらしく胸の前で両手を重ねてみせる。


 最後まで――騙しきる。


 それが目的のために必要なこと。


 パトリシアに、兄さまは釣り合わない。

 兄さまにはもっと素敵な女性が――というか、

 そんな人間、この世に存在しない。


 だから、消す。


 それだけだ。





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