第13話 この学院には王子がいるらしい
──あれは、鮮烈な出会いだった。
他クラスと合同で行われた、舞踏の授業の日。
その朝、教室の空気はいつもと違っていた。
「ねえ、殿下が来られるんですって!」「わたし、絶対にお声がけいただくんだから!」
噂が噂を呼び、女子たちは早くも浮き足立っていた。鏡を覗き込み、髪の編み方を直し、リボンの色を悩む声があちこちで飛び交う。
いつも厳格な教師までもが、どこかそわそわしているように見えた。
まるで今日だけ学院が、王都の舞踏会のような空気に包まれていた。
そんな中で、レティシアは机に肘をつき、静かに息を吐いた。
ああいう浮かれた場に近寄ってはいけない――直感が、そう告げていた。
王族が関わる場では、少しの失言や立ち居振る舞いの差が、命取りになる。
まして自分はただの子爵令嬢。注目を浴びる立場ではない。
「行かないんですか?」
隣で同じく沈着にノートを閉じていたマリアージュに声をかけると、彼女はいつものように微笑んだ。
「わたくしには婚約者がおりますし……第一、王子はタイプではありませんの」
軽やかにそう言いながらも、指先はわずかに震えていた。
マリアージュもまた、この浮き立つ空気にどこか疲れているのだろう。
マリアージュからの嫌がらせが自然と止んでからというもの、二人は自然と話すようになった。授業の合間に小さく世間話を交わす程度だが、マリアージュの方はいつもどこか気を遣っているように見えた。
――きっと、責任を感じているのだろう。
おそらく守るためにいじめたわたしの孤立を。
クラスに溶け込めないわたしを、放っておけないのだ。
そんな穏やかな空気が一瞬で変わったのは、舞踏室の扉が開かれたときだった。
ざわめきが波のように広がる。
誰かが小さく叫んだ。「殿下がお越しになったわ!」
その瞬間、空気が張りつめた。
視線が一点に集まる。
マリアージュの眉がかすかに動いた。
「……やっぱり来られましたのね」
彼女の声は静かだったが、目だけが真剣に鋭かった。
王子の姿が見えるより先に、人の波が道を作り始める。
誰もが呼吸を潜め、笑みを整える。
マリアージュが小声で囁いた。
「レティシアさん、目を合わせてはなりません。注目を集めますわ」
「は、はい……」
その忠告が終わるより早く、ざわめきがすっと途絶えた。
人垣が左右に割れ、整った足音が近づいてくる。
王子が、ゆるやかに歩を進めていた。
その姿を見た瞬間、周囲の空気が一段と冷たくなったように感じた。
レティシアは、無意識に背筋を伸ばす。
彼が向かう先が――まさか、自分たちの方だとは、このときまだ思ってもいなかった。
マリアージュに倣って慌ててカーテシーをする。
スカートの裾をつまむ指がわずかに震える。
息を整える間もなく、低くよく通る声が響いた。
「こんにちは、マリアージュ嬢。王国記念祭ぶりかな?」
柔らかな声音。けれどその笑みは、まるで舞台役者のように整いすぎている。
マリアージュは礼儀正しく微笑み返しながら答える。
「ご機嫌麗しゅうございます、ジルベール殿下。こちらは高等部からの編入生でして――」
「そうなんだ。高等部から編入なんて、優秀なんだね」
王子の青の瞳が、ふとレティシアを捉えた。
ただの視線ではなかった。まるで心の奥を覗きこもうとするような、静かな圧があった。
見返してはいけない――そうわかっているのに、足が竦む。
「僕は、ジルベール・ナノグディア。君の名は?」
唐突に名指され、胸が跳ねた。
周囲の令嬢たちの息が一斉に詰まるのがわかった。
促されて、レティシアは思わずマリアージュへと目を向ける。
彼女は小さく息を吐き、仕方ありませんわね、と頷いた。
「……レティシア・ワイズでございます。マリアージュ様には大変よくしていただいております」
自分でもわかるほど、声が硬い。
「ああ、ワイズ子爵の! グランツには世話になっているよ。……それにしても、聖人グランツにこんな可憐な妹がいたなんてね」
ふとした沈黙。
それは賞賛というより、呪文のように重く空気に沈んだ。
女子たちの間に、ピキ、と氷の亀裂のような音が走る。
レティシアの頬が引きつる。王族の軽口一つが、令嬢社会では牙になる。
「可憐」と言われたその瞬間、無数の視線が敵意へと変わったのを肌で感じた。
マリアージュが一歩前に出て遮るように言う。
「っ……ジルベール殿下、少し、お戯れが──」
「今、僕はレティシア嬢に話しかけているのだけど?」
その声音は、笑っているのに命令だった。
表情は変わらず穏やかなのに、言葉の奥に拒絶を許さない力が潜んでいる。
レティシアの胸がぎゅっと縮まる。
なぜ――どうしてこの人は、初対面の自分に、こんなに興味を示すのだろう?
(怖い……)
直感だった。
彼の微笑みの奥には、興味ではなく――もっと別の何かが潜んでいる。
それは、偶然出会った女性を品定めするような目ではない。
まるで、長いあいだ探していたものを見つけた者のような、確信めいた視線。
逃げたい。けれど、逃げられない。
この場で背を向けることは、ワイズ家の名を汚すことと同義だ。
「……大変光栄でございます、第一王子殿下」
口元に微笑を貼りつけ、深く頭を垂れる。
その間にも、周囲のざわめきが波のように押し寄せてくる。
「ありがとう」
ジルベールはその一言で全てを制した。
「それでは出会った記念に、ここで共に踊る栄誉を、僕にいただけないだろうか?」
瞬間、世界が止まった。
息を呑む音があちこちで響く。誰かが小さく「え……?」と呟いた。
断る理由など、どこにもない。
ここに、彼以上の地位を持つ者はいないのだから。
「……身に余る光栄です」
その言葉を口にするまでに、心の中で何度も飲み込んだ。
差し出された手を取ると、指先に熱が走る。
まるで熱を持った氷のような、不自然な温かさ。
ジルベールの顔に、花が咲くような笑みが浮かぶ。
だがその笑みが、どこまでも完璧すぎて、怖かった。
音楽が流れ始める。
二人がホールの中央へと進むと、視線が一斉に向けられる。
刺すような嫉妬、憧れ、ざわめき。
そのすべてが、レティシアの背に重くのしかかる。
マリアージュが、遠くから唇だけで何かを言った。
――気をつけて。
王子の手が腰に添えられる。
わずかな距離、けれど逃げ場はない。
ステップが一つ合うたびに、彼の指がわずかに力を強めた。
(この人は……笑っているのに、掴んで離さない)
舞踏会の旋律の中、レティシアの心だけが、静かに悲鳴を上げていた。
――まるで、華やかな絵画の中に閉じ込められた囚人のように。
外から見れば、完璧な一幕だっただろう。
けれどその中心で踊る少女の心には、
王子の微笑が崩れないことこそが、何よりも恐ろしいことに思えてならなかった。
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