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第22話 「聖人」として



 最近のレティシアは、まるで春の陽光そのものみたいに明るい。

 屋敷の廊下を歩く足取りは軽く、帰ってきたときの声は弾み、食卓では楽しげに今日の出来事を語る。


 あの、いつも他人の顔色を気にして怯えていた小さな肩が、ようやく伸びたのだと思うと、嬉しい。

 嬉しいのに、胸の奥がほんの少しだけ寂しくなってしまうのは、兄という役目を長く務めすぎたせいだろうか。


 パトリシア王女殿下――。

 二年前に留学から帰ってきた殿下と友人になったとレティシアが語ったとき、俺は思わず目を瞬かせた。

 あの方は、腹芸という言葉を知らないほど素直で、王族らしからぬ“真っ直ぐさ”を持っている。

 ジルベールとは真逆の意味で手のかかる王族だと思っていたが……今のレティシアには、あの真っ直ぐさが必要だったのかもしれない。


 屋敷の書斎に座り、のんびりと整理した書類に目を通しながら、俺はぼんやり考えていた。

 最近では王族も高位貴族も、大きな病に伏す者はひとりもいない。

 治癒士である俺のところへ緊急の使いが来ることもない。


 ――平穏。

 その言葉がようやく現実になったような日々だった。


 窓から射し込む午後の光は柔らかく、静かな館の空気は穏やかで、レティシアが幸せに過ごしていることが手に取るようにわかった。

 ああ、このまま続いてくれれば――そう思った、その矢先だった。


 


 屋敷に飛び込んできた騎士の荒い息遣いが、すべてを断ち切った。


「グランツ殿……王城へ。陛下が、ただちにとのことです」


 騎士の顔色は蒼白で、急ぎの任務であることを隠しきれていない。

 胸の内側が、冷たいものにぎゅうっと掴まれたように縮む。


 俺は深く息を吐き、静かに書類を閉じて立ち上がった。

 レティシアに聞かせなくてよかった――そんな考えが、まず脳裏に浮かんだ。


 


 王城の謁見の間は、いつにも増して静まり返っていた。

 高い天井に響く足音、赤い絨毯の奥で揺らめく燭台の炎。

 そのすべてが、これから告げられる言葉の重さを暗示していた。


「――同盟国の戦争に行ってほしい」


 国王陛下の声音は、覚悟を秘めたように低い。


 その瞬間、胸の内に広がったのは驚きではなく、淡い諦念に似たものだった。


 ……やっと来たか。


 幼い頃から、俺は“戦場で生きるための人材”として育てられてきた。

 骨が軋む訓練も、血と鉄の匂いが立ちこめる戦場も、自らの身体を実験台にした治癒魔法の習得も――すべて経験している。


 聖人、聖女とは名ばかり。

 その実態は、戦場を渡り歩く治癒士の称号だ。


 俺はその中でも〈本物〉として扱われる側の人間だという自覚がある。

 それでも、レティシアを守るために前線から意図的に距離を置き続けてきた。


「十年後に働くぶんを、今前借りしているだけだ」

 そう言い訳しては、戦場から退いてきた。


 王族の機嫌取り、高位貴族への根回し――全部、戦場に戻される流れを断つためだった。


 ……だが、もう限界なのだろう。


 陛下の説明は淡々としていた。

 戦況は激化し、同盟国は“聖人グランツ”を切望している。

 この国の外交を考えれば、これ以上拒めない。


 そして陛下は静かに続けた。


「行くのなら、レティシア嬢はこちらで守らせてもらう」


 その言葉で、胸の奥に引っかかっていた疑問が一気に形を持った。


――そうか。

 だからパトリシア王女はレティシアに接触したのか。


 身分を越えた友情――それだけではなく、王族としての責務もそこにあったのだ。

 その事実に、わずかに胸が温かくなる。

 妹のことを、ちゃんと考えてくれていたのだと。


「それでは、レティシアを……よろしくお願いします」


 深く頭を下げ、静かに告げる。

 言葉の重さが喉の奥をひりつかせた。




 夕暮れの光が長い廊下に斜めに射し込み、赤みを帯びた影が床に伸びていた。

 屋敷全体が、息を潜めているように静かだった。

 昼間はレティシアの笑い声が響き、侍女たちの足音が軽やかに行き交うはずの場所が、今は張り詰めた沈黙に飲まれている。


 玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、マーサが駆け寄ってきた。

 普段は穏やかな彼女の表情が、俺の顔を一目見た途端に固まる。

 その動きは、痛いほど正確だった。

 長年レティシアのそばで仕えてきた侍女ならではの勘の鋭さだろう。


「……とうとう行かれるのですね」


 絞り出すような声だった。

 マーサの手は、エプロンの布を強く握りしめ、わずかに震えている。

 俺はその震えを見て、ほんの少しだけ胸が締めつけられるのを感じた。


 静かに頷くと、彼女は苦しげに唇を噛み、真っ直ぐな目で言った。


「なにがあってもレティシアお嬢様はお守りします……どうか、ご無事で」


 その言葉は、単なる忠誠ではなく、願いでもあった。

 マーサもまた、レティシアを家族のように想っているのだと、痛いほど伝わってくる。


 胸が深く揺れた。

 俺は彼女の覚悟を受け止めるように息を吸い、静かに言葉を置く。


「レティシアには……他国への出張だと伝えてくれ。

 単なる仕事だ。力を認められて行くのだから光栄なことだ、と。

 ――心配しないで、と」


 本当のことを告げれば、あの優しい子は泣くだろう。

 泣いて、きっと俺に縋る。

 引き止めても責めない、それでも俺の胸にしがみついて離れない――そんな姿が容易に想像できた。


 だからこそ、彼女を不安にさせる真実は伏せた。

 嘘ではないが、真実でもない言葉を選び取ったのは、守るためだ。


 マーサは深く頭を下げ、小さく震える声で「必ず」と答えた。


 


 レティシアが大学院から戻るより先に屋敷を出なければならない。

 部屋に戻り、必要最低限の荷物を詰める。

 窓の外では夕日が完全に沈み、青紫の空に夜の気配が混じり始めていた。

 この屋敷を離れて戦地に向かうのは初めてではないはずなのに、今回は足がわずかに重い。


 玄関の大扉の前に立つと、胸にずしりとした重さがのしかかった。

 手袋越しに触れた取っ手は冷たく、ひやりとした感触が指先から腕へと伝わる。


 扉を開ける前、ふとレティシアの笑顔が脳裏によぎった。

 大学院の出来事を無邪気に語り、パトリシア殿下の話題になると嬉しそうに瞳を輝かせる。

 その笑顔を曇らせたくなかった。

 俺の決断で、あの子の日々を暗くしたくない――その一心だった。


 深く息を吸い、扉を押し開く。

 外の冷たい風が、ひゅうと頬を撫でる。


 背後で扉が閉まった瞬間、その音はやけに鋭く、重々しく響いた。

 まるで家そのものが別れの音を立てたように感じられる。


 振り返らずに歩き出しながら、心の奥で静かに呟いた。


「……元気でいろよ、レティシア」


 その言葉は夜風に溶けて、誰の耳にも届かない。

 届かなくていい。

 これは俺だけが胸に抱えていればいい想いだから。


 こうして俺は、妹の知らぬ間に、戦場へ向かうことを決めた。





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