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絵心

 隠棲先の里で、夜比古は墨を磨っていた。

 指先に少し震えがあるのは、歳月のせいか、

 それとも長く使わなかった絵心のせいかーー。


 そこへ、引き立て派閥からの使者二名が、そっと姿を現す。


「夜比古どの。急なお願いで恐縮ですがーー」


「……私に?」

 夜比古は短く応じた。隠棲生活の静寂を乱されたくなかった。


「英賀手さまが、少々お心を乱されておりまして……」

 使者二名は、慎重に言葉を選ぶ。


「突如として、ご自身のことを、“あたくし”と呼び始めたのです。

 一旦は収まりましたが、影では変わらず“あたくし”だとか。

 これは長上による専横の現れ」


 夜比古は指先の墨を拭い、庭を見渡す。

 杜若の咲き誇る庭。


 かつて離宮の夜の庭で月光花を摘みまくり、

 ねえねに捧ぐ! と言ってはしゃぎまくりだったーー

 そんな無邪気な英賀手の孤独が、ふっと脳裏に浮かぶ。


 そうだ。英賀手は、いまやひとりぼっちなのだ。

 さぞかし心細かろう。

 言葉の揺れも、そのために発生したに違いない。


 守るべき対象ーーその名を思わず口にしてしまいそうになった。

 だが、己が戻ることで、政争を引き起こしてはならない。


「私は、戻るつもりはない」

 夜比古の拒絶の言葉。だが使者は続けた。


「もしよろしければ、宮中の絵師としてお戻りいただけませんか。

 最近手を痛めて職を辞しましたゆえ、後任には夜比古さまが。

 それならば、政争に関わることはございません」


「亡き天媛も、夜比古どのから贈られた絵を、大層喜ばれていたではありませぬか。

 今度は、英賀手さまのためにーー」


 夜比古の胸がわずかに揺れた。

 政争に巻き込まれるのは御免だ。

 しかし、絵心で人を支える。

 それならば、手を貸せるーー。


「……わかった。宮中絵師としてなら、戻ろう」


 夜比古は静かに頷いた。

 英賀手のために、動く覚悟だけは確かだった。






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