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第23話 兄でなければならない理由




 グランツ兄さまが他国へ治療のための旅に出た――その知らせを、わたしはマーサから聞いた。

 朝の光が差し込む部屋で、湯気の立つ紅茶を運んできた彼女が静かに告げたその一言は、まるで冷水を浴びせられたかのように重たく胸に沈んだ。


 そのとき胸の奥に生まれたざらりとした違和感を、わたしはまだ言葉にできずにいた。

 言葉にすれば壊れてしまいそうなほど脆く、指先で触れれば消えてしまう砂のような感情。

 ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったまま、動くたびに痛むような、そんな感覚だけが残っていた。


 「国の治癒士として名誉なことでございます。自国の力を示すためにも……」


 マーサは穏やかな声音で続けた。

 いつも通りの落ち着いた声のはずなのに、わたしの耳にはどこか遠い世界の話のように響く。


 けれど、わたしの中では別の思いが渦巻いていた。

 名誉。国。役目。

 そのどれもが立派な言葉なのに、どうして兄さまの背中ばかり押していくのだろう。


 本当に、兄さまじゃなくてはいけないのだろうか。


 治癒士は他にもいる。十人集めれば兄さま一人分になると言われてはいるけれど、

 ならばその十人が行けばいいじゃないか、と、どうしても思ってしまう。

 十人を動かすより兄さま一人を動かすほうが早い――そんな大人の計算が、ひどく残酷に思えた。


 その夜、ひとりで夕食をとった。

 いつもは兄さまや弟のジルベールが笑いながら座る席が空っぽで、長い食卓がやけに広く見える。

 壁にかかった絵画と、天井のシャンデリアの光だけが静かに揺れていた。

 その静寂は、まるで冷たい湖の底に沈んでいくようで、息が詰まりそうだった。


 ナイフとフォークの音がやけに耳につくほど、空気はさびしく、重かった。

 食事の香りが鼻に届いているのに、味はほとんど感じられなくて、

 ただ「ひとり」という事実だけが鋭く胸に刺さっていた。


 気づけば口が勝手に動いていた。


 「……マーサも、今日だけは一緒に食べてくれないかしら?」


 自分でも驚くほど弱い声だった。

 いつもは「使用人は主人と同じ食卓にはつかないものなのです」と言う彼女も、

 今日だけはそっと席に着いてくれた。

 椅子のきしむ音がやけに優しく、涙があふれそうになる。


 その温かさに、胸の奥が少しだけほどけた気がする。

 けれど、ほぐれたと思った途端また締め付けられる――そんな不安定な感情が続いた。


 でも、夜になってベッドに潜り込むと、

 昼間押し込めた不安が一気に溢れ出してきた。

 静まり返った寝室の暗闇は深く、人の気配はなく、

 わたしの心の音だけが大きく響く。


 兄さまはなぜ、急に旅立ってしまったのか。

 行ってらっしゃいも言えず、手すら握れず、顔すら見られなかったなんて――酷すぎる。

 日常のすぐ隣にいた温かさが、急に世界から剥がれ落ちたようだった。


 「他国」と言うけれど、その先には戦争をしている国だってある。

 危険ではないのか。兄さまは本当に大丈夫なのか。

 どこの国へ行ったのかすら教えてもらえていない。

 知らされていないという事実が、胸を何度も締め付けてくる。


 暗い天井を見つめながら、胸が締めつけられた。

 目を閉じても兄さまの姿ばかりが浮かんで、眠気は一向に訪れなかった。


 もし、わたしが聖女だったなら。

 兄さまと肩を並べて歩くことができたのだろうか。

 背中を合わせ、同じ光の中で、同じ人々を救えたのだろうか。

 そう思うたび、喉の奥がつんと痛んだ。


 その想像は、余計に心を痛めつけた。

 兄さまがいない。たったそれだけで、わたしの世界は乱れてしまう。

