第1話 不幸な灰少女へ
レティシアが、スプーンを咥えたまま眠ってしまった。
透き通るような頬に、淡く光が射している。
火の消えかけたランプの灯が、匙の銀面に反射して、彼女の唇を柔らかく照らしていた。
その光が、あまりに静かで――息をするのもためらわれた。
グランツは手を伸ばし、そっとスプーンを抜き取った。
金属の冷たさが指に残る。
ああ、この子は、こんな冷たいものを口にしたまま眠らねばならなかったのか。
思えば、それだけでも、胸が痛むほどのことだった。
少女の髪は、煤けた灰のようにきめ細かに、光を吸い込んでいた。
肩に落ちるその髪を指でほどくと、乾いた音がした。
梳かれることも、抱きしめられることも、どれほど久しくなかったのだろう。
グランツは、彼女を抱き上げた。
骨と皮のあいだに、かすかな温もり。
その温もりを失わぬよう、そっと腕を支える。
息を詰めて運ぶたびに、腕の中の重さが、胸の奥に沈んでいった。
軽い。
本当に軽い。
まるで生きるということの重みすら、誰かに奪われたかのようだった。
ベッドに寝かせると、天蓋の薄布がふわりと揺れた。
レース越しに見える横顔は、まるで祭壇の上の祈りの像のようで、指先を触れるのも憚られた。
彼女のまつげに影が落ち、唇は微かに震えていた。
夢を見ているのか、それとも、まだあの地獄をさまよっているのか。
治癒の魔術をかける。
光は白く、やわらかに彼女の肌を撫でた。
小さな傷がゆっくりと閉じ、血の色が薄れていく。
けれど、その光の下で浮かび上がるのは、まだ消せない――火傷で爛れた皮膚、細い手首のあざ、無理やり押さえつけられた痕跡。
それらが、まるで彼女の歴史そのもののようで、グランツは目を逸らせなかった。
◆
一度だけ、彼女が暴力を振るわれている場面を、見たことがある。
あれは、本家の当主が新年に分家や寄子の当主たちを集め、新年の祝いと領地経営方針を決める会が催された、冬の終わりを告げる曇り空が広がる、薄寒い日だった。
伯爵邸の玄関先には、金と黒の紋章旗が掲げられ、客人を迎えるための香が焚かれていた。
だがその香りは、祝祭のものではなかった。――ただ金をかけただけの、空虚な、妙に胸焼けのする焦げた砂糖と、血税を洗い流した後の鉄の匂いが、わずかに混じっていた。
広間の扉を押すと、空気は重かった。
贅を尽くした大理石の床。
金の燭台、深紅の絨毯。
高窓から差し込む光は白く、まるで血の気を抜かれた死体のように冷たかった。
人々は華やかな衣を纏いながらも、誰ひとり笑ってはいなかった。
伯爵家の分家や寄子の当主──つまり格下。
彼らはただ、伯爵やその夫人の機嫌を伺い、盃の中でワインを回している。
口元では笑い、瞳の奥では互いをどう貶すか、どう自分を持ち上げるかと思案する――そういう、吐き気を催す会。
そして、呼ばれたのだ。
「おい、お前。来い」
グランツは思わず、指先が止まった。
ゆら、と空気が揺れる。
階段の上から現れたのは、白い――いや、灰色の少女だった。
奴隷が着るような布切れのようなワンピース。
足首まで垂れた髪は、手入れのされていない灰色。
足には靴もなく、裸足のまま。
肌には無数の青痣が滲み、唇は乾いてひび割れていた。
その姿に、場の誰もが息を呑んだ。
けれど、誰も声を上げなかった。
当主が手招きをした。
少女は、機械仕掛けのようにゆらゆらと歩み寄る。
その動きには命がなかった。
人形のように、ただ命令に従って動くだけ。
そして――音を立てて頬を打たれた。
小さな身体が宙を舞い、ずさ、と倒れたまま、動かない。
「これは顔はいいが、少々、女として足りなくてな」
当主の声は、笑っていた。
「十三になったら、そういう癖のある金持ちに売る予定だ。その金を使って皆でぱーっと飲もうではないか!」
少しの静寂。後。
は、はは。乾いた笑いと拍手がこだまする。
