第21話 無害な王女の隣は心地よくて
大学院に進学したその日、わたしの胸は、胸いっぱいに吸い込んだ春の空気みたいに、ふわりと軽く膨らんでいた。
長い冬を越えた庭園には色とりどりの花が咲き、やわらかい香りが風にのって漂ってくる。陽光は古い石造りの校舎を包みこむように照らし、どこまでも新しい季節の訪れを告げていた。
わたしはゆっくりと深呼吸をする。
――今日から、ここが、わたしの学び舎になる。
そう思うだけで、足取りが自然と軽くなった。高等部時代とは違う、もっと広くて自由な世界が、この校舎の向こうに広がっている。そんな期待が、胸の奥で小さく灯る。
白い大理石の回廊に入ると、天窓から差し込む光が床に反射し、淡い光の帯を描いていた。光が揺れて、まるでわたしの未来がきらきらと瞬いているように見える。
――ここでなら、きっと、前より強い自分になれる。
そう思った瞬間、自然と指先が震えた。嬉しさでもあり、不安でもあり、でも確かに“始まりの予感”があった。
その時だった。
角を曲がろうとしたわたしの耳に、軽やかな足音が響き、視線を上げた瞬間――思わず息を呑んだ。
金色の、きつい巻き髪が光を受けて虹の粒を散らすように揺れる。
まっすぐで透き通った碧眼。
気品を纏っているのに、驚くほど柔らかい表情。
――パトリシア王女だ。
ナノグディア王国の王女であり、ジルベール殿下の実姉。
つい最近まで隣国に留学していたはずで、わたしのような子爵家の娘とは本来まったく接点のないお方。
けれど、彼女はわたしを見ると、まるで旧知の友にでも会ったかのように微笑んだ。
「あら、ごめんなさい。ぶつかってしまうところでしたわね」
その一声だけで、空気がふっとあたたかくなる。
王族特有の威圧感などまったくなく、むしろ緊張しているのはこちらなのに、なぜか心がほどけていくようだった。
「わたくし、パトリシア・ナノグディアと申します。あなたは……」
「……大学院一年生の、レティシア・ワイズです」
名乗ると、殿下の顔がぱっと明るくなった。
「まあ! あなたがレティシア嬢なのね。弟がよく名前を出していましたのよ。
それに……あの聖人グランツの妹君なのでしょう?」
兄の名を王女の口から聞くという現実に、わたしの心臓は跳ね上がった。
兄は国随一の治癒士とはいえ、わたしはただの子爵令嬢だ。
そんなわたしが王女に話題にされるなど、夢にも思わず、頬が恥ずかしさで熱くなる。
「そ、そんな……わたしなんて……」
しどろもどろになると、殿下はくすりと上品に笑った。
「そんなに緊張なさらなくてよいのですわ。
ジルベールよりずっと話しやすいと、評判なのですよ?」
その軽やかな冗談に、胸のこわばりがすとんと解けた。
“わたしでも笑っていいのだろうか”と迷ったけれど、殿下の瞳があまりにも優しくて、思わず笑みがこぼれた。
そのまま会話は自然と、兄――聖人グランツの話題へ移る。
兄がどれほど努力家で、どれほど不器用で、けれど誰よりも人を救おうとする人なのか。
わたしが話すたびに、殿下は興味深そうに身を乗り出し、ときに驚き、ときに嬉しそうに相槌を返してくれた。
王女と子爵令嬢という身分の隔たりなど最初から存在しなかったかのように、会話は途切れることがなかった。
気がつけば、最初の緊張など、もうどこにも残っていなかった。
むしろ――胸の奥がふわりと温かくなっていく。
“この人となら、きっと仲良くなれる”。
そんな確信めいた想いが、光の帯のように静かに胸に差し込んだ。
それからというもの、わたしたちは不思議なほど自然に、寄り添うように親しくなっていった。
校舎へ向かう道は、朝の光に満ちていた。
敷き詰められた石畳が春の日差しを柔らかく跳ね返し、通学路の花壇には露がきらりと光っている。
そんな道を、わたしたちはいつも並んで歩いた。パトリシア殿下は王女らしい気品を保ちながらも、庶子爵家の娘であるわたしの歩幅に合わせて歩いてくれる。その優しさが、最初はくすぐったくて、でも次第にあたたかく胸に沁み込んでいった。
