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第29話 理想の妹




 授業が始まると、いつも通りの筆記の音が教室に満ちていった。

 黒板に魔法式が書き込まれるたび、白い粉がぱらぱらと落ち、静かな空気の中でそれだけが舞っている。

 わたしはその光景に、ようやく日常へ戻ってきたのだと実感した。


 集中できる。

 文字も、式も、頭の中にすっと入ってくる。

 ──これなら大丈夫。胸の奥でそっと息がほどけた。




 そして放課後。

 淡い夕陽が校舎の壁面を柔らかく照らし、長く伸びた影が石畳に重なる。

 その光は一日の終わりを告げるように金色へと深まり、まるで世界が静かに呼吸を落としていくようだった。

 わたしは胸の奥のわずかな緊張をそっと押しなだめながら、いつものカフェへと足を向ける。


 木製の扉に手をかけると、かすかに温もりが伝わってきた。

 扉を押し開けると、店内に満ちる焼き菓子の優しい甘い匂いがふわりと寄り添うように広がり、心がほどける。

 この匂いを嗅ぐたびに、「ああ、帰ってきた」と思える。わたしにとって、この場所はそういう空間だった。


 奥の小さな個室。

 そこには、すでにパトリシアが姿勢よく腰掛けていた。

 わたしに気づいたその瞬間、彼女の表情はぱっと花が開くように明るくなり、春風のような笑みがこぼれる。


「もう、出歩いて大丈夫なんですの……?」


 その声音には、心配と安堵が混じり合い、まっすぐで、少し震えるほどの優しさが宿っていた。

 王女でありながら、肩書きではなく“友人”として案じてくれる――

 その気持ちが胸の奥にじんわりと染み込み、胸がきゅっと温かくなる。


「ええ。気分もすっかり晴れましたし、授業は集中して聞くことができましたわ」


 わたしがそう告げると、パトリシアはほっと息を吐き、胸に手を当てて目を細める。

 安堵が、言葉よりもよく伝わる仕草だった。


「じゃあ今日は栗のパウンドケーキを食べましょう! レティシアがいないときに出た新作なの。しっとりあっさりした甘さがたまらないらしいわ」


 彼女の声は弾むように明るく、まるで待ち望んでいた約束がようやく叶うかのようだった。

 王女として国中の美味しいものを食べてきたはずなのに、それでもこんなふうに目を輝かせる。

 そんな彼女を見ていると、あの日の言葉が胸に蘇る。


 “あなたと食べると一番美味しいの”


 王位継承権がなく、政治的な思惑で近づいてくる者もいない。

 特に女友達はできにくかったと、以前に聞いた。

 それなのに彼女は、誰よりも柔らかい光をまとい、気高さと無邪気さの両方を自然に持ち合わせている。

 その姿は、見ているこちらが背筋を伸ばしたくなるほど眩しかった。


「レティシアみたいな妹がいたら、毎日楽しいでしょうね」


 そう言う彼女の声音は穏やかで、どこかくすぐったくなるような温もりがあった。

 わたしは、その言葉が嬉しくて胸の奥にそっとしまいながら、彼女の向かいに静かに腰を下ろした。


 そう語るパトリシアの瞳には、柔らかい光が宿っていた。

 その奥に見えるのは、王族であるがゆえに自然と身に付いた気高さ――

 けれど、そうした矜持を彼女は外では決して露わにしない。

 ここは個室。扉一枚向こうは、王族を囲む視線が常に渦巻く世界だというのに、この場所だけは彼女が心のままに言葉を紡げる、ほんの小さな避難所だった。


 レティシアには、高貴貴族として生まれ育つ苦労はわからない。

 けれど、パトリシアが笑うときにほんの影のようなものが差す瞬間を、確かに知っている。

 それは寂しさとも、諦観ともつかない、儚い影だった。


「ええ、そうですね。もしパトリシア様がお姉さまなら、退屈しなさそうです」


 そう口にした瞬間、胸の奥が小さくちくりと痛んだ。

 ──本当は違う。

 グランツ兄さまひとりで、わたしの“家族”はもう満ちている。

 優しさも、愛情も、寄り添いも、すべて兄さまが与えてくれた。

 わたしの心の中には、これ以上入り込む余白なんて残っていない。


 だから、これはパトリシアを落胆させないための、ほんの少しの嘘だった。


 それでも、彼女はぱっと頬を輝かせた。


「でしょう? 一回してみたいのよね。ドレスを選んであげたり、一緒にお風呂に入ってみるの」


 その声音は夢見る少女そのもので、目元には淡い期待がきらめいていた。


 ──そのすべてを、わたしはすでにグランツ兄さまと経験している。

 幼い頃から、ドレスも髪型も、お菓子の味も、泣いた夜も、手を取り合って歩んできた。

 つまりパトリシアが思い描く“理想の姉妹”を、わたしは兄さまと築いてきたということだ。


 その事実を思い返すと、胸の奥に小さな優越感がふわりと芽生える。


「でも、パトリシア様には弟君でいらっしゃるジルベール様がいらっしゃるじゃないですか。ジルベール様、泣いてしまわれますよ?」


 そう告げると、パトリシアは一瞬だけ視線を宙へ漂わせ、遠いところを見つめるように目を細めてから、


「ジルベールはないわよ。何考えてるか年々わからなくなるし、第一背が高くてかわいくないもの」


 と、きっぱりとした声で言い切った。


 そのあまりの率直さに、思わず口元がゆるむ。

 弟に“かわいさ”を求めるあたり、なんともパトリシアらしい。


 ふと店内に目を向けると、焼き菓子の甘い匂いがほのかに揺れ、夕陽が窓越しにテーブルへ淡い影を落としていた。

 その静かな時間の中で、わたしは自分のことを思う。


 レティシアの愛らしさや清廉さは、いくら美辞麗句を重ねても足りない――

 そんなふうに貴族たちが囁くのを、何度か耳にした。

 そしてそれを最初に教えてくれたのは、誰よりもわたしを理解してくれている兄さま。


 “レティシアは雪の精霊みたいだ”


 その言葉が胸の奥で静かに響く。

 わたしがそうありたいと努力してきたのは、兄さまに褒めてほしいから。

 もしかしたら今のわたしの容姿の印象は、兄さまの好みそのものなのかもしれない。


 そう気づいた瞬間、心臓がとくんと強く脈打ち、頬がじんわり熱くなった。


「あ、ジルベールとレティシアが結婚したら、義妹になるのかしら?」


 パトリシアの、まったく悪気のない純真な問い。

 その無垢さが逆に胸を締めつけた。


「それはないと存じますよ」


 即答した自分の声が、思いのほかはっきりしていて、自分でも驚くほどだった。

 けれど──心がはっきりと叫んでいた。


 本当に、それだけはない、と。




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