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第15話 子爵令嬢ごときが



 ――あの日を境に、世界が少しずつ、確実に歪んでいった。


 ジルベール殿下が「興味を持った」と公然と告げた――それだけで、空気が変わった。

 講堂の壁に張りついていた無数の視線が、ある日を境に、すべてレティシアへと向かうようになった。


 最初はほんの小さな違和感だった。

 休み時間に近くを通るたび、ひそひそと囁く声。

 黒板にチョークがこすれる音や、机の脚を引く音が妙に鋭く響く。

 誰も名指しはしない。けれど、笑いの輪の中心にはいつも自分の名前がある――そんな確信が、日ごとに膨らんでいった。


 マリアージュだけが、変わらずそばにいてくれた。

 彼女の穏やかな声や気遣うような微笑みが、今では唯一の救いだった。

 けれど、その優しさすら、胸の奥に小さな棘を残した。

 ――心配をかけている。迷惑をかけている。

 助けようとしてくれる手を、何度も「大丈夫」と笑って振りほどく。

 そうしなければ、自分が弱い人間であることを認めてしまいそうだった。




 登校の朝。

 学院の門前で馬車が止まると、必ずジルベール殿下が先に降りて手を差し伸べる。

 白い手袋。陽光を受けてきらめく金髪。

 「おはよう、レティシア嬢」

 完璧な微笑み。その一瞬の輝きに、周囲の女子たちが息を呑む。


 だが、レティシアにとってそれは、歓喜ではなく恐怖だった。

 手を取る。ほんの一瞬。指先に伝わるのは、冷たく整いすぎた感触。

 優しさの形をしているのに、そこには一片の自由もない。

 逃げ場を塞ぐために差し出された鎖のようだった。


 「どうかしたか?」

 わずかに力をこめた王子の声。

 その響きが怖くて、咄嗟に微笑む。

 「いえ……その、眩しくて」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、笑っておかなければと思った。