 普段は当たり前すぎて気づかなかった温かさが、今は胸の奥で音を立てて崩れ続けていた。





 翌朝、カーテン越しの淡い光が部屋を満たす中、ぼんやりした意識のまま肩を揺さぶられた。

 重い瞼をこじ開けると、枕元に立つマーサが心底心配そうに眉をひそめていた。


 「……寝れなかったのですか?」


 その一言で、わたしはようやく気づいた。

 頭の奥がじんじんと痛み、全身が少し重い。

 まるで夜の間ずっと不安だけを抱えて揺れ続けていた小舟のようで、

 体の芯に疲労がこびりついていた。


 大学院を休んでもいいと優しく言われたが、

 わたしはシーツを握りしめながら、ゆっくりと首を振った。


 「今日はパトリシア殿下とカフェでパフェを食べる約束をしているの。

 せっかくお誘いくださったから、極力断りたくないのよ」


 冗談めいた言葉のはずなのに、自分でも声が弱っているとわかる。

 ただ、体調が悪くなったらすぐ帰るという条件で、ようやく外出を許された。


 身支度を整えて外に出ると、朝の空気は澄んでいるのに胸の奥は晴れなかった。

 街路樹の葉が風に揺れ、陽光を反射してきらきらと輝くのを眺めても、

 心はどこか遠くに置き忘れてきたようだった。


 大学院にも、もうすっかり慣れた。

 高等部での出来事はまるでなかったことのようで、

 みんなが程よい距離感と温かさを持って接してくれる。

 職人気質の人が多く、過剰に踏み込んでくる者はいない。

 その静かな空気は、壊れやすい心をそっと包む柔らかな布のようだった。


 講義を受けるうち、ほんの少しだけ胸の重さが和らいだ気がした。

 人がいる場所の温度に救われることもあるのだと、しみじみ思う。


 放課後――。

 パトリシア殿下と約束したカフェに向かう途中、

 窓からこぼれる甘い香りが通りまで漂っていて、

 いつもなら自然と足取りが軽くなるのに、今日は靴が地面に吸いつくように重かった。


 店に入ると、パトリシア殿下がすぐに気づいて立ち上がった。

 そして、わたしの顔を見た瞬間、目を丸くした。


 「顔色が悪いですわ、レティシア。なにかありましたの?

 わたくしたち友達じゃない。何でも言ってくださいな」


 テーブルを挟んで向けられる瞳は真剣で、

 その優しさが、胸の奥のなにかを強く揺らした。

 こんなふうに心配されるのは嬉しいのに、

 同時に、彼女の時間をわたしの弱さで曇らせてしまうのが申し訳なかった。


「何でもありません。甘いものを食べたら良くなるかもしれませんわ」


 自分でも驚くほど綺麗に、嘘が口をすべり落ちた。

 わたしは笑顔を作り、強引に注文を進めた。


 運ばれてきた特大パフェは、まるで宝石の盛り合わせのようだった。

 透明なグラスの中に、秋らしく瑞々しいマスカットがぎっしりと詰まり、

 その緑の輝きがカフェの照明に照らされて生き生きと光っている。

 その下には、ふわりと香るチーズクリーム。

 果実の爽やかさとコクが混ざりあい、視覚だけでも十分に贅沢だった。


 けれど――。


 わたしの胸の奥には、重い石が沈んでいくような感覚があった。

 甘い香りに包まれているのに、心の中は苦みばかり増していく。


 スプーンを握った手が、少し震える。

 今のわたしは細い糸だけで立っているような、不安定な心地だった。


 それでも口に運ぶ。

 果汁が広がるのに、味わうより先に喉がきゅっと締まる。


 ――兄さまは、今この瞬間も、もっと大変な場所にいる。


 その一思いが、胸の奥で強く響く。


 わたしが弱っていてどうするのだ、と。

 自分を叱咤するように、もう一口、パフェを頬張った。

 甘さが舌の上でほどけても、心は晴れず、

 ただ兄さまの無事だけを祈るように、静かにスプーンを握りしめていた。



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