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第11話 兄が聖人であった件

 


 先日、担任のリタ先生とグランツが密談している場面を、偶然目にしてしまったレティシア。

 マーサは穏やかに諭した。「直接聞かれない方がいいかもしれませんね……」

 その言葉に、胸の奥が小さく痛む。


 ――わたしは、関われないのか。

 大人の世界には、どうしても自分の踏み込めない領域があるらしい。

 それを思うと、背筋がひりつくように冷たくなるが、同時に何か守られているような安堵も感じた。


 それからというもの、レティシアは誰とも話さなかった。

 マリアージュに目をつけられていた最初の頃、クラスメイトたちは慎重に距離を置き、身を守るように徹底していた。その空気の流れに、途中編入のレティシアは友達を作る隙さえ与えられず、孤独は知らず知らずのうちに身体の一部になっていた。


 昼休み、教室の喧騒から逃れるようにして向かう図書館。

 木の香りと静寂が混じる空間に足を踏み入れるたび、心の中のざわめきが少しずつ鎮まっていく。

 差し込む午後の光が、埃を淡い金色に輝かせ、棚の間を縫うように落ちる。ひとつひとつの背表紙が、まるで微かな光を帯びて物語を囁くようだった。


 ワイズ家の蔵書に匹敵するほどの量に、目が泳ぐ。

 一冊手に取れば、紙の匂いと重みが手に伝わる。指先に触れる感触が、どこか懐かしく、安心感を呼び覚ます。


「……卒業までに読み終わるのは無理かも……」

 小さく呟きながら、視線は自然と見覚えのあるタイトルに止まる。治癒に関する論文や書籍の数々――あの家で、何度も手に取ったものだ。

 ページをめくるたび、記憶の奥底に眠る感覚が蘇る。かつて痛みに耐え、生きることに必死だったあのときの自分。そして、命を救われたときの温もり。


 その中の最新号を手に取ると、見出しに「グランツ・ワイズ」の名が記されている。目を瞬かせ、そっとページをめくる。

 文字が光を帯びて踊るように見え、読むほどに、胸の奥が小刻みに震えた。


 治癒士最高峰の“聖人”。数多の貴族や国王から信頼される力。

 ――あのとき、ぼろぼろの状態であの家に来た自分の傷を、あっという間に癒してくれた。深く刻まれた心と身体の痛みを、何の無理もなく消し去ってくれたあの手の感触。

 当時は生きることで精一杯で、感謝を口にする余裕すらなかったけれど、今、この文字を追うだけで、胸の奥が熱く、温かさで満たされる。


 グランツ・ワイズ。子爵を継ぎ、国王や高位貴族からも信頼される高潔な人物。

 その人が、自分の戸籍上の兄である――思わず瞳が輝く。

 背筋がぞくりと熱を帯び、心臓が小さく跳ねるのを感じる。窓から差し込む光が、彼の名を刻む文字を柔らかく照らし、まるで祝福してくれているかのように思えた。


 肩越しに差し込む光と紙の香り、静寂の中に混じる自分の呼吸音。

 すべてが、胸に強く刻まれる。

 ――わたしは、この人の妹なんだ。


 その感覚だけで、世界が少しだけ広がったように感じられた。


 ふと、視線を感じる。

 ゆるく巻かれた黒髪、冷ややかな瞳。マリアージュ・ブナッティーだった。


「……レティシアさん、もしかして、聖人グランツ様にご興味が?」

「あ、えっと……?」

「やっぱりそうですのね! ああ、やはりレティシアさんは治癒の勉強をする為にワイズ家に養子入りをしたのですわ!……あ、それはもちろん、わたくしの心の中で留めておきますけど、レティシアさんは今――」


 ――その声に、レティシアの心が跳ねる。

 耐えきれず、思わず声を荒らげた。

「――あのっ、マリアージュ様、その、それは違います! 私、治癒の勉強なんてしていません!」


 マリアージュは目を大きく見開き、驚きの色を浮かべる。

「え、そうですの? レティシアさん、こんなに魔力に溢れているのに……」


 世界が一瞬、止まったように感じた。

 自分の胸の奥で何かが震える。馬車に乗り込むまでの記憶、窓から差し込む午後の光、静かに揺れる樹々の影――すべてが、夢のように重なった。


 気づけば、ベッドに入るまでの記憶はほとんど残っていなかった。

 ただひとつ確かなのは、胸の奥に残る小さな高揚と、知らず知らずのうちに自分を守ろうとした強い意志だけだった。



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