 休み時間には、護衛と側近を連れて教室を訪れる。

 そのたびに、女子たちの息が詰まり、男子たちの表情が微妙に歪む。

 「どうして彼女なんだ」――そんな無言の問いが、空気を震わせていた。


 昼食も、図書館も、廊下も。

 どこへ行っても、彼がいる。

 まるで、自分の一挙一動を確かめに来るかのように。

 “偶然”が重なりすぎて、次第に呼吸の仕方すら分からなくなっていった。


 ――笑わなきゃ。

 怯えた顔を見せれば、噂が広がる。

 「王子に生意気だ」

 「せっかく気に入られているのに」

 そんな言葉を浴びるのはもう嫌だった。


 だから、笑った。

 唇の端だけを動かす、作り物の笑顔。

 けれど、それを維持するにはあまりにも多くのエネルギーを使った。

 頬がこわばり、顎が痛くなる。

 笑うたび、奥歯の内側がきしりと鳴る。


 ――大丈夫。大丈夫。

 昔に比べれば、まだまし。

 手を出されていない。殴られてもいない。

 痛みはない。だから、大丈夫。


 そう繰り返すたびに、胸の奥で何かが軋んだ。

 心臓が嫌なリズムで打つ。

 冷や汗が手のひらを湿らせる。

 唇の裏で小さく唱えた「大丈夫」という言葉が、

 まるで錆びついた刃のように舌を切った。


 ジルベールの優しさは、まるで檻だ。

 光のように見える笑顔の奥で、彼はすべてを掌握している。

 そのことに気づきながらも、誰にも言えなかった。

 言えば、信じてもらえない。

 誰も、完璧な王子が人を追い詰めるなどとは思わないだろう。


 ――逃げられない。


 そう思った瞬間、世界がひどく狭く見えた。

 学院の白い廊下は果てしなく長く、窓から差し込む光がやけに冷たい。

 歩けば足音が反響し、心臓の鼓動と重なって響く。

 その音が、まるで自分の崩壊のカウントダウンのように思えた。


 それでも歩く。

 笑う。

 微笑む。


 そうして、自分の心をすり減らしながら。




 けれど、レティシアを蝕んだのは王子ではなかった。

 ――周囲の、女生徒たちだった。


 ある昼下がり。

 中庭の噴水のそばで、春の風に揺れる木漏れ日をぼんやりと見つめていたときのことだ。

 マリアージュを待つために、ベンチに腰を下ろしていた。

 上階の窓から、甲高い笑い声がしたと思った瞬間、

 頭上から、冷たい衝撃が落ちてきた。


 びしゃり、と。

 肩から背、そして足元まで、一瞬でずぶ濡れになった。

 水滴が頬を伝い、襟元を流れ、肌の上を這う。

 冷たさが刺のように皮膚を突き刺し、全身が一瞬にして凍りついた。


 顔を上げる。

 窓辺には三人の令嬢がいた。

 笑いを噛み殺すように唇を押さえ、レティシアと視線が合うと、まるで面白い玩具でも見つけたように顔を見合わせて笑った。

 その笑い声が、耳に焼きつく。

 何度瞬きをしても、まぶたの裏から離れなかった。


 マリアージュが駆け寄り、ハンカチを差し出しながら「大丈夫なんですの!?」と声をかけてくれた。

 だが、その手の温もりよりも、

 背中を伝う冷水の感覚と、周囲の視線のほうがずっと強く残った。

 もしマリアージュがいなければ――

 レティシアは、ただの笑いものとして、あの場に立ち尽くしていたに違いない。


 それ以来、嫌がらせは次第に形を変えた。

 ダンスの授業で使うドレスが裂かれていた。

 お茶会の実技では、彼女のカップだけが渋く淹れられていた。

 筆記試験の答案が、提出前にいつのまにか消えていたこともある。

 誰も直接手を下さない。

 けれど、誰も庇おうともしない。


 廊下ですれ違うとき、背中で笑い声が起こる。

 レティシアが教室に入ると、空気が張り詰め、

 机を拭く音ひとつが、まるで「ここはあなたの席じゃない」と告げるように響いた。


 マリアージュという侯爵家の名も、今や盾にはならなかった。

 “第一王子の寵愛を受けた低位貴族の小娘”――

 そう呼ばれる声を、何度も耳にした。

 彼女の中で何かが、静かに擦り減っていった。


 ――そして、その日は訪れた。


 「レティシア・ワイズは、王子に身体を許して王妃の座を狙ってるんですって」

 「養子上がりなのに、王子がなにも言わないからって調子に乗ってるわ」


 教室の入り口で、数人の令嬢が笑いながら囁いた。

 レティシアが通りかかると、主犯格の伯爵令嬢がわざと肩をぶつけてきた。

 身体がふらつく。

 床に落ちた書類が散り、乾いた音を立てて舞った。


 「まあ、ごめんなさい。つい……見分けがつかなくて」


 伯爵令嬢が、唇の端をゆっくりと吊り上げた。

 その笑いが、まるでナイフだった。

 周囲の空気が、凍りつくように静まり返る。

 誰も助けない。誰も目を合わせない。

 ただ、くすくすとした小さな笑い声が、床の上を這うように広がっていった。


 ――なぜ、誰も止めないの?

 ――私、何か悪いことをしたの?


 頭の奥で、何かがひどく軋んだ。

 喉の奥が熱くなり、呼吸がうまくできない。

 視界が揺れる。

 それでもレティシアは、ゆっくりと立ち上がった。

 スカートの裾を直し、髪を整え、俯かぬように顎を上げる。


 ――泣くな。泣いたら、負ける。


 唇の裏を噛み、鉄の味がした。

 自分の血の味が、現実に縫い止めてくれる唯一の証だった。


 なのに、胸の奥では何かがひび割れていく。

 恐怖、羞恥、怒り、悔しさ。

 それらがぐちゃぐちゃに混ざって、形を失い、

 やがて心の奥底で「ぱきん」と乾いた音を立てた。


 笑顔が作れなかった。

 涙も出なかった。

 痛みも、怒りも、どこか遠くのことのようだった。


 ――ああ、また、壊れたんだ。


 その実感だけが、静かに彼女の胸の奥に沈んでいった。





いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




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