講義の合間には中庭のベンチに座り、湯気の立つ茶器を手に小さな時間を分け合った。
殿下が笑うたび、金の巻き髪が光を弾いて揺れ、わたしはふと、こんなにも明るい人が身近にいてくれることを不思議に思った。
本来ならば、王女と子爵令嬢が肩を並べ、気兼ねなく談笑するなどありえないことだ。
けれど殿下は、その「ありえなさ」を、まるで気にも留めていないようだった。
わたしに向ける視線はいつも穏やかで、優しい。そこには身分差からくる緊張も、傲慢さも一切なかった。
お昼も、わたしたちは一緒だった。
大食堂の窓辺の席に座ると、薄いカーテンが春風に揺れ、日の光が机いっぱいに広がる。温かな空気に包まれながら、わたしたちは他愛もない会話に花を咲かせた。
パトリシア殿下は、ジルベール王子よりもずっと清楚で、裏表がなく、心を読む必要がないほどまっすぐだった。
――少しだけ、騙されやすそうだな。
そんなことを思ってしまうほどに。
だから、わたしは警戒する必要を感じなかった。
人を疑うよりも先に、彼女のあたたかさのほうが胸に届く。
そんな出会いは初めてだった。
夕方、講義が終わる頃には廊下に長く影が伸びていた。
その影を踏みながら、わたしたちは自然と図書室へ向かった。
高い天井の下、静けさに包まれた空間で、肩を並べて書物を開く。時折ページをめくる音だけが響き、ふたり分の影が机に溶け合う。
そんな時間が、当たり前のように積み重なっていった。
――わたしは、この人と一緒にいると呼吸が楽になる。
そのことに気づいたのは、ある日の帰り道だった。
夕暮れの図書室を後にし、橙色に染まった渡り廊下を歩いていると、殿下がふいに足を止めた。
細い影が床に落ち、揺れる光の中で、殿下はわたしを真剣な眼差しで見つめた。
「レティシア嬢……わたくし、あなたが高等部で受けていた仕打ちを聞いておりましたの」
一瞬で、心臓が冷たい手で掴まれたように止まった。
忘れようと押し込めてきた痛みが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
――なぜ、そのことを。
視線が揺れる。
「……どなたに、それを……」
「マリアージュですわ」
思いがけない名前だった。
侯爵令嬢とはいえ、マリアージュがパトリシアと面識があったなんて。そして、話の種がレティシアだったなんて。
驚きで胸がいっぱいだ。
「彼女は昔からの友人で……あなたとようやく気兼ねなく話せる友人になれたと、とても喜んでおりましたわ。
ですが……あなたを守れなかったと、マリアージュは深く悔いていました」
殿下の碧眼が、静かに揺れた。
その瞳に、わたしのための痛みがにじんでいる。
胸がひどく締めつけられた。
「つらかったでしょう……わたくしがそばにいられればよかったのに……」
その言葉は、ひどく優しくて。
わたしが押し込めてきた痛みを包み込むように、そっと触れてきた。
「もう大丈夫です」と笑おうとした。
けれど、殿下の目に浮かんだ涙を見た瞬間、喉がひゅっと狭まり、言葉が消えた。
あの日々が確かに辛かったのだと、殿下の涙が教えてくれた。
殿下は王位継承権をすでに放棄しているという。
だからこそ、縛られずに真っ直ぐ生きていける人なのだろう。
その自由さが、こんなにも純粋な優しさを生むのだと知った。
薬学や治癒学の講義では、いつも殿下がわたしの隣に座った。
嫌な視線を感じると、わたしの前にすっと立ち、影を作ってくれる。
わたしが少し弱音を漏らすと、手を取って、温度ごと気持ちを支えてくれた。
――パトリシア殿下と並んで歩く日々は、
過去のわたしを、ゆっくりと癒してくれる。
大学院での生活は、兄の庇護とはまた違う優しさに満ちていた。
そしてわたしは、ようやく過去の自分から、一歩前へ進めているのだと実感していた。
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