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第30話 帰還と褒章

 




 ニーア帝国皇城──。


 幾度訪れても慣れることのない眩さが、謁見の間いっぱいに溢れていた。金糸のように輝く柱は光を受けて細やかに反射し、深紅の絨毯は流れ込むように玉座へと続いている。天井から吊り下げられた巨大な水晶灯は、無機質な白光を放ちながら、まるで侵入者の心まで照らし出すかのように鋭かった。


 俺は、その中心で静かに膝をついていた。


 この空間は、何度来ても慣れることがない。圧倒的な煌めきと、帝国という巨体の威圧が、皮膚を通り抜けて骨までしみ込んでくるようだった。肺が縮むような息苦しさに堪えながら、それでも俺は顔を上げる。和平のために遣わされた以上、ここで逃げ出すなど許されない。


「いや……まさか、聖人グランツを送って一週間で和平まで漕ぎつけるとはな」


 高い玉座から響いた皇帝の声は、深い洞窟に落とされた岩のように広間に反響した。


「……運がよかっただけです」


 控えめに返すと、皇帝はわざとらしいほど眉をひそめた。


「ふむ、謙虚よな。しかし余の統べる帝国も、お前の住まう王国も、なにもなしでは離してくれぬぞ」


「はぁ」


 ──また面倒事か。


 心中では大きくため息をつきながらも、表情筋は動かさない。皇帝は呵々と笑い、玉座の上で興味深そうに身を乗り出してくる。


「ははは! まあ、励めよ聖人グランツ。帝国からは秘蔵の魔薬のレシピを授けよう」


「え、それって……!」


 思わず声が上ずった。情けないとは思うが、抑えきれなかった。


 皇帝は愉快そうに目を細める。


「近年レシピ通りに作っても、思い通りにいかないケースが多くてな。これも一つの選択だ」


 予想の外側から落ちてきた褒賞に、頭が白くなる。


 魔薬──。

 もし過去の文献通りの効能があるなら、魔力回復量が飛躍的に向上する。治癒魔法の実験効率も上がるし、俺が苦手とする攻撃魔法や罠術式の研究まで一気に進む。頭の中で「もし」「たられば」が暴風のように渦巻き、未来の研究計画が何本も同時に生えていく。


 皇帝の前であることを忘れて、思わず表情が緩んでしまったのが自分でも分かった。


 すると──。


「聖人グランツよ」


「あ、はい」


「その顔のほうが、人間味があって余は好ましく思うぞ」


 膜を一枚破るような言葉だった。


 これまで“血の通っていない暴君”と評されてきた皇帝が、淡く笑っている。玉座に座る巨大な存在ではなく、一人の男としての温度を感じさせる笑みだった。


 意外すぎて、胸の奥がぐらりと揺れる。


 ──ああ、そうか。

 皇帝といえど、やはり人なのだ。


 その当たり前の事実を、ようやく自分の実感として飲み込めた。緊張で凍りついていた胸が、ほんの少しだけゆるむ。


 そのまま謁見は粛々と終わり、俺は帝国皇城を後にした。


 帰路についた馬車の窓からは、夕陽が地平線へと溶け落ちていくのが見えた。焦げるような橙が西空を染め、世界そのものが夜に沈む前に急げと背中を押してくるようだった。


 揺れる馬車の中で、俺は静かに息をつく。


 ──早く帰ろう。

 家へ。

 レティシアのもとへ。


 胸の奥で熱が灯り、それが道中を照らしてくれているような気がした。




 ◆




 約三週間ぶりに、ようやく王国の土を踏んだ。


 鼻先をかすめる湿った土の匂い、風に混ざる街の喧騒、衛兵の掛け声──すべてが懐かしく、胸の奥をじんわりと温めていく。帝国の硬い石畳とは違う、柔らかな大地の感触が靴底から伝わるたび、帰ってきたのだという実感が遅れて込み上げてきた。


 ……が、現実というものは、帰宅してお茶を飲むより先に“報告”が待っている。

 これが大人の世界の厄介なところだ。


 王城の警備は、俺にとってはほとんど顔パスに近い。

 定期検診という名目で魔力管理や治癒魔法を施してきたおかげで、衛兵たちの態度はやたら丁寧だ。

 厳つい鉄門を抜け、白石が敷き詰められた広い廊下を進む。壁に掛けられた巨大なタペストリーは、王国の歴史を高らかに描き出し、通る者の背筋を自然と伸ばさせた。


 やがて、謁見の間へ続く両開きの木扉へとたどり着く。

 重厚な木材に刻まれた紋章が、王権の重みを静かに訴えていた。


 さすがにここだけはボディーチェックが外せない。


「……よし、どうぞお行きください。聖人グランツ様」


「ああ。今日もご苦労さま」


 顔なじみの騎士に軽く手を上げ、扉の中へ踏み入る。


 赤い絨毯が長々と敷かれ、王へ向かう一本の道を作っている。その距離が無駄に長いため、歩くたびに視線が突き刺さる。序盤の貴族連中から向けられる、特に女性陣の熱のこもった視線は毎度ながら耐え難い。