虚無を伴った称賛が、広間を満たした。
当主と夫人は満足そうに頷いている。
それ以外はただ、媚び、恐れ、沈黙が混じった模倣を、貫いた。
グランツの視界が、ゆらりと歪む。
グランツは、治癒士だ。日々傷や病を治すことを使命に働いている。
なので、痛みには敏感だった。血を流すことがどれほど苦痛かを知っていた。
ふと、ワインの赤が血の色に見えた。
金の燭台が、炎ではなく、焼け爛れた魂の残骸のように揺れて見えた。
誰も、立ち上がらない。
誰も、少女を庇わない。
それが貴族という生き物なのだ。
品格という仮面の下に、醜悪な臓腑を隠した連中。
――この血は、腐っている。
グランツは杯を握り潰しそうになった手を、なんとか押さえた。
誰にも気づかれないよう、少女に治癒の魔術を贈る。それでも少女は動かない。
破片を手の中で噛み殺すようにして、ただ、祈るように心で呟いた。
……もう少しだけ、耐えていてくれ。
グランツはその日、初めて伝統ある伯爵家に連なる人間であることを、何よりも誇りを重んじる貴族であることを、恥じた。
誇りと命、どちらが大切だろうか。
そして決めた。
――次に会う時、この少女を必ず救い出す、と。
あの当主の口ぶりからして、もうすぐ少女は売られるのだろう。
その日から、グランツは人身売買の証拠収取に没頭した。
そして告発の筆を執った夜、グランツは震えながら署名をした。
自分の生まれた血の一部を捨てた。
社交界で発言力のある伯爵家の名を、立場を、誇りを――それらすべてを、ひとりの少女の命に代えた。
だから、もう迷わなかった。
◆
今、この部屋の中にあるものはすべて、レティシアのために選ばれた。
窓辺のカーテンは、春の朝の光のように淡い色をしている。
刺繍の小花は、雪の精霊、という花言葉を持つものを。
絵皿には、雪景色の小さな風景が描かれている。
白を基調とした部屋のなかに、ひとつだけ色がある。
枕元の小瓶に差された花――薄青のすみれ。
香りはほとんどない。ただ、そこに小さな春のような温もりがあった。
この部屋を整えることは、祈りに似ていた。
過去の痛みを薄めるための、儀式のようでもあった。
彼女が目を覚ますたび、少しずつ表情がやわらぐのを見て、グランツは心の奥で息をついた。
この部屋が、レティシアの安息になるように。
それでも――夜になると、沈黙が重くなる。
彼女の寝息を聴きながら、グランツは灯を見つめていた。
オイルランプの光が、壁を這い、カーテンを照らし、彼の影を長く伸ばしていく。
その影の中で、彼は自問した。
救うとは何だ。守るとは、どこまでを言うのか。
レティシアの頬に、ひとすじの涙が伝った。
眠ったまま、涙するのだ。
夢の中で泣くほどに、彼女はまだ痛みの中にいるのだ。
グランツはその涙を指で拭った。
指先が触れた瞬間、彼自身の胸の奥が痛んだ。
それは、親が子を思う感情だろうか。
いや、もっと静かで、もっと深い――
人が人を救うときに、初めて生まれる痛みのようなものだった。
月光が天蓋のレースを透かし、白く部屋を染めた。
グランツは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組む。
彼の呼吸と、少女の寝息が、ゆっくりと重なっていく。
「もう、泣かなくていい。俺が守るから」
声には出さず、唇だけが動いた。
その言葉は空気に溶け、静かな夜の中に沈んでいった。
いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!
ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。
ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




