第18話 これからもずっと、兄さまのそばで
学院のホールを後にして、友人たちと別れたあと、馬車に乗り込む。窓の外を流れる景色は、どこか現実感が薄れて見えた。心の奥に、ふっと安堵が広がる。今日一日、無事に首席で卒業できたこと、そして大切な人の前で胸を張れること……そのすべてを、ようやく自分のものとして受け止められる瞬間だった。
隣でマリアージュがぽつりと呟いた言葉が、まだ耳に残る。
「ブレないですわね、レティシアは」
その一言に、私は思わず小さく息をついた。ふふ、と微笑むわけでもなく、ただ心の奥でうなずく。意味は分かっている。学院にいる間、私が心を揺らすものはひとつしかない――グランツ。周囲の好意や期待、羨望の眼差しなどは、私の心を動かすことはできない。ただひとり、彼の評価、彼の存在だけが、私の世界の中心にある。
学年を重ねるごとに、多くの男子生徒が私に近づき、言葉をかけ、誘い、時には思わせぶりな態度を取った。しかし、私にとってそれらはすべて面倒事でしかなかった。相手を傷つけず、角を立てず、でも自分の意思を曲げずに断ることは、ときに重く、面倒な作業だった。「あなた誰でしたっけ? 興味のない人を覚えられないタチでして、ごめんなさいね」と、正直に言えたならどれほど楽だろう、と思うこともあった。
でも、私のすべての振る舞いは、結局グランツの目に届くものだった。それが分かっているから、私は決して油断できない。小さな失敗や甘えも、彼の評価に影響を及ぼすかもしれない。だからこそ、日々の努力は欠かせなかった。
教師からの過度な重圧、同級生からの嫉妬、下級生からの羨望――
すべてを一手に受け止め、「レティシア・ワイズ」としての存在を守ることは、時に孤独で、時に息苦しかった。それでも、私は頑張れた。頑張る意味があったからだ。
疲れた日は、帰宅するとすぐにグランツの胸に飛び込み、何とか理由を捻り出して甘える。今日もそうだった。
「今日はお茶会の抜き打ちテストで満点でした」
「階段から落ちそうだった下級生を助けたんです」
声を詰まらせながら告げると、抱きしめてもらい、頭を撫でてもらい、額にそっとキスをされる。外から見れば、まるで恋人同士のように見えるだろう。しかし、グランツの瞳には熱はなく、静かで穏やかで、凪いだ湖面のような光が宿っていた。その静けさに、私は心底安堵する。
――それでいい。
異性として見られなくても、私は構わない。ただ、グランツのそばにいることができれば、それで十分なのだ。彼とずっと一緒にいるためなら、私は自分を犠牲にしてでも、努力し続ける覚悟がある。疲れても、挫けそうになっても、この想いが私を支えてくれる。
胸の奥で静かに燃える炎が、今日の私をここまで導いたのだと確信する。
馬車の揺れに身を任せながら、私はそっと目を閉じる。ふと、あの穏やかな瞳を思い浮かべる。あの瞳に認められ、受け入れられることが、私にとって何よりの喜びであり、何よりの励ましなのだと。
――これからも、ずっと、兄さまのそばで。
その思いを胸に、私は馬車の窓越しに広がる街の景色を静かに眺める。今日の疲れも、誇らしさも、安堵も、すべてが混ざり合い、温かく胸に満ちていった。
馬車が我が家に着き、扉が開くと、ふっと肩の荷が降りるのを感じた。今日一日、学院で首席として凛と振る舞い、多くの視線を受け止め、緊張と責任を背負ってきた。――やっと、「ただのレティシア」でいられる瞬間。胸の奥が、静かにほぐれる。
「レティシア、おかえり。早いね、友達は?」
「マリアージュ様たちはこれから花嫁修業ですからね。私はあと一ヶ月で大学院への進学を控えています。今日だけ兄さまとマーサと遊んで、明日からは勉強の日々に勤しもうかと」
言葉を交わすたび、私の心はふわりと温かくなる。グランツの声の響き、そこに混ざる穏やかな笑い、そして彼の体臭――料理の匂いとほんのり混じった汗の香りまでもが、私にとっては心地よい安堵の香りだ。あぁ、帰ってきたのだ。ここに、彼がいる。そう思うだけで、全身の力が抜けていく。
「レティシアはえらいなぁ。もうすぐ夕食だから、着替えてこい」
優しく告げるその声に、私の心は自然と震えた。誇らしい気持ちと、守られている安堵感、そして彼の視線に認められている幸福。すべてが入り混じり、胸の奥で小さく火が灯る。
家に入ると、想像以上に豪華なパーティーの準備が整っていた。大好きな柑橘類をふんだんに使ったサラダ、甘い香りの特大ケーキ、色とりどりのデザートたち……視覚だけで心が満たされる。子どもの頃、誕生日を知らずにお祝いされたあの日のことが、ふわりと蘇る。あのときも、彼の存在が私を安心させてくれたのだと、改めて感じる。
鶏肉を頬張る私の手元に、グランツが白ぶどうジュースの入ったグラスを差し出す。「せっかくだから」と手に取り、くるくると回して口に含むと――
「あ、それ白ワインだよ、レティシア」
「……っ!げほっげほっ」
むせてしまった。お酒、と聞くと、つい身構えてしまう。だが、グランツの心配そうな声が耳に届く。
「大丈夫か!? 不味かったなら吐いていいぞ」
「白ワインって聞いてびっくりしただけなので、平気です」
勇気を振り絞って残ったワインを飲み干すと、甘くて濃厚な香りが喉に絡みつく。砂糖たっぷりの生クリームが溶けるように、舌と胸の奥で甘さが広がる――ちょっと苦しい。でも、それは心地よい苦しさだった。まるで私とグランツの関係みたいだ。少し胸が締め付けられるけれど、それもまた愛おしい。
「美味しい」と口にすると、自然に笑みがこぼれ、思わずおかわりをねだる。グランツは嬉しそうにグラスを満たしてくれる。その仕草ひとつひとつに、私は胸の奥がきゅんと鳴るのを感じる。――これは、彼が私のために選んでくれたのだ。私のためだけに。
お酒の甘さに包まれながら、私はふわふわとした気分に浸る。視界が少しぼやけ、笑顔が自然にこぼれ、心は浮き立つ。グランツの微笑みや、ほんのわずかに細くなる目元を見ていると、ますます幸せな気持ちが満ちていく。喜んでもらえているのがわかる。――私も、嬉しい。
やがて酔いは体にゆるやかに染み込み、重力が遠ざかるような、ふわふわと宙に浮く感覚になる。マーサに手を貸され、ベッドへ運ばれると、普段の凛とした私はすべて脱ぎ捨て、少女のような無防備な私が現れる。髪を丁寧に梳かされ、ふかふかの布団に包まれながら、意識は少しずつ薄れていく。
――今日という日は、私が心から、兄さまのためだけに楽しむ日だった。
胸の奥には、甘いお酒の余韻と、彼への感謝、そして深く強い執着――いつまでもそばにいたい、守られたいという思いが、静かに広がっていた。眠りに落ちるその瞬間、私は自分がどれほど彼に依存し、どれほど彼に救われ、どれほど彼の存在を必要としているかを、改めて実感したのだった。
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