第2話 外は怖くてきらきらしている
グランツの屋敷に来て、一週間が経った。
屋敷の中には、いつも静けさが満ちている。昼は遠くで鳥の声がして、夜は暖炉の薪がはぜる音だけが聞こえる。そんな音に包まれながら過ごす日々が、いつの間にか少しだけ心地よくなっていた。
今日は、服を買いに行くのだという。
グランツが「そろそろ外に出てみよう」と言ったとき、私は少しだけ躊躇した。外の世界はまだ怖い。でも、彼が隣で手を握っていてくれるらしい。それだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
街へと下りる馬車の中で、窓の外を流れていく風景を見た。
冬の陽射しは白く淡く、石畳の隙間に張った氷が、光を受けて小さく瞬いている。
かつては、この世界のどこにも美しいものなどないと思っていた。
けれど、今は——その光を目で追う自分がいる。馬車の中は少し暖かく、膝の上に置かれた自分の手が、かすかに汗ばんでいた。
馬車が止まる。ドレス店の前で、グランツが先に降りた。
差し出された手は、冬の空気のように冷たく、それでも確かな温もりがあった。
私は裾を持ち上げようとしたけれど、指が震えて布をつかめず、踏んだ裾に足を取られてつまずいた。
次の瞬間、視界が傾き、胸の奥が一瞬で真っ白になった。
倒れこむようにして、グランツの胸にぶつかる。
彼の体温がすぐそこにある。驚きと安堵と、どうしようもない恥ずかしさが一度に押し寄せ、息が詰まった。
「大丈夫だ」
その声が耳のすぐそばで響いた。静かで、柔らかく、心臓の震えを撫でるような声だった。
見上げた彼の表情は穏やかで、怒っていないとわかった瞬間、胸の中で絡まっていた糸が、ひとつほどけていくようだった。
店の中は、思っていたよりもずっと眩しかった。
壁一面に吊るされたドレスたちは、光を反射してきらきらと揺れている。
香水と布の匂いが入り混じって、鼻の奥をくすぐった。
誰もが笑っている。
私だけが、この世界に不釣り合いのように感じて、足の裏がふわふわと浮いていた。
「こちらの方など、いかがですか?」
店員の女性が、にこやかに私へ近づいてきた。
私は、言葉を探そうとしたけれど、喉が凍ったみたいに動かなかった。
視線を上げた瞬間、まぶしい光に目が焼ける。
「あ、えっと……」
声が、喉の奥でほどけて消える。
そのときだった。
グランツが、私と店員の間に静かに立った。
彼の影が私の足元に落ちる。
その陰が、不思議と安心できる色をしていた。
グランツの声が低く響き、店員の笑顔が少し和らぐ。
二人がドレスの色や布地の話をしているのを見ていると、胸の奥が少し痛くなった。
私のことを思ってくれているのに、私はまだ何も返せない。
それでも、彼が布を持ち上げる指の所作の丁寧さに、胸の奥で何かがかすかに灯るのを感じた。
——こんな穏やかな時間を、私はずっと知らなかった。
その思いが、ほんの少しだけ、胸の中を熱くした。
数着のドレスと共に試着室に入ると、ほのかに布と香水の匂いが混ざった。
薄いカーテン越しに、外の光が柔らかく透けている。
その光を見つめながら、私は指先を見た。震えている。
ドレスの着方がわからなくて、手の中の布が、まるで異国の言葉みたいに感じた。
外には、グランツしかいない。
私は小さく息を吸って、「……着せて」と言った。
声は思ったよりも掠れて、子どものように弱々しかった。
カーテンの向こうで一瞬、気配が止まる。
そして、静かに布が揺れて、グランツが中へ入ってきた。
ドレスを持ち上げた彼の手が、光の中できらりと白く見えた。
指先は驚くほど慎重で、まるで触れたものが壊れてしまうと知っているようだった。
背中の紐を通すとき、布が肌を撫でて、過去の記憶がざらりと疼いた。
誰かに服を着せられるという行為が、こんなにも優しくできるものだとは思わなかった。
その優しさが、痛みに似ていた。
けれど——痛みのあとに、温かさが残った。
「痛くないか?」
低い声が耳の近くで響く。
私はゆっくりと頷いた。
「今は……痛くないです」
自分で言いながら、その言葉が本当になっていくような気がした。
グランツは、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、髪を梳くように整え、そっと頭を撫でた。
掌が一瞬、私の髪に沈む。
その温度が、心の中の冷たい層をひとつずつ溶かしていく。
鏡の中を覗くと、そこに立っていたのは、自分のようで自分でない少女だった。
痩せた肩、骨ばった首筋。
けれど、白い布が光をまとい、まるで透き通った雪のように見えた。
目を逸らしたいのに、逸らせなかった。
——この姿を、彼が見ている。
そう思っただけで、胸の奥が静かに痛んだ。
「似合ってるよ」
グランツの言葉は、鏡の中で波紋のように広がった。
私の頬に色が差す。
目の奥が熱くなり、涙が喉の奥まで込み上げたけれど、こぼす勇気はまだなかった。
唇を噛みしめて、鏡の中の少女を見つめた。
――ここに、もう少しだけ居てもいいのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥で小さな灯がともった。
それはかすかに揺れて、それでも確かに、私の中を照らしていた。




