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第15話 吐くほどの恐怖と治癒士の宴



 グランツの目には、日に日に、レティシアの心が壊死するように見えていた。

 それは、静かに沈んでいく小舟を見ているようだった。

 声も立てず、ただ、少しずつ。目に見えない速度で。


 朝食の席に座っても、彼女の皿はほとんど減らない。

 パンを一片ちぎり、スープをわずかに啜り――そして、俯く。

 箸を持つ指が震えている。食欲ではなく、義務のために口を動かしているように見えた。

 以前は、マーサと笑いながら食卓の味を語っていたのに。

 今では、彼女の笑い声の余韻すら、屋敷から消えていた。


 グランツは、無理に促すことはしなかった。

 食べろと言葉にしてしまえば、きっとレティシアは笑顔を作って無理をする。

 それが余計に苦しめると、もうわかっていたからだ。


 だが、ある夜――

 書斎から水を取りに出た廊下で、彼は小さな嗚咽を聞いた。

 その声を、彼は聞き間違えようがなかった。

 レティシアだった。


 扉の隙間から漏れる灯り。

 静まり返った屋敷に、ひとつだけ、苦しげな音が響く。

 洗面所の前に立ち、グランツは息を止めた。

 聞くに堪えない音だった。

 喉の奥を焼くような、吐き戻す音。

 そして、その後を追うように「ごめんなさい、ごめんなさい」と掠れた声。

 泣きながら繰り返されるその言葉は、まるで呪いだった。

 誰に向けてなのかもわからない、無限の謝罪。

 彼女がどれほど自分を責めているのか、その瞬間に初めて知った。


 グランツはゆっくり扉を開けた。

 床に膝をつき、震える肩。

 白い指先が冷たい陶器を掴み、吐き戻した後に、ただ「ごめんなさい」と泣いていた。


 彼は、そっとその背中に手を置いた。

 髪を束ねるリボンがほどけかけている。

 「もういい」とも、「なぜ」とも言えなかった。

 何を言っても、彼女の罪悪感の上に、さらに重石を乗せてしまうようで。


 しばらくの間、ただ背を撫で続けた。

 掌の下で、細い背骨が呼吸に合わせて上下する。

 それを確かめながら、彼はひとつだけ願った。

 どうか、この小さな身体から、命の灯が消えませんように、と。




 翌朝、マーサを呼び、尋ねた。

 「最近、レティシアが何か話していなかったか?」

 マーサは困ったように首を振る。

 「特には……。お部屋では本を読んでいらっしゃるか、刺繍をされています。ただ、以前よりずっと静かで……笑わなくなりました」


 笑わなくなった。

 その言葉が、胸の奥で鈍く響いた。


 ――また、あの頃のようになるのか。


 何も映さない瞳。何も感じない微笑。

 かつて、彼が初めて出会った頃のレティシアの、あの「死んだような眼差し」を思い出す。

 あれだけは、二度と見たくない。

 もう一度、彼女を地獄に戻すわけにはいかない。


 グランツは、夜更けまで書類に目を通しながら、心の奥で何度も考えた。

 彼女にできることは何か。

 薬草か、魔術か、それとも――ただの人間的なぬくもとか。


 結論が出ないまま、夜が明けた。

 けれど、朝の光の中で、彼はひとつの案を思いついた。


 少しでも外の空気を吸わせよう。

 人の声、音、色。世界の温度を思い出させてやりたい。


 治癒士たちの研究集会。

 年に一度、王都の中央ホールで開かれる、学術と交流の場。

 出席者はほとんどが研究者気質で、恋や噂には興味がない。

 彼らにとっての「情熱」は、愛でも権力でもなく、実験結果だ。

 それなら、彼女に余計な気苦労はさせずに済む。


 その日の午後、グランツはティータイムの席で切り出した。

 「レティシア。来週、治癒士の集会がある。私と一緒に来てくれないか」


 ティーカップを持つ彼女の手が、わずかに止まった。

 そして、長い沈黙。

 やがて、彼女は小さく頷いた。


 「……行きます。兄さまと一緒なら」


 グランツは、目の奥が熱くなるのを感じた。

 ようやく、ほんの少し、春の風が吹いたような気がした。

 それは小さな一歩だった。




 準備の日。

 マーサと共にドレスを選ぶことになったが、レティシアは一言だけ言った。

 「……グランツ兄さまと、同じ色味がいいです」

 それきり、唇を閉じたまま。視線を合わせようとしない。


 だから、グランツが代わりに選んだ。

 深海の色――群青と黒のあいだに沈む、静謐な青。

 布地は光の角度でわずかに緑を帯び、まるで海底で眠る宝石のようだった。

 その色は、レティシアの白銀の髪と肌をいっそう際立たせた。

