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名も無き愛玩令嬢



 物心ついた時から、世界は痛かった。

 柔らかい手のひらで撫でられた記憶はない。代わりにあったのは、冷たい声と、指の跡が残るほどの叱責。

 食事の味を覚えたこともない。食べることは、生きることではなく「罰を逃れる手段」だった。

 生まれてから一度も、自分の名前を呼ばれたことがない。呼ばれるときは「お前」か「それ」。

 “人間”ではなく、“所有物”として扱われることが日常だった。


 売られる日が十日後に迫っていると聞いたときも、何も感じなかった。

 恐怖も、怒りも、悲しみもない。ただ「次はどんな場所に行くのだろう」と思っただけ。

 両親は相変わらず、灰色の髪も、濁った瞳も、見向きもしない。

 “愛玩令嬢”――彼らがそう呼んで笑っていた。

 値段の話。買い手の嗜好。笑い声。

 灰色の空気が、肺の中まで染み込んでいくようだった。


 ――そして、目を開けたとき。


 知らない天井があった。

 窓から光が差し込んでいる。

 白いカーテンが風に揺れていた。


 ベッドの縁には、知らない男の人が座っていた。

 光に照らされた瞳が、こちらを覗き込む。

 彼は、穏やかな声で言った。

 「目が覚めた?」


 レティシアは何も答えなかった。

 その声が怒鳴り声に変わらないか確かめるように、ただじっと見つめていた。


 彼は名をグランツと名乗った。二十三歳。

 本家の娘である自分とは、遠い血の繋がりがあるという。分家の長男――従兄弟。

 記憶にはない。

 彼は笑って「昔、一度だけ葬式で会ったことがある」と言った。

 その言葉にも、なにも思い出せなかった。


 「気軽にお兄さんって呼んでいいよ」と彼は言った。

 けれど“兄”という言葉が、レティシアにはどういう意味を持つのか分からなかった。


 グランツはしばらく沈黙したあと、問いかけた。

 「君の名前は?」


 レティシアは、首を少しだけ傾げて答える。

 「名前は……ありません」


 その瞬間、彼の瞳の奥が揺れた。

 息を詰めるようにして、彼は言葉を選び直した。

 「じゃあ……今日から“レティシア”と名乗りなさい」


 それが、彼女の初めての名前になった。


 ――その名を口に出してみると、少し苦しかった。

 喉の奥が、泣くときのように締めつけられた。

 けれど涙は出ない。泣き方を、もう忘れてしまっていた。


 レティシアはゆっくりと首を傾げて尋ねた。

 ここはどこか。

 自分はなにをすればいいのか。

 どんな酷いことをされても、我慢できる。

 毒でも、水の中でも、平気。

 「だから、大丈夫です」と、ただ事実を告げるように言った。


 グランツは、その言葉に言葉を失い、しばらく動かなかった。

 やがて小さく笑って、目を細めた。

 「……してほしいことは、ないよ。強いて言うなら、レティシアは、なにをしたい?」


 なにを――したい?

 その問いは、心に直接触れた。

 だが、答えは見つからなかった。

 “したい”という感情の形が、もう思い出せない。


 沈黙のなかで、小さな音が鳴った。

 ぐぅ、と。


 レティシアの身体が硬直した。

 俯いて唇を噛む。

 お腹が鳴る――それは、恥ずべきこと。

 下品だと叩かれて、血の味がするまで床を舐めさせられた記憶。

 無意識に肩が震えた。


 けれど、怒声は飛ばなかった。

 代わりに、温かな腕が彼女の身体を包んだ。


 「お腹が空いたなら……ちょっと待っててね」

 優しい声が、耳の奥に滲む。

 「卵と鶏肉があるから、オムライスでも作ろうか。食べられる?」


 レティシアは小さく首を振った。

 「……わかりません。ごめんなさい」


 グランツは眉を下げ、柔らかく笑った。

 「じゃあ、今日からいっぱい食べて、いっぱい知っていこう」


 彼が台所に向かう音が、部屋に満ちていく。

 その間、レティシアはぼんやりと部屋を見回した。


 白い壁。木目の床。

 窓辺には、光を透かすカーテン。

 小さな棚に並んだ本や花瓶。

 花の名前は知らないけれど、淡い黄色の花弁が、やさしく揺れていた。


 ――こんなに「もの」がある部屋を見たのは、初めてだった。


 やがて、やさしい香りが漂ってきた。

 バターの焦げる匂い。温かい空気が、胸の奥まで染み込むようだった。


 「できたよ」


 皿の上には、見たこともない料理があった。

 黄色と赤が混ざり合い、まるで夕焼けのようだった。


 レティシアは手を伸ばし、掴もうとした。

 しかしグランツがそっと手を止めた。


 「ここは、あの家じゃないよ。熱い思いをして食べなくていい。……スプーン、使える?」


 首を横に振る。

 手は震えて、指先まで感覚がない。


 「じゃあ、食べさせてあげるね」


 ぎこちない手つきで、彼がスプーンを持ち上げる。

 その様子に、レティシアは――ほんの、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。


 笑ったのは、いつ以来だったのか。

 自分でもわからなかった。


 スプーンの先に触れた卵は柔らかく、口の中で溶けていく。

 あたたかい。

 ――おいしい、と思った。


 その感覚が、胸の奥を静かに震わせた。


 初めて、他人の作った料理を、美味しいと感じた。

 その一口で、レティシアという名が、ほんの少しだけ「自分のもの」になった気がした





いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




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