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第28話 アドウィン将軍



 ──あの男を眠らせた瞬間の手応えが、まだ掌に残っている。


 睡眠魔法で沈めたあと、俺はすぐに応急処置として傷を塞いだ。血まみれのまま拷問所へ連れて行けば、余計な疑いを向けられるだけだ。戦場育ちの兵なら、失った血は半日もすれば補えるはずだ。だからこそ、最低限の処置だけはしておいた。


 地下へ向かう道は湿っており、どこか金属の匂いがした。石壁に密やかに灯された魔石の光が揺れ、影がゆらりと揺れる。帝国の拷問所──その名だけで胃が重くなる場所だが、帝国兵たちは淡々としている。


「せっかくなので見学しますか? 拷問。あなたが捕らえた兵ですし、自由にしてくださって構いませんよ」


 そう言われ、俺は思わず「ぜひ」と答えた。

 勢いよく答えたせいで、拷問官が露骨に引いたのは……うん、仕方ない。


 後学のためだ。帝国の“技術”は、味方であっても学べるものは学ぶべきだと思ったのだ。──そう、自分に言い聞かせながら、硬い椅子に腰掛けた。


 奥の台に縛られた男が、目を覚ました。


 俺は椅子の背にもたれ、手を組んだままじっと状況を見つめていた。

 拷問所特有の冷たい空気が肌にまとわりつく。湿気が石壁に滲み、ひんやりとした匂いが鼻を刺した。天井の魔石灯がゆらゆら揺れるたび、影が床に落ちて波打つ。


 帝国の拷問というからには、もっと重苦しい空気に満ちているものと思っていた。だが実際は、ただ目覚めた男が、眠そうに目をこすりながら周囲を見回すだけの光景だった。


「……ここは、」


「おはようございます。ご気分はいかがですか?」


 拷問官の明るさは、むしろ不気味に感じた。

 地下の薄暗さと、彼ののんきな声がちぐはぐで、余計に場の空気を曖昧にしている。


「はは、最悪だよ。そこの魔法使い様のおかげでな」


 男──まだ名も知らない兵は、喉を鳴らして笑った。

 乾いた笑いの裏に、ほんの少しだけ怯えが混ざっているようにも見える。


「それはよかった。本国の応援に駆けつけてきてくださった甲斐もあるというものです」


 応援。

 その言葉が、妙に引っかかった。

 俺は眉をひそめ、声をあげずにそのまま耳を澄ませる。


「……応援……? っも、もしや、」


「ええ、アドヴィン将軍。こちらは聖人グランツ様。同盟国ナノグディア王国からの応援でございます。それにグランツ様のおかげでこうして貴国の将軍を押さえることができましたし、これから停戦、もしくは和平交渉へ移る予定です」


 “将軍”という言葉に、俺は思わず呼吸を止めた。


 ──こいつが、将軍?


 確かに重装備ではあったが、飾りも勲章もほとんどない。

 護衛も少なかったし、ただの強気な前線兵かと思っていた。

 まさか敵国の将だったとは。


 アドヴィンと呼ばれた男は、唇を歪ませて笑った。


「はっ 負けた国の将軍をもてなす? 帝国の皮肉は強烈だな」


「恐れ入ります」


 会話は拍子抜けするほどあっさり進んでいく。

 俺が想像していた“緊迫した尋問”など影も形もない。まるで形式的な確認作業だ。


 しかし、その穏やかさの裏側には確かな目的──和平へ向けた駆け引きがあった。

 アドヴィンが捕まった事実は、この戦いに大きな影響を与えるだろう。


 しばしの沈黙。


 そのときだ。

 アドヴィンがごくりと喉を鳴らし、頬の筋肉を微かに動かした。


 ──毒だ。


 俺は即座に魔力を走らせ、無毒化の魔法を施した。

 ほんの一瞬の判断だったが、迷いはなかった。

 死なせれば交渉の目は潰える。

 帝国がここでの死を望むはずがない。


 アドヴィンは目を丸くし、舌を動かして不思議そうにするだけだった。死ねず、苦しみもせず、ただ困惑する。


「しかし驚いたな……世に聞く聖人グランツが、こんなにも無慈悲とは」


 皮肉を含んだ声。

 俺はしばらく黙っていたが、拷問官が軽く笑って言った。


「ああ、グランツ様。喋っていただいて構いませんよ」


「……じゃあ遠慮なく」


 立ち上がり、ゆっくりとアドヴィンの前へ歩み寄る。

 重い靴音が、静まり返った拷問室に落ちる。

 その一歩ごとに、相手の瞳の濁りが鮮明に見えてくる。


 ──このままでは自害を繰り返すだろう。


 そう判断し、俺は彼にありとあらゆる防御魔法を重ねがけしていった。

 光の膜が幾重にもアドヴィンの身体を覆い、逃げ道を塞ぐ。


「聖人とは、自分の身も守れるからこそ認められるもの。守られてばかりでは、戦場ではお荷物捕虜まっしぐらだ。本来聖人・聖女というのは、軍事兵器だ。歴史とともに神格化されたようだが、本来はこ・う・なんだよ」


 言葉を吐きながら、自分の胸の奥がじわりと重くなるのを感じた。

 帝国の冷たい光が揺れ、二人の影が重なって床に伸びる。


 アドヴィンの表情は、怒りでも悔しさでもなく、ただ静かだった。

 ──敗北を受け入れた者の目だ。


 やがて手続きが進み、アドヴィンは今日中に馬車で皇城へ運ばれることが決まった。人質。

 帝国兵は戦線の片付けのためにもう一週間ここに残るらしい。


 俺はお客様扱いだ。

 最低限撤収を手伝ったら、皇帝への報告をして帰っていいと言われている。


 帰りたい。


 レティシアの声を思い出す。


 ──家が恋しい。


 石の床を踏みしめながら、俺は深く息を吐いた。

 戦場の匂いがまだ鼻の奥に残っている。

 だが、その向こうに確かに“帰る場所”がある。


 それだけで、足取りは少しだけ軽くなった。




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