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第1話 不幸な灰少女へ



 レティシアが、スプーンを咥えたまま眠ってしまった。

 透き通るような頬に、淡く光が射している。

 火の消えかけたランプの灯が、匙の銀面に反射して、彼女の唇を柔らかく照らしていた。


 その光が、あまりに静かで――息をするのもためらわれた。

 グランツは手を伸ばし、そっとスプーンを抜き取った。

 金属の冷たさが指に残る。

 ああ、この子は、こんな冷たいものを口にしたまま眠らねばならなかったのか。

 思えば、それだけでも、胸が痛むほどのことだった。


 少女の髪は、煤けた灰のようにきめ細かに、光を吸い込んでいた。

 肩に落ちるその髪を指でほどくと、乾いた音がした。

 梳かれることも、抱きしめられることも、どれほど久しくなかったのだろう。


 グランツは、彼女を抱き上げた。

 骨と皮のあいだに、かすかな温もり。

 その温もりを失わぬよう、そっと腕を支える。

 息を詰めて運ぶたびに、腕の中の重さが、胸の奥に沈んでいった。

 軽い。

 本当に軽い。

 まるで生きるということの重みすら、誰かに奪われたかのようだった。


 ベッドに寝かせると、天蓋の薄布がふわりと揺れた。

 レース越しに見える横顔は、まるで祭壇の上の祈りの像のようで、指先を触れるのも憚られた。

 彼女のまつげに影が落ち、唇は微かに震えていた。

 夢を見ているのか、それとも、まだあの地獄をさまよっているのか。


 治癒の魔術をかける。

 光は白く、やわらかに彼女の肌を撫でた。

 小さな傷がゆっくりと閉じ、血の色が薄れていく。

 けれど、その光の下で浮かび上がるのは、まだ消せない――火傷で爛れた皮膚、細い手首のあざ、無理やり押さえつけられた痕跡。

 それらが、まるで彼女の歴史そのもののようで、グランツは目を逸らせなかった。







 一度だけ、彼女が暴力を振るわれている場面を、見たことがある。


 あれは、本家の当主が新年に分家や寄子の当主たちを集め、新年の祝いと領地経営方針を決める会が催された、冬の終わりを告げる曇り空が広がる、薄寒い日だった。

 伯爵邸の玄関先には、金と黒の紋章旗が掲げられ、客人を迎えるための香が焚かれていた。

 だがその香りは、祝祭のものではなかった。――ただ金をかけただけの、空虚な、妙に胸焼けのする焦げた砂糖と、血税を洗い流した後の鉄の匂いが、わずかに混じっていた。


 広間の扉を押すと、空気は重かった。

 贅を尽くした大理石の床。

 金の燭台、深紅の絨毯。

 高窓から差し込む光は白く、まるで血の気を抜かれた死体のように冷たかった。

 人々は華やかな衣を纏いながらも、誰ひとり笑ってはいなかった。

 伯爵家の分家や寄子の当主──つまり格下。

 彼らはただ、伯爵やその夫人の機嫌を伺い、盃の中でワインを回している。

 口元では笑い、瞳の奥では互いをどう貶すか、どう自分を持ち上げるかと思案する――そういう、吐き気を催す会。


 そして、呼ばれたのだ。

 「おい、お前。来い」


 グランツは思わず、指先が止まった。

 ゆら、と空気が揺れる。

 階段の上から現れたのは、白い――いや、灰色の少女だった。


 奴隷が着るような布切れのようなワンピース。

 足首まで垂れた髪は、手入れのされていない灰色。

 足には靴もなく、裸足のまま。

 肌には無数の青痣が滲み、唇は乾いてひび割れていた。

 その姿に、場の誰もが息を呑んだ。

 けれど、誰も声を上げなかった。


 当主が手招きをした。

 少女は、機械仕掛けのようにゆらゆらと歩み寄る。

 その動きには命がなかった。

 人形のように、ただ命令に従って動くだけ。

 そして――音を立てて頬を打たれた。


 小さな身体が宙を舞い、ずさ、と倒れたまま、動かない。


 「これは顔はいいが、少々、女として足りなくてな」

 当主の声は、笑っていた。