 だからこそ、俺は王だけを見据えて歩いた。

 視線を逸らせば足元が乱れ、恥を晒す未来が容易に想像できる。


 視界の端に、ブナッティー侯爵、マリアージュ嬢──そしてレティシアの姿が見える。


 俺に気づいた彼女は、ぱっと表情を明るくし、小さく手を振ってくれた。

 胸が一瞬で温かくなる。

 この短い仕草だけで、二週間の疲れが吹き飛んだ。


 王の前までたどり着き、深く礼をとる。


「グランツ・ワイズ、ただいまニーア帝国より帰還いたしました」


「そうか。こちらでも、活躍は聞き及んでいる。大義であった」


 その言葉に、ほっと胸をなで下ろした。

 どうやら帝国での交渉について、怒りの沙汰にはならないらしい。


「……して、グランツよ。帝国から土産を持ち帰ったそうだな」


「は。秘蔵の魔薬です。材料さえあればすぐ増産体制に入れるので、最初にできた魔薬は陛下に献上したく存じます」


 馬車に揺られる間、暇つぶしに紙面で分析を続けていた。

 結果、昔のレシピゆえに手順が複雑で誤解されやすいが、実態は高性能ポーションと大差ない。しかし、飲んでみれば未知の効能が隠れている可能性もある。


「そうか。期待している」


 その後は、儀礼的な会話が続いた。

 帝国の気候、兵士の練度、文化の違い──貴族たちへの教本を求めるように、王は次々と質問を投げてくる。


 そして、謁見が終わりに差しかかったその時。


「最後にだが、グランツ。今回の遠征まことに大義であった」


「は。勿体なきお言葉、ありがたく存じます」


 ──その直後だった。


「帝国を短期で勝利に導いた英雄──聖人グランツよ。お前には王命にて、婚約を言い渡す」


 ……は?


 謁見の間の空気が、一瞬で凍りついたように感じた。


「へ、陛下? なにを仰るのですか」


「お主ももう三十半ばだろう? 身を固めてはどうだ」


「いや、私にはその」


「なんだ。恋人でもいるのか?」


「……いませんが」


 なぜ職場どころか国のトップに恋愛事情を暴露させられているのか。

 公開処刑にもほどがある。


「ならよいではないか。──ほら、パトリシア。恥ずかしがってないで来なさい」


 王の呼びかけに、列の端から一人の少女がそろそろと前へ出た。

 パトリシア王女。まだ院生で、レティシアと親しい方だと聞き及んでいる。


「グランツ。お前にはわしの息女、パトリシアとの婚約を命ず」


 言うや否や、パトリシアは顔を真っ赤にし、うつむいて肩を震わせた。


 ……そりゃそうだ。

 三十過ぎの男の横に立たされ、婚約を宣言されるなど、どう考えても荷が重い。

 そして何より、レティシアの友人である。複雑などという言葉では追いつかないだろう。


「え、……その、パトリシア様のお気持ちは」


「ははは。パトリシアはお前の大ファンでなぁ。親としても、いいこと尽くしなのだよ」


 ──いいこと尽くし。


 その言葉が耳に残り、脳裏で反芻される。


 ……ああ。

 “聖人の血”を王家に取り込める、というわけか。


 利用されるのは好きではない。

 だが、パトリシアとレティシアの友情を壊すような選択はできない。

 一度でも強く拒めば、二人の関係に影が落ちる。


 だから──。


「……婚約を、お受けいたします」


「うむ。わしの娘をよろしく頼むぞ、グランツよ」


 王は満足げに頷き、列の貴族たちはざわめいた。

 パトリシアはさらに顔を赤くし、俯いたまま小さく震えている。


 子爵家に王女が降嫁する──前代未聞の出来事だ。

 これからどれほどの面倒が増えるのかを思えば、こめかみがわずかに痛んだ。


 だがため息は、誰にも気づかれぬようにそっと吐く。


 やれやれ──と肩を落としながら、心の中でただひとつ願う。


 ──俺がどうなろうと、レティシアには笑っていてほしい。




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