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第25話 心が弱っていく




なんだかなぁ──と、わたしは思った。


最近、本当に眠れていない。

夜が来れば眠れるはずなのに、布団の中で目を閉じても、心臓の鼓動ばかりが大きく響いてきて、

何時間経っても眠気が落ちてこない。

窓の外が白み、鳥の声が聞こえて、ようやく浅い眠りに落ちた頃には、もう起きる時間だった。


そのせいか、授業中どころか日常生活までも危うくなってきている。

講義室の長机に座っていても、視界の端がぼやけ、焦点が合わなくなる。

歩けばふらつき、立ち止まればくらりと頭が揺れる。


つい先日も、パトリシアと一緒にいたとき、階段の段差が急に歪んで見えた。

足が空を踏んだようになり、体が前に倒れかけ──

彼女の護衛が素早く腕を伸ばし、わたしを引き留めてくれた。


「わたくしが助けれたら良かったのだけど……無事で良かったわ」


困ったように眉を寄せて言うパトリシアの顔を見た瞬間、

胸の奥がぎゅっと痛んだ。

ほんとうに、たくさん気を使わせてしまっている。


何をするにも集中できない。

机に向かえば、視線が文字の上を滑っていく。

実験室では器具の扱いが危うく、

先日はとうとう、実験中に眠り込んでしまった。

目を覚ましたとき、あたりに心配そうな視線が集まっていて、

頬が熱くなった。


教師たちはわたしの真面目な性格を知っているから、

叱ることはしない。

けれど、その代わりに戸惑いと心配の混じった目で静かに見つめてくる。

その優しさが、かえって胸に刺さる。


今日も、実験後に片付けをしていると、よくしてくれている先生に呼び止められた。

夕方の研究棟は人がまばらで、外の薄橙の光が窓から差し込んでいる。

静けさが、逆に逃げ場をなくしていた。


「最近、なにかあったの?」


柔らかい声。

心配を含んだ目。

嘘なんてつきたくなかったのに──


「いえ、その……ご心配には及びません」


声が震えたのが自分でもわかった。

嘘をついているからではない。

ただ、体の芯が弱っているのだ。

……たぶん。


先生はわたしの答えをどこまで信じたのだろう。

少しだけ眉尻を下げ、それでも優しく続けた。


「そう。でも、このまま成績が下がると、必修単位の落単もあり得るわ。どう? 一週間家でゆっくり自習するというのは」


家で、自習。


その提案は、胸の奥に重く沈んだ。

わたしにとって、それは小さくない恥だった。

大学院生になったばかりでつまずいていると、周りに思われてしまう。

先生はわたしが勉強量の差に疲れたのだと勘違いしている。


本当は──

グランツ兄さまがいない寂しさで、心が怖いほど弱っているだけなのに。


なんて情けない。

そんな自分が嫌で、わたしはそっと唇を噛んだ。


でも、このまま続ければ落単は確実だ。

迷っている余裕はなかった。

わたしは、教師の優しい言葉に従うしかなかった。


「わかりました。では一週間ほど、おやすみをいただきます」


「ええ、ゆっくりしてきてね」


先生の声は最後まで温かく、

それがまた胸を締めつけた。


静かな空気が漂う空き教室をそっと後にし、

扉を押して廊下へ出る。


午後の日差しは西に傾きはじめ、

長い影となって床を斜めに伸ばしていた。

光の粒が舞うように見えるのは、

わたしの視界がまだぼんやりしているせいだろうか。


廊下に満ちた静けさの中で、

自分の足音だけがやけに響いて聞こえた。




 その影の先に──パトリシアがいた。


 廊下に差し込む夕陽の赤が、彼女の金の髪をやわらかく照らしていた。

 壁際でそわそわと落ち着かず、何度も時計を見ている。

 まるで迷子になった子どもが、迎えを待っているみたいに。


 扉を開けた瞬間、彼女は弾かれたように駆け寄り、その小柄な体で勢いよく抱きしめてきた。


「……レティシア、今日も顔色が悪いわ。保健室に行きましょう?」


 彼女の声はふだんより震えていた。

 腕は驚くほど強く、胸元にしがみつく手に、わたしの方が戸惑ってしまうほどだった。


「そのことなのですが、これ以上は先生から学業に影響が出ると言われてしまいまして。明日から一週間、家でゆっくりと、英気を養ってきます」


「そう……! 心配したのよ、もう!」


 ぎゅう、と抱きしめる腕に、さらに力がこもる。

 服越しに、彼女の早い鼓動が伝わってきた。


 ──ああ、たぶん。


 教師への相談……

 もとい、“王族として友人を思って動いた”のは、間違いなく彼女だ。


 余計なことを……と胸の奥でため息がこぼれる。

 けれど、パトリシアが悪気なく心の底から心配してくれているのが伝わってしまって、強く責める気にもなれなかった。


 そう思ったその瞬間。


 わたしの、ここしばらく霞がかった意識を

 鋭く切り裂くような言葉が降ってきた。


「だってレティシア、聖人グランツ様が戦場へ出たっきり、日に日に憔悴していくんですもの」


 ……え?


 時間が止まった。


 廊下に満ちていた夕陽の赤が、一瞬で色を失ったように見えた。


「兄さまが、戦へ?」


 声は自分のものなのに、やけに遠かった。

 喉の奥から無理やり押し出したような、かすれた音だった。


 パトリシアは「あっ」と目を見開き、焦りを滲ませた顔で口元を押さえた。


「同盟国ニーア帝国がね、聖人グランツ様の手を貸してほしいって……。……あ、これ家族以外に話しちゃいけないんだった……? な、内緒にしてね。レティシア」


 彼女の声が、波に揺れる水面から聞こえるように遠ざかっていく。

 廊下の光も、人の気配も、音さえも薄れていく。


 気づけば、胸の奥がぎゅうっと掴まれたみたいに苦しかった。


 兄さまが……戦場?

 そんな──どうして。

 なぜ、わたしに何も言わずに。


 脳が混乱し、濁った泥の中で足掻くように思考が空転する。

 “まさか”、“そんなはずない”“でも”

 どれも現実を否定できなくて、逆に締めつけは強まっていく。


 はくっ、はくっ──


 呼吸ができない。

 胸が焼けるように熱いのに、体は氷みたいに冷えていく。

 空気が喉に届かない。

 口が勝手に開閉し、乾いた音だけが漏れた。


 初めて陸に上がった魚みたいに。


「……レティシア? レティシア?! どうしたの……っ 誰か!!」


 パトリシアの悲鳴が、遠のいていく。

 視界が暗く沈み、輪郭が溶けていく。


 夕陽の赤も、廊下の光も、パトリシアの顔も……消えていく。


 光のない深い底へ落ちるみたいに、わたしは、意識を手放した。






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