 彼女の身体が薄い光でできているように見えた。


 グランツは、自分も彼女に合わせて正装を整える。

 黒の治癒士服に、群青色のベストとタイ。

 並んだ時に、彼女が少しでも安心できるように――その小さな願いを込めた。


 そして当日。

 鏡の前に立つレティシアを見た瞬間、グランツは息を呑んだ。

 月光が海面を滑るように、彼女の姿が輝いていた。

 纏うドレスは夜の海、そこに散る銀の髪は波のきらめき。

 グランツが贈った銀のバレッタが、光を柔らかく反射している。

 彼女はそっと礼をして、彼の腕を取った。


 「レティシア、綺麗だ」

 「……グランツ兄さまも、素敵ですよ」


 その声の端にかすかな震え。

 それでも彼女は、微笑もうとしていた。

 その健気さに、グランツは胸の奥が温かく、そして痛んだ。


 会場は光と香りの渦だった。

 高い天井に吊るされたシャンデリアは万の光を撒き、

 貴族たちの笑い声と弦楽の旋律が交じり合う。

 花の香水と、酒と、蝋燭の甘い匂い。

 そのきらめきの中を、二人は静かに歩いた。

 まるで騒がしい夢の中を進むように。


 ――主催は国王陛下。

 治癒士たちを労うための、無礼講の宴。

 今夜ばかりは王城の重々しさも消え、黄金の灯りが温かく揺れていた。


 「おお、グランツ。わしからの紹介を避け続けていたお前に、ようやく春が来たか!」

 からかうような国王の笑い声が、響いた。

 「……して、そちらのご令嬢は?」

 「陛下、私は結婚など……はぁ。レティシア、ご挨拶を」


 促され、レティシアは一歩進む。

 深海のドレスが静かに波打ち、裾が光をすべらせる。

 「お初にお目にかかります。ワイズ子爵の妹、レティシアにございます」

 かすかに震える声。

 それでも礼の所作は完璧で、その姿に一瞬、周囲のざわめきが止んだ。


 だがグランツにはわかった。

 彼女の手が冷たい。

 緊張ではない――恐怖の冷たさだ。

 だから、彼はそっと手を伸ばして腰を支えた。

 レティシアは俯き、震える唇を噛んで、それでも笑おうとした。

 その耳までが赤く染まっている。


 「ふむ、レティシア嬢か。息子からよく聞いている」

 その言葉に、グランツの喉が詰まる。

 息子――。


 「ほら、ジルベール。こちらに来なさい」


 国王が軽く顎をしゃくる。

 視線の先、金糸のような髪が光を返しながら、ゆっくりと近づいてくる。

 白い正装、穏やかな笑み。

 第一王子、ジルベール。


 「お久しぶりです、ワイズ子爵。いや……今は“聖人グランツ”と呼んだ方がいいかな?」

 柔らかな声。だがその瞳の奥は、ひどく冷たい。

 レティシアはその瞬間、扇を取り出して顔を隠した。

 グランツには見えた――彼女の手が細かく震えているのが。

 扇の影で、唇がわずかに噛み締められ、呼吸が浅くなっていくのが。


 空気が変わった。

 周囲の笑い声が遠ざかり、音楽が薄くなっていく。

 グランツの耳には、彼女の荒い呼吸と鼓動だけが響いていた。


 「これはジルベール様。本日は何用で?」

 「陛下が社会見学に、とのことでね。宴のひとつも開けぬ王など聞いたことがない、だろ?」

 軽やかに見える言葉が、刃のように空気を切る。


 国王は愉快そうに笑い、何の悪意もなく言った。

 「ジルベール、わしはグランツと少し話がある。レティシア嬢に会場を案内してやりなさい」


 その瞬間、世界が音を失った。


 レティシアの肩がびくりと跳ねる。

 瞳が見開かれ、そこに走った光が、一瞬で消える。

 表情が――凍った。

 あの透明な瞳が、次の瞬間にはガラスのように曇っていく。

 唇が震え、息が詰まる音がした。


 「……いや……」

 それは声ではなく、息の欠片だった。

 肌の血の気が一気に引き、体から力が抜けていく。


 グランツが呼ぶより早く、膝が崩れた。

 ドレスの裾がふわりと広がり、深い青の布が床を滑る。

 白銀の髪が揺れて、かすかな光を散らした。

 倒れるその一瞬、彼女の瞳には何も映っていなかった。


 「レティシア!」

 グランツは反射的に抱きとめる。

 軽い。驚くほどに、軽かった。

 抱き上げた腕の中で、彼女は小さく震え、声を失っていた。


 「申し訳ありません。体調が優れないようで、これで失礼いたします。

  陛下へのご挨拶は、改めて」


 その声は冷静を装っていたが、喉が震えていた。

 人々のざわめき、視線、貴族の噂――そんなものはどうでもいい。

 ただ、彼女を守る。それだけを考えていた。





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