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第14話 一時の気まぐれであれば



 レティシアが王子と踊った――。

 その報せを耳にした瞬間、グランツの手からペンが滑り落ちた。


 机の上でインクがにじみ、静かな書斎に黒い染みを広げていく。

 それを見ているうちに、心臓が妙に早く打ち始めた。


 「……殿下と、レティシアが?」


 信じがたい。

 ジルベール殿下といえば、若くして軍の式典にも列席し、将来を嘱望される第一王子だ。

 その名を知らぬ者はいない。

 学院の令嬢たちが彼の話題で持ちきりになるのも、無理はない。

 だが――その中で、よりによってレティシアと。


 一瞬、羨ましいと思った。

 俺だってレティシアと公式の場で踊ったことなどないのに。ドレスを着て踊る姿は、さながらビスクドールのようで美しいだろう。

 だがすぐに、その感情は自己嫌悪に変わる。

 「何を考えているんだ、俺は」

 そんな浮ついた感情より先に、胸の奥から湧き上がってきたのは、不安と焦燥だった。


 ――あの子の笑顔が、最近、妙に硬い。


 何もないように見せて、どこか遠くを見ている。

 笑っていても、瞳の奥が笑っていない。

 疲れているのかと尋ねても、「大丈夫」とだけ答える。

 夜、寝静まったあとでそっと治癒魔術をかけても、彼女の心の重さは少しも軽くならなかった。


 まるで、心のどこかに誰にも触れられない傷があるようだった。


 「……何があったんだ、レティシア」

 呟いた声が、静まり返った書斎に吸い込まれていく。


 ちょうどその数日前、リタが定期報告で上げる中にはこう書いてあった。

 「ジルベール殿下が、最近よくレティシア様を探しておられるようです」


 その瞬間、血の気が引いた。


 なぜだ?

 殿下には、いくらでも名家の娘がいる。

 彼女たちは誰もが教養も容姿も兼ね備え、王家の未来を飾るにふさわしい。

 それなのに――なぜ、よりによって、レティシアなのだ。


 王子のことは知っている。

 人前では完璧で、冷静で、非の打ち所がない。

 だが、あの笑み。

 なんだか出会った頃のレティシアにそっくりで、グランツ自身直視ジルベールをできないのだ。


 噂では、彼は必要とあらば人を駒のように動かす。

 そのためなら、微笑みながら嘘をつくこともあるという。

 王族であればそれも仕方ないのかもしれない。

 しかしまさか、そんな人間が――レティシアに。


 背筋に冷たいものが走る。

 もし、ジルベールの興味が一時の気まぐれなら。

 もし、レティシアを珍しい玩具か何かとしか見ていないのだとしたら。


 ――耐えられない。


 胸の奥がざらざらと荒れていく。

 何度も深呼吸をしてみても、呼吸が浅い。

 ペン先が震え、書きかけの書類に滲んだインクが涙のように広がっていた。


 「はぁ……考えすぎだ。きっと、考えすぎだ」

 そう言い聞かせても、心は静まらない。


 今できるのは、ただひとつ。

 レティシアを、守ること。

 誰が相手であっても、彼女を傷つけさせはしない。


 そのとき、扉の向こうから柔らかな声がした。

 「旦那様、もうすぐ夕食ですよ」

 マーサだ。


 「……ちょうどいい。少し顔を見ておこう」


 椅子を押しのけて立ち上がる。

 けれど、足元がやけに重い。

 廊下を歩くたび、胸の奥で鈍い鐘が鳴る。


 それは理屈ではない。

 ただ、長年の勘が告げていた。


 ――これは、嵐の前触れだ。


 食堂の扉を押し開けると、温かな灯りの中に、ひとりぽつんと座るレティシアの姿があった。

 広い空間の中央。食器が並ぶ白布の上で、スープの湯気だけが静かに揺れている。

 彼女は椅子に腰かけ、両手を膝の上に重ねたまま、じっとテーブルの木目を見つめていた。

 まるでそこに、誰にも見えない何かを探しているように。


 グランツが足音を立てると、レティシアははっと顔を上げた。

 一瞬だけ、その顔に春の日差しのような笑みが灯る。

 ――だが、それはあまりにも儚かった。

 次の瞬間には、その笑みの奥に薄い翳が落ち、瞳の奥にかすかな疲れが滲む。


 「……レティシア?」

 呼びかける声に、彼女は微笑みを作った。

 いつも通りの、優しく、少し困ったような笑顔。

 けれど、グランツには分かっていた。

 その笑顔が、どれほど脆い仮面でできているかを。


 食卓に並んだ料理を前に、二人は言葉少なにスプーンを動かした。

 ときおり、グランツは手の中に微細な魔力を宿し、そっとレティシアの身体へと流し込む。

 それは治癒の光。傷や疲れを癒す、ぬくもりの粒。

 けれど――レティシアの瞳は曇ったままだった。


 「今日もマリアージュ嬢と話したのか?」

 軽く問いかけると、レティシアはほっとしたように頷いた。

 「ええ。マリアージュ様は本当にお優しくて……いつも気にかけてくださるんです」


 その声は穏やかで、けれど妙に整いすぎていた。

 学院での出来事、授業での失敗談、友人たちの噂話――彼女は楽しげに語る。

 だがそのどの言葉の中にも、「ジルベール」の名だけはなかった。


 グランツは一度、あえてその名を口にしてみた。

 「そういえば……王子殿下とも顔を合わせることがあるんだろう?」


 瞬間、レティシアの睫毛がわずかに震えた。

 ほんの一瞬、息を呑むような間。

 だがすぐに、彼女は小さな笑みでその動揺を塗りつぶす。

 「ええ、でも……わたしなんて、お話しするような立場ではありませんから」

 そのまま、次の話題へと軽やかに逃げた。


 ――逃げた。

 その事実が、胸の奥に小さな棘のように刺さる。


 レティシアは嘘をつくのが下手だ。

 けれど今の彼女は、恐ろしいほど上手に、何もなかったように振る舞っている。

 その努力が、かえって痛々しい。


 グランツはスプーンを静かに置いた。

 指先に力が入る。

 護りたい。その一心で流した魔力が、ただ空しく彼女の身体を通り抜けていく。

 癒せるはずのものが、癒せない。

 焦燥が、喉の奥を焼くようだった。


 やがて食事が終わるころ、彼は思い切って問うた。

 「……レティシア。何か困っていることは、ないか?」


 その言葉に、レティシアの手が止まる。

 スプーンの先でスープをすくう手が、微かに震えた。

 そして、ほんの一瞬だけ――彼女の顔が歪んだ。

 苦しみを押し殺すように、眉がかすかに寄る。


 けれど、すぐにいつもの笑顔を作り直す。

 「なにもありません。もう……兄さまは心配性なんですから」


 その声が優しいほど、痛みは深くなる。

 彼女の「大丈夫です」という言葉が、まるで刃のように胸に突き刺さった。


 グランツは何も言えず、ただそっと手を伸ばし、レティシアの頭を撫でた。

 「……そうか。なら、いい」


 掌の下で、レティシアが小さく頷く。

 しかしその肩は、かすかに震えていた。

 ――本当は、「助けて」と言ってほしい。

 その一言を、どれほど待っているか。


 レティシアが、音もなく身を寄せてくる。

 グランツは何も問わず、静かにその小さな身体を受け止めた。

 夜の風が窓を揺らし、遠くで鐘の音が鳴った。

 その音は、まるで迫りくる運命の予兆のように響いていた。





いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


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