第27話 お返事より、無事の帰還を望みます
グランツ兄さまが、戦争に行った――その報せが落ちてきた瞬間、世界の音がすべて遠ざかった。胸の中心を鋭い冷気で貫かれたようで、何を考えることも、何を感じることもできなかったらしい。目を覚ましたとき、ワイズ子爵邸の自室の天蓋が、いつもよりはるかに白く、無菌のように見えた。
薄いカーテン越しの光が妙に冷たく、体の芯だけが氷のように取り残されている。外の世界は変わらず明るいのに、わたしだけがぽつんと置き去りにされたようだった。
ベッド脇ですすり泣く声がして、ゆっくり顔を向けると、侍女のマーサが真っ赤な目でわたしを覗き込んでいた。
「倒れてから半日ほども経っていたんですよ」と震える声で告げられ、温かいはずの彼女の手を握られても、その体温がうまく感じ取れない。指先が震えているのは、彼女の恐れか、わたし自身のものか、判別できなかった。
心配してくれている――その事実は痛いほど伝わるのに、胸の奥にはそれ以上に、息を焼くような焦燥が渦を巻いていた。
優しさも、慰めも、いまのわたしには刺すように重かった。
――どうして。
どうして兄さまが。
答えを求めるように、わたしは勢いよく寝台を出た。体はまだふらついていたが、それよりも知りたいという思いが勝った。部屋の隅に積んである最近の新聞の束を手当たり次第引っ張り出す。
紙の端が指先で震え、めくるたびに小さくこすれる音がやけに鋭く耳に刺さる。
一枚、また一枚。
荒れる息を整える暇もなく読み進めるうち、活字の列が、わたしの不安をごりごりと削り、さらに濁らせていった。
記されているのは、あまりにも冷たい事実だった。
――グランツ兄さまを呼んだのは、やはりニーア帝国。
好戦的な新皇帝が即位し、周辺諸国へ武力をもって侵攻を繰り返す、あの危険な国家。その国が、治癒魔法を極めた兄さまを“必要とした”。
そんな身勝手な理由で、兄さまはいま戦場にいる。
「……やっぱり、グランツ兄さまじゃなくていいじゃない」
わたしの声は、震えていた。
狭い部屋の中なのに、どこからともなく響いたように聞こえた。静まり返った空気に、その言葉だけがぽつりと落ちて、ひどく大きく反響する。
王国には騎士団がいる。
腕の立つ傭兵もいる。
冒険者ギルドにだって人員はいるはずだ。
治癒士が必要だったとしても、兄さまほどの優秀な人材を危険な最前線へ送る道理なんて、どこにもない。
なのに、どうして。
兄さまにもしものことがあったら――
想像した瞬間、胃の奥がぎゅっと痛んだ。
そんな損失をどうやって埋めるつもりなのか。国の宝を手放すようなものだ。
思考が怒りとも悲しみともつかない感情で染まり始め、新聞の文字が水に落ちた墨のように滲んだ。
ニーア帝国は“聖人”と名高い兄さまを戦地に呼び出し、ナノグディア王国はそれを黙認した――
その構図が、わたしにはどうしても許せなかった。大切な宝を乱暴に扱うような蛮行だ。
この戦争が終わったとき、いったいどう落とし前をつけるつもりなのだろう。
「でもそうね、パトリシア様がお教えくださらなかったら知らないままだったし。感謝こそすれ、恨んではいけないわよね」
自分の声を聞きながら、胸の奥で渦巻く黒い感情をなんとか押しとどめるように、ゆっくりと息を吐いた。
あの方が知らせてくださらなかったら、わたしはいまも学舎でのんきに授業を受けていたかもしれない。何も知らず、何も感じず、兄さまの危機さえ察せないまま。
それを思えば、感謝すべきなのだ。
恨みなど向けてはいけない。
そう言い聞かせても、胸のざらつきは完全には消えてくれなかった。
けれど、唇を噛みしめ、何度も心の中で唱える。
――大丈夫。大丈夫。
兄さまは聖人と呼ばれるほどの治癒魔法の使い手だ。
傷を負っても、兄さまなら治せる。
即死にさえ至らなければ、致命傷ですら回避できる。
だから、大丈夫。
そう信じようとする心は、細い糸のように頼りなく震えているのに、それでも掴まずにはいられなかった。
――いや、わたしが信じなくてどうするのだろう。
その言葉を胸の奥で反芻しながら、わたしは深く息を吸った。肺の中まで冷えた空気が入り込み、胸がひりつく。それでも机に向かい、大学院の遅れていた学習をひとつずつ片づけていくことにした。
文字を追っている間だけは、兄さまの顔が脳裏から薄れていく。計算式や論文を読み進める時間だけは、心の奥の黒い穴を見なくて済む気がした。
だが、ノートを閉じた瞬間、そのわずかな安堵は容易く砕ける。
静まり返った部屋の中で、カーテンを揺らす風の音ひとつすら、やけに大きく耳に響き、胸がきゅっと締め付けられた。
――戦場にいる兄さまは、いまこの瞬間、何をしているのだろう。
考えまいと目を閉じても、次々と不安の影が押し寄せてきて、眠っている間さえ心が休まる気がしなかった。
そんな状態のまま数日が過ぎ、気づけば予習まで終えてしまっていた。学ぶべきものが手元から消えた途端、時間が突然重く、そして恐ろしくなった。
手持ち無沙汰でいることほど、兄さまの安否を想像してしまう時間はない。
心がひたすらに落ち着かず、指先ばかりが膝の上でせわしなく動いていた。
――何かしなければ。
そう思ったとき、ふと机の上に置かれた便箋が目に入った。
その白い紙を見た瞬間、胸の奥でひっそりと火が灯るような感覚があった。
兄さまへ、手紙を書こう。
届くかどうかもわからない。
戦場のどこかで兄さまが受け取る保証もない。
それでも、書かずにはいられなかった。
便箋をそっと広げ、ペンを握ると、手のひらの汗で少しだけ滑った。
深呼吸をして、震える指を押さえながら書き始める。
兄さまは元気だろうか。
ちゃんと食べているだろうか。
異国の兵士たちと、うまくやれているだろうか。
夜は眠れているだろうか。
寒くはないだろうか。
怪我は――していないだろうか。
文字にしていくほど、心配が形になって積もり、胸を締め上げる。
膝の上に広げた便箋は、何度も涙で滲みかけて、その度に袖でそっと拭った。
何度も筆先が止まった。
書いた言葉が幼く感じられ、情けないほど頼りなく見えて、紙を閉じてしまいたくなる瞬間が何度もあった。
けれど、それでも――兄さまへ届けたい気持ちが勝った。
最後の一文を書き終えたとき、胸の奥がじん、と温かくなった。
蝋を垂らし、封を閉じる。
――お返事より、兄さまが無事かえることを望んでいます。
その文字を指でなぞると、封筒越しに兄さまの温もりを想像してしまい、目頭がじわりと熱くなった。
震える指先で封筒を抱きしめながら、ぽつりと声が漏れた。
「……わたしは、信用なりませんか。いってらっしゃいも言う資格などないのですか、グランツ兄さま」
その呟きは、静まり返った部屋の冷えた空気に吸い込まれ、跡形もなく消えていった。
残されたのは、胸を焼くほどの祈りと、わたしの震える指先だけだった。