 「十三になったら、そういう癖のある金持ちに売る予定だ。その金を使って皆でぱーっと飲もうではないか!」


 少しの静寂。後。

 は、はは。乾いた笑いと拍手がこだまする。

 虚無を伴った称賛が、広間を満たした。

 当主と夫人は満足そうに頷いている。

 それ以外はただ、媚び、恐れ、沈黙が混じった模倣を、貫いた。


 グランツの視界が、ゆらりと歪む。

 グランツは、治癒士だ。日々傷や病を治すことを使命に働いている。

 なので、痛みには敏感だった。血を流すことがどれほど苦痛かを知っていた。

 ふと、ワインの赤が血の色に見えた。

 金の燭台が、炎ではなく、焼け爛れた魂の残骸のように揺れて見えた。


 誰も、立ち上がらない。

 誰も、少女を庇わない。

 それが貴族という生き物なのだ。

 品格という仮面の下に、醜悪な臓腑を隠した連中。


 ――この血は、腐っている。


 グランツは杯を握り潰しそうになった手を、なんとか押さえた。

 誰にも気づかれないよう、少女に治癒の魔術を贈る。それでも少女は動かない。

 破片を手の中で噛み殺すようにして、ただ、祈るように心で呟いた。


 ……もう少しだけ、耐えていてくれ。


 グランツはその日、初めて伝統ある伯爵家に連なる人間であることを、何よりも誇りを重んじる貴族であることを、恥じた。

 誇りと命、どちらが大切だろうか。


 そして決めた。

 ――次に会う時、この少女を必ず救い出す、と。

 あの当主の口ぶりからして、もうすぐ少女は売られるのだろう。

 その日から、グランツは人身売買の証拠収取に没頭した。


 そして告発の筆を執った夜、グランツは震えながら署名をした。

 自分の生まれた血の一部を捨てた。

 社交界で発言力のある伯爵家の名を、立場を、誇りを――それらすべてを、ひとりの少女の命に代えた。

 だから、もう迷わなかった。







 今、この部屋の中にあるものはすべて、レティシアのために選ばれた。

 窓辺のカーテンは、春の朝の光のように淡い色をしている。

 刺繍の小花は、雪の精霊、という花言葉を持つものを。

 絵皿には、雪景色の小さな風景が描かれている。

 白を基調とした部屋のなかに、ひとつだけ色がある。

 枕元の小瓶に差された花――薄青のすみれ。

 香りはほとんどない。ただ、そこに小さな春のような温もりがあった。


 この部屋を整えることは、祈りに似ていた。

 過去の痛みを薄めるための、儀式のようでもあった。

 彼女が目を覚ますたび、少しずつ表情がやわらぐのを見て、グランツは心の奥で息をついた。

 この部屋が、レティシアの安息になるように。


 それでも――夜になると、沈黙が重くなる。

 彼女の寝息を聴きながら、グランツは灯を見つめていた。

 オイルランプの光が、壁を這い、カーテンを照らし、彼の影を長く伸ばしていく。

 その影の中で、彼は自問した。

 救うとは何だ。守るとは、どこまでを言うのか。


 レティシアの頬に、ひとすじの涙が伝った。

 眠ったまま、涙するのだ。

 夢の中で泣くほどに、彼女はまだ痛みの中にいるのだ。

 グランツはその涙を指で拭った。

 指先が触れた瞬間、彼自身の胸の奥が痛んだ。

 それは、親が子を思う感情だろうか。

 いや、もっと静かで、もっと深い――

 人が人を救うときに、初めて生まれる痛みのようなものだった。


 月光が天蓋のレースを透かし、白く部屋を染めた。

 グランツは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組む。

 彼の呼吸と、少女の寝息が、ゆっくりと重なっていく。


 「もう、泣かなくていい。俺が守るから」


 声には出さず、唇だけが動いた。

 その言葉は空気に溶け、静かな夜の中に沈んでいった。





いